三重100名城(1)―津城、伊賀上野城
2023年12月16日
先月の東北・みやぎ復興マラソンに続き、今回はみえ松阪マラソンに出場するために、三重へ向かう。
三重の100名城・続100名城はいずれもまだ訪れていない。今回もマラソンついでに訪れることにした。
横浜から夜行バスに乗り、午前7時半、津駅に到着。朝食をとった後、8時15分発の近鉄で一駅南の津新町駅へ移動する。
津新町駅から徒歩15分。辿り着いたのは津城(続100名城 No.152)。戦国時代、織田信長の弟・織田信包が城主となって拡充し、5重の天守と小天守を築いた(現存・復元せず)。江戸時代には藤堂高虎が城主となり、城を改修して輪郭式に変更し、以後、明治維新まで藤堂氏の居城となり、津は32万石の城下町として栄える。
津城の丑寅櫓まずは裏手側の丑寅櫓(鉄筋コンクリートによる)にアクセスした後、北側の堀に出る。この堀の内側の石垣にはかつて、47間(85m)にも及ぶ北多門櫓が建っていたという。
北多門櫓が建っていた津城の北側の堀
藤堂高虎像丑寅櫓に戻り、その横の入り口から入城する。
本丸跡を少し歩くと、江戸時代に城主となった藤堂高虎の銅像が迎えてくれる。藤堂高虎の銅像といえば、愛媛の今治城でも見た。今治城のみならず、宇和島城、大洲城といった愛媛の城のほか、兵庫の篠山城築城にも高虎は関わっていて、これまでの城巡りで何度もその名を聞いてきた。さぞかし築城にたけていたのだろう。
津城天守台跡高虎像から更に奥に進むと、天守台跡がある。ここに織田信包が天守を築いたという。
西之丸に進むと、入徳門や日本庭園があり、その先の虎口を出ると、そこが津城の正面玄関だ。
津城 入徳門
津城 西之丸の虎口西之丸の虎口から橋を渡った先にある高山神社の社務所に津城の続100名城がある。社務所が開くのは9時ということでまだ少し早かったが、スタンプは社務所出入口の外に設置されていて、予定より早くスタンプを頂くことができた。
津新町駅に戻り、近鉄名古屋線、近鉄大阪線を乗り継いで、伊賀神戸へ。ここで伊賀鉄道伊賀線の「忍者列車」に乗り換えて、北へ。伊賀上野駅で下車する。
白鳳門の向こうに見える伊賀上野城天守
地下道をくぐって線路の反対側に出て、古い映画に出てきそうな趣のある校舎の小学校を前を横切って白鳳門に来ると、その向こうに伊賀上野城(100名城 No.47)の天守閣が見える。
伊賀上野城は安土・桃山時代に筒井定次が改修して3層の天守を建て、江戸時代には津城を本拠とする前の藤堂高虎が入って大改修を行い、大石垣や新天守(建築後間もなく倒壊)を築いたという城だ。のち高虎が津城に移ると、上野城はその支城として存続する。
白鳳門から緩やかな坂道を上ると大手門跡に行き着く。そこから左へ向かって更に上ると高石垣の端に出ることができるが、高さ30mにも及ぶ石垣と堀を見下ろすと目も眩みそうだ。まさに鉄壁の守り。伊賀の代名詞になっている「忍者」ですら、これを上ってくるのは至難の業だろう。
上から見下ろす伊賀上野城高石垣高石垣から堀を覗き込んで振り返った場所に、天守が聳えてる。1935年に木造で建てられたもので、大天守と小天守がセットになった格好だ。但し、本来5層だったものが復興天守は3層しかない。なのでこれは「模擬天守」ということになる。
伊賀上野城天守大天守に入城し、1階で100名城のスタンプを頂く。
折しも当時、NHK大河ドラマで徳川家康が主人公になっていたことから、天守内部では家康と絡めた藤堂高虎の功績を説明する特別展示がされていた。
伊賀上野城天守最上階
津城 西之丸の虎口天守を出て更に奥に進むと、櫓台のような石垣がある。台所門跡の遺構で、ここから奥に進むと城代屋敷跡を見ることもできる。
台所門跡からの下り坂を下って、城の北側に出る。
堀に沿って歩くが、木立に阻まれてなかなか石垣をすっきりと見ることができない。西北端の木の切れ目が、Google Mapでは「伊賀上野城 石垣ビューポイント」として登録されているが、ここからだと確かに石垣はよく見えるものの、天守がほんの少ししか見えない。ここよりも、西南端にある駐車場手前の木の切れ目の方が、高石垣も天守も両方いい具合に見ることができ、いいビュースポットだった。
伊賀上野城の高石垣と天守伊賀上野城跡は全体が公園になっていて、城の遺構の他にも、この地で生を受けた松尾芭蕉ゆかりの芭蕉翁記念館や俳聖殿、伊賀忍者関連の伊賀流忍者博物館や忍者伝承館などの施設がある。興味と時間があれば訪れてみてもいいかもしれない。
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