鹿児島・宮崎100名城(3)―志布志城
2024年5月5日
鹿児島市から次の名城がある志布志へ。同じ鹿児島県とはいえ、鹿児島は薩摩半島、志布志は大隅半島の太平洋側と結構離れている。しかもこの区間は1987年に国鉄志布志線が廃線となって以降、鉄道でアクセスしようとすると宮崎県南部の都城、宮崎、日南を経由とかなりの遠回りになってしまう。従ってバスでの移動ということになり、鹿児島からは「さんふらわあライナー」或いは鹿児島空港からの空港バスがある。私はスケジュールを考えて空港バスを利用することにしたが、空港まで出るよりもJR日豊線で国分駅まで行って霧島市役所もしくは国分駅入り口バス停から途中乗車した方がスムーズそうだったのでそのルートで行くことにした。
10時34分に鹿児島中央駅を出発して11時23分に国分駅着。歩いてすぐの霧島市役所から11時32分の空港バスに乗り、志布志駅(JR日南線)には13時すぎに到着した。
この前年に駅に設置されたばかりのコインロッカーに荷物を預け、駅舎に併設されている志布志市総合観光案内所で目指す城の案内図を頂き、レンタサイクルを借りていざ、志布志城(続100名城 No.197)探訪へと出発する。
志布志城は志布志の海岸すぐの山の上に築かれた内城・松尾城・高城・新城の4つの城郭の総称で、南北朝時代には内城・松尾城が築かれていたとされる。12世紀から救仁院氏、楡井氏、畠山氏、新納氏、肝付氏が入れ代わり立ち代わりこの地を治め、1577年、志布志は島津氏の直轄地となった。
まずは城とは逆方向の西へ。志布志市埋蔵文化財センターに赴き、続100名城のスタンプを頂く。
志布志市埋蔵文化財センターに展示されている志布志城内城のジオラマそして当センターで見るべきは、志布志城内城のジオラマである。志布志城が建つ山がいかに切り立っているか、縄張の構造がいかに入り組んでいるか、空堀がいかに深いか等々、現地に行く前に予習することができた。
埋蔵文化財センターから今度は東へ。国道448号から脇道に入り、前川の手前で左折して北へ向かえば志布志城――なのだが、ここでは回り道をして前川の向こう岸に渡り、川沿いを走る。宝満橋の辺りから志布志城を頂く山々が並ぶ風景を見ることができるので、それを見て撮影するためにちょっと寄り道をしたのだ。
志布志城を頂く山々再び川を渡り、突き当りの小学校わきにある志布志市麓地区駐輪駐車場へ。ここが言わば志布志城巡りのベースキャンプとなる場所だ。
駐車場から100mほど北へ歩くと「国指定史跡 志布志城(内城)跡→」という看板がある。それに従って坂を上った先が、志布志城の中でも最大で、最もよく整備されている内城への登城口だ。
入ってすぐに坂を上がると、まず「矢倉場」跡が出迎えてくれる。「矢倉」とはその名の通り武器庫だが、即ち「櫓(やぐら)」ということである。
志布志城内城・矢倉場跡
矢倉場下に切り込む空堀上ってきた時とは違う下り坂を見下ろした私は、思わず
「何だこれは?」
と大声で叫んでしまった。眼下には恐ろしいほど深く切り込まれた空堀が横たわっていた。
前日に訪れた知覧城同様、志布志城もシラス台地に深い空堀を穿って曲輪を区分けした山城なのだ。そして、これも知覧城同様、この空堀が城を巡り歩くための「堀底道」となっている。
志布志城の曲輪を分かつ搦手口の深い空堀この空堀が、志布志城の醍醐味だ。10mを超える深さもさることながら、幅が知覧城の空堀よりも狭い分、左右からの圧迫感が強烈である。中でも、矢倉場から東側のルートを更に奥へ入った場所の搦手口の空堀はシラス台地をまさに「切り裂く」ように掘られていて迫力満点だ。
搦手口の空堀に隣接する中野久尾(くび)は、南北2つに分かれた、志布志城で2番目に大きな曲輪だ。周囲には立派な土塁も残っている。しかし、曲輪内部は草茫々で余り深入りはできなかった。更に奥にある最大の曲輪・大野久尾は、一度発掘されて埋め戻されたようで、中野久尾以上に草茫々で中に入ることすら拒まれた。
志布志城内城・中野久尾
志布志城内城・大空堀大野久尾から西側の空堀を南へ進むと、志布志城の中でも深さ17mと随一の深さを誇る大空堀を通過する。そこからもう一度東側の道に抜け、先程の搦手口の空堀から高台に上ると、そこにあるのがいよいよ、志布志城の本丸だ。
志布志城内城・本丸本丸広場は50m四方ほど。よく整備されていて、中野久尾や大野久尾のような草茫々ではない。建物の痕跡は無く、日差しが程よく降り注ぐ程度に間隔が空いた林になっている。
志布志城内城・本丸の三宝荒神が祀られた高台
北側の端には、かつては櫓台だったのだろうか、一段高い場所にちょっとした広場があり、上ってみると、仏法僧の三宝を守護するという「三宝荒神」の祠が祀られていた。
本丸から一段下がった「曲輪3下段」に移動。木々に覆われた曲輪だが、観光マップに「展望スポット」と書かれている場所があったので行ってみると、確かにそこだけ木の枝に隙間ができていて、景色を展望することができる。志布志の街のすぐ向こうに志布志港が横たわり、志布志と大阪を結ぶフェリー「さんふらわあ」の姿を見ることもできた。
そう、志布志はまさに海運の拠点。この「港」の存在こそが、このように大規模な城が築かれるほどに志布志が重要視されたゆえんなのだろう。
志布志城内城から望む志布志港
志布志城内城・曲輪2上段空堀を隔てて本丸に隣接する曲輪2を抜けたところで大手口に戻り、内城巡りは終了。まだ時間があったので、すぐ西に隣接する松尾城にも上ってみることにした。
松尾城の登山道は内城の堀底道よりも急峻で、特に頂上の曲輪に到着する直前の急坂には上るのも下るのも一苦労させられた。
志布志城松尾城の登山道
志布志城松尾城の石垣頂上の曲輪の虎口には石垣のようなものを見ることができた。石垣は内城でもお目にかかることは無かったが、これは城の遺構なのだろうか?
曲輪は奥行き10mほどの小さなもので、極小の祠と、ここに居していた鎌倉末期~南北朝時代の武将・楡井頼仲の碑が立てられていた。
志布志城松尾城の頂上の曲輪松尾城の縄張は更に奥へと広がっているようだが、道を確認することができず、探訪できたのはここまで。
志布志城は内城・松尾城のほか更に西に隣接して高城があるが、こちらは登城できず、更に西の新城は学校の敷地となっていてこちらも山を見るだけに留まった。
先述したように、志布志は鹿児島市方面の鉄道は閉ざされてしまったが、宮崎方面にはJR日南線が延びている。志布志城で鹿児島の100名城・続100名城は全て探訪できたので、次は宮崎だ。私は16時30分発の日南線の列車に乗って鹿児島県に別れを告げ、次の宮崎県へと向かった。
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