鹿児島・宮崎100名城(5)―佐土原城
2024年5月6日
宮崎県日南市飫肥からの列車で12時16分、宮崎駅に到着。次の城へのアクセス方法は幾つかあったが、天気が朝の飫肥から続く比較的強い雨だったことがあって、私は大きなボストンバッグを抱えてウロウロしないで済むよう、宮崎駅のコインロッカーに荷物を預けて宮崎駅⇔城をバスで往復する方法を採った。
宮崎駅西口から200系統バスで40分ほどの「交流センター前」バス停で下車すると、これから登ることになる山がすぐ目の前にある。標高72m、比高60mと大した山ではないが、この雨だ。すぐに富士登山でも使用するレインウエアにザックカバー、トレッキングポール(ストック)と雨中の登山の装備を固める。
今回訪れるのは、佐土原城(続100名城 No.196)。昨日夕方とこの日の午前に訪れた飫肥同様、この地も戦国時代に伊東氏と島津氏が抗争を繰り広げ、伊東氏は佐土原城を本拠に48の支城(伊東四十八城)を擁して最盛期を築き上るが、高城の合戦で島津義久に敗北。のち佐土原は島津の支配下となる。その当時佐土原城は山城だったが、江戸の泰平の時代になると山の下に移される。
山の上の佐土原城へと続く大手道入り口まずは山の上の城跡を目指し、「大手道」と書かれた道標の入り口から山に入る――ところが、入ってすぐの場所が窪みになっていて、雨水が川のように溜まっている。道の左右は歩ける構造になっていなかったので、やむなく足首まで「川」の中に踏み入れて強行突破したが、その後はここほど条件の悪い場所は無く、怖いものも無くなって大胆に進むことができた。
川と化した大手道入り口
「堀底道」である佐土原城の堀切佐土原城も昨日まで訪れてきた知覧城、志布志城同様、堀切を「堀底道」として歩かせる仕組みになっている。しかし近年の台風被害により大手道は迂回路を辿ることを余儀なくされており、途中の分かれ道の先にある南の城や松尾丸への道も通行止めとなっていた。
佐土原城本丸大手道の登城口から山の上の本丸へは15分ほどで到着することができた。南北2つのエリアがあり、手前の南側は幅70mほど、奥の北側は奥行き60mほどと、かなり広々としているが、どこに建物が建っていたかは草が生い茂っていて殆ど分からない。そして草で分かりにくかったことがもう一つ――草の下はほぼ全域が雨で水浸しになっていて、水溜りの中を歩いているような状況だった。
佐土原城天守跡本丸の一番奥には、天守跡とされる建物の痕跡があり、石積みなどを見ることができる。草が生い茂っていてはっきりとは見て取れなかったが、四角く盛り上がっている様子は何となく分かった。
古い絵図にはこの位置に天守が描かれていたらしいが、何層だったのかなど、詳しい構造はまだ分かっていないとのことだ。
帰りは来た時の大手道とは別の「中の道」経由で下山する。
二の丸御殿の一部を復元した佐土原歴史資料館・鶴松館
鶴松館内部先に書いたように、佐土原城は江戸時代に山の下へ移されたのだが、その当時の二の丸跡には、二の丸御殿の一部を復元した鶴松館が築かれ、佐土原歴史資料館として公開されている(土日祝のみ営業)。ここで続100名城のスタンプを頂き、バスの時間までの短い時間だったがちらりと覗かせて頂いた。
来た時と同じ系統のバスで宮崎駅に戻り、JR日豊線で1時間40分かけて宮崎県南部から一気に宮崎県北部の延岡へ。宮崎全体を襲った雨は延岡に着いてもなかなか逃がしてはくれなかったが、夜になってようやく勢いが落ちてきた。
明日は朝から延岡の名城を訪れる予定だ。
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