バス憧れの大地へ

日本100名城

100名城探訪記

鹿児島・宮崎100名城(1)―知覧城、鹿児島城

2024年5月4日

午前10時少し前、羽田からの日本航空便が鹿児島空港に到着。今回は鹿児島と宮崎の100名城・続100名城を巡る。
空港から鹿児島中央駅に移動してこの日の宿に荷物を預け、バスで薩摩半島南部にある南九州市知覧へ向かう。これから向かう城へは中郡バス停で下りるのが最短だが、せっかくなので1つ手前の武家屋敷入口バス停で下車して、知覧武家屋敷通りを江戸時代の情緒を楽しみながら歩いて進む。 知覧武家屋敷通り
知覧武家屋敷通り
知覧城を頂く山
知覧城を頂く山
武家屋敷通りを西に抜けたところの丁字路で左に曲がり、南に1㎞ほど進んだところで更に右折した先に、今回目指していた知覧城(続100名城 No.198)を頂く山があった。
知覧城は平安時代末にこの地の郡司・知覧忠信が構えたのが始まりとされ、室町時代以降は島津氏の分家である佐多氏が代々治めてきた、標高170mのシラス台地上に築かれた広大な山城だ。江戸時代初期に焼失して以降建築物は再建されていないが、切り立ったシラス崖や空堀で区分けされた曲輪の様子は今でもはっきりと残っている。
案内標識に従って、本丸へ向かう通路を歩く。やがて「空堀」と書かれた看板が現れた。
[空堀?どこだ?]
通路の左右を見ても、それらしきものは見当たらないが――しかし、私はすぐに自分の勘違いに気が付いた。
今自分が歩いている「通路」そのものこそ空堀だったのだ。いわゆる「堀底道」という奴である。確かに両側が切り立っていて、ここが堀の底であることに気づく。敵の軍勢がここを通れば上から石などで攻撃をするという寸法である。 堀底道になっている知覧城の空堀
堀底道になっている知覧城の空堀
知覧城本丸を頂く切り立ったシラス崖
知覧城本丸を頂く切り立ったシラス崖
堀底道はやがて右に分岐する。本丸への上り道は右に行った先だ。
するとそこには、白い岩肌をむき出しにした高さ数十mにもなる崖が切り立っていた。この白さは、火山噴火の噴出物が堆積してできた大地――即ち、シラス台地を示すものだ。
細い登城道を歩いて本丸の上へ。この細い通路で攻撃されたら一網打尽だ。 「知覧城」の石碑が建つ知覧城本丸
「知覧城」の石碑が建つ知覧城本丸
上った先では「知覧城」の石碑に出迎えられ、広い本丸広場が横たわっていた。下が切り立った崖になっている縁には土塁が築かれていて更に防御を固めている。 知覧城本丸縁の土塁
知覧城本丸縁の土塁
知覧城蔵之城
知覧城蔵之城
知覧城中心には本丸のほか、蔵之城、弓場城、今城が、いずれも深い空堀に隔てられて屹立している。曲輪跡はその周囲にも広がっているが、これら4つの城とは違い整備されておらず、登城には適していない。 知覧城弓場城
知覧城弓場城
知覧城今城
知覧城今城
シラス台地という自然を生かした要害――その迫力と強固さに圧倒される城だ。建物は一切残っていないが、曲輪の跡だけでも在りし日の様子を想像するのは容易なことだった。
城跡を心行くまで満喫したところで、20分ほど歩いた場所にあるミュージアム知覧を訪れる。続100名城のスタンプを頂いたほか、展示された知覧城の模型を俯瞰して、更に知覧城への理解を深め、在りし日への想像力を働かせる。 ミュージアム知覧の知覧城模型
ミュージアム知覧の知覧城模型
ミュージアム知覧に隣接して、知覧特攻平和会館がある。太平洋戦争末期に行われた愚行・特攻はここ知覧を本拠としていたのだ。
展示には大破した戦闘機のほか、隊員たちの遺書が多くあり、勇ましいことが書かれているものも少なくなかったが、どこまで本音だったのか。そう言わされた、同調圧力、ということも少なくなかったのではないだろうか?
ここを参観してあらためて思ったのは、特攻ほど愚かな人間の・命の無駄遣い・使い捨ては無い、ということ。日本は勿論、全世界で、特攻などという命の無駄遣いが二度と行われないことを願ってやまない。 知覧特攻平和会館
知覧特攻平和会館
知覧特攻平和会館に展示された、大破した戦闘機
知覧特攻平和会館に展示された、大破した戦闘機
バスで知覧を後にして鹿児島市に戻り、市電に乗り換えて向かったのは次の城・鹿児島城(100名城 No.97)。江戸時代に薩摩藩藩主の居城となった城だ。
2020年に復元された御楼門をくぐり、城内へ。閉館時間ギリギリの17時59分に鹿児島県歴史·美術センター 黎明館に滑り込み、閉館時間を知らせるチャイムと同時に100名城のスタンプを頂くことができた。 鹿児島城御楼門
鹿児島城御楼門
18時を過ぎたとはいえ、時期は夏至まであと1か月。しかも場所は関東地方よりも日没時間が30分も遅い西国・鹿児島。まだ十分に明るいので、できる限り鹿児島城を見て回った。
復元された御楼門を除き、当時の建物は残っていないが、本丸を囲む堀と石垣が当時の様子をしのばせる。 鹿児島城の内堀と石垣
鹿児島城の内堀と石垣
西南戦争の弾痕
西南戦争の弾痕
その石垣だが、御楼門の内側や、内堀外側の「私学校跡」あたりでは、無数の凹みを確認することができる。これは1877年、西郷隆盛と明治政府軍が激しく激突した西南戦争の爪痕だ。その時の弾痕が150年の時を経てなお残っているのである。
西南戦争は「日本最後の内戦」である。これを見て私の心によぎった思いは、先程の知覧特攻平和会館同様「不戦の誓い」だった。

コメント(0)

コメントする

<新着記事>

Google

WWWを検索a-daichi.comを検索
お勧めメディア(Amazon)
旅PHOTO―旅人からの贈り物