バス憧れの大地へ

雑記ブログ

アースデイ東京2009

4月18、19日の両日、東京・代々木公園で「アースデイ東京2009」のイベントが行われました。
この日はその初日。午前はまだ人もまばらでしたが、午後には大勢の人で賑わいました。

多くの団体がブースを出し、いろいろな形で「地球」「環境」をアピールしています。
アースデイ会場
・・・あれ?
何か見覚えのあるものが・・・
チベット国旗が
あ! チベット国旗

実は、チベット支援団体もアースデイに参加していたのです。

参加したのは、

Student for a Free Tibet Japan
Students for a Free Tibet Japan
チベット教育サポート基金
チベット教育サポート基金


チベットサポートグループKIKU
チベットサポートグループKIKU
チベコロ
チベコロ



の4団体。それ以外にも、チベット関連では、ジュレーラダック(インド北部ラダック地方のサポートをしている。ラダック地方はチベット文化圏のひとつ)、アップリンク(チベット関連の映画を上映中) が出展しました。

チベットブースには、こんな素晴らしい目印も・・・
素晴らしい目印

各ブースとも、グッズを販売したり、チラシを配ったり、写真を展示したりして「チベット」をアピール。チベット人死刑判決撤回とパンチェン・ラマ11世の解放を求める署名活動も行われました。
私はどの団体にも属していませんが、チベットで撮った写真の中からチベット問題をアピールできる写真を選んでA4に引き伸ばしたものを持参し、SFTJさんのブースに置いてもらいました。

アースデイのイベントは19日(日)も行われますので、ぜひチベットブースに足をお運び下さい。
チベットブースは会場北側、陸橋の西側になります。渋谷・NHKホール側からだとケヤキ並木が大変混雑しますので、JR原宿駅、東京メトロ千代田線・副都心線明治神宮前駅、千代田線代々木公園駅、小田急小田原線代々木八幡駅からのアクセスが比較的便利です。
(イベントは終了しました)

※参考ページ
 ⇒弊サイト「チベットの環境破壊

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殺生戒を踏みにじるチベットの文革―「看不見的西蔵」より

チベット問題を訴えるサイトやブログは数あまたあるが、中国発(サーバはアメリカに置かれているが)の中国語によるという、稀有なブログがある。

看不見的西蔵 ― Invisible Tibet (見えざるチベット)

作者は、ツェリン・ウーセル
北京にいながらチベット現地とコンタクトを取り続けて真実の情報を収集し、世に訴えるチベット人女流作家である。
ウーセル女史の詳しいプロフィールはこちら

前々から存在は気にしていたが、今や衰えを隠せない私の中国語力では読むのがしんどく、きちんと読まずに過ごしてきた。
ところが先日、「チベットNOW@ルンタ」さんでこのブログの翻訳をお願いする記事が掲載されているを見かけ、「ここは一肌脱ごう」と考え、「看不見的西蔵」のある記事の翻訳に取り掛かった。
今年1月に「08憲章」の翻訳をやって以来の中文和訳となったが、あの時よりも文章がやや難しく、辞書に首っ引きとなった。また、チベット人の名前について漢字からなかなか正確な発音が掴めず、苦労した。いずれも、mixiで交流のあったチベットサポーターの方の多大な協力もあってようやくクリアし、翻訳を完了させることができた。

既に「チベットNOW@ルンタ」さんに全訳が掲載されているが、折角なのでここでも紹介することにする。

記事の内容は、文化大革命時におけるチベットでの迫害の様子を描いたものである。

2009年4月9日
殺生戒を踏みにじるチベットの文革

ここに掲載した文と写真は、以前のブログ「深紅色の地図」で発表したことのあるものである。あれは昨年の4月24日のことだった。
今回、再度ここに掲載する。歴史は忘れてはならない。なぜなら、歴史は繰り返されているのだから…

ウーセル:

1957年―1959年の間にチベット全土で絶えることなく発生したチベット人による反中国共産党政権武装反抗が鎮圧された後、文化大革命の期間中、中国共産党軍は各地で殺生戒を踏みにじる。

当時、まず行われたのが「反乱分子」の殺害だった。例えば、1969年3月に端を発した、チベット・チャムド地区、ラサ市近郊の県、シガツェ地区、ナクチュ地区等の地で相次いで発生した暴力事件がある。これらの事件は「反革命暴乱事件」と呼ばれ、当時「再叛」(1957年―1959年の反抗が第1 次”叛乱”とされる)と位置づけられた。これは「再叛」ではなく文革期間中の造反派組織間の武力闘争だとする見方もあるものの、軍隊は「叛乱平定」の名の下で鎮圧を行っていた。いわゆる「再叛」平定は実際のところ、殺戮の軍事行動が終了した後、即ち大規模な逮捕・拘禁・処刑だった。ニェモ県でのチベット人抗争を指導した尼僧ティンレー・チュドゥンはチベット人に知らぬもののいない「反動分子」とされた。1970年2月上旬あたりだったか、この日ラサ中の人々が公判大会の「会場」と南郊外の川原の処刑場に連れ出され、目も覆わんばかりの「階級教育」を受けさせられた。暗い赤色のプル(チベット産毛織物)のチベット民族衣装をまとったティンレー・チュドゥンは、体はやせ衰えていた。彼女は批判闘争にかけられ、その後彼女と17人のチベット人に第1回の公判判決が言い渡された。この写真はまさにその時の公判と処刑の現場のものである。

公判大会
(『看不見的西蔵』より)

「ラサ競技場」の名を持つ「ポ・リンカ」。その広大な空き地は数万人を収容できる公判大会会場となった。殺人の刑場は幾つもあった。セラ寺の鳥葬場、シェンド発電所隣の鳥葬場、蔡公塘の鳥葬場、グツァ刑務所隣の鳥葬場、南郊外の川一帯だ。説明しよう。鳥葬場近くで死刑を実行するのは死者をチベット伝統の葬儀の習慣に則って鳥葬に付すことができるからではない。なぜなら、鳥葬の習慣は「四旧」の一つとされてとうに禁止されていたのである。解放軍軍人による銃声の中、彼らが前もって掘っていた穴の中に一人の「先発反革命分子」が倒れ、その後土で蓋をされる――即ち土の下に埋葬された。中には足の裏が外にむき出しになっていて野良犬に食いつかれた者もいた。

公判大会
(『看不見的西蔵』より)

当時、「叛乱分子」殺害のほか、「叛国分子」殺害も行われていた。当時、文革の恐怖と貧困に耐えられず近隣国に逃れる人々が少なくなく、不幸にして捕まり「叛国分子」の罪名で罰せられる者がいた。トゥプテン・ジグメという名の若者――ラサ高校66班の学生――とその恋人の華小青(チベット人と漢人のハーフ)が逃亡の際に捕らえられた。華小青は獄中で所員に強姦され、その夜自殺した。トゥプテン・ジグメは公判にかけられ処刑された。彼の同級生の一人は当時の目を覆いたくなる光景を今も忘れられずにいる。「トゥプテン・ジグメが銃殺されたあの日、私たちは見ました。彼が街中を引きずり回されている時、私たちはこの目で、彼ががんじがらめに縛り上げられ、背中にプラカードを掛けられ、首に縄をかけられて今にも絞め殺されそうになるのを見てしまったのです。その実、彼はもう絞め殺されていました。処刑場に着いた時にはもう死んでいたのです。顔は膨れ上がって青白くなっていました。あの時の彼は、まだ20歳になったばかりぐらいだったのに」

かつては中国共産党の協力者だったのが文革時には「妖怪変化(文革時に旧地主や旧資本家、学会の権威などがこう例えられた)」におとしめられた貴族官員サンポ・ツェワン・リクジンの息子も「叛国」の罪で銃殺された。彼は20歳前後の足の不自由な青年だった。彼と一緒に逃亡を試みた2人の若者も銃殺された。やはり「ラサ競技場」で公判にかけられた後判決を受けた。聞くところによると、彼は銃殺前に既に撲殺されていた。ある者は自殺だと言う。いずれにせよそれにもかかわらず、彼の遺体はなお銃殺にかけられたのである。

いわゆる「叛国分子」の中には、海外に逃れようと計画しただけで殺害の憂き目に遭う者もいた。ロカ地区ギャツァ―チュスム間のポータンラ山での道路工事の際、「領主」或いは「代理人」に属する家庭出身の何人かの若者が苦しい生活と精神への圧迫に耐えられず、国境を越えてインドに逃れようかという考えを会話の中で吐露したところ、一人の同僚に密告され、道路工事班の指導者が即座に上へ報告し、ラサから派遣された解放軍軍人がその何人かの若者を全員逮捕した。程なくして、ドンジュ(16歳)とツドゥ(14歳)が公判にかけられて銃殺され、ソナム・ロツァ(18歳)が獄中で撲殺された。1950年代の間、中国共産党に「愛国上層人士」と讃えられた活仏ツァワの外甥(16歳前後)は20年の判決を受け、のちに釈放された後インドへと去り、それ以来戻っていない。

見せしめの様子
(『看不見的西蔵』より)

一人を殺して大勢の見せしめにする効果を挙げるため、当時盛んに行われていた方法に以下がある。
1. 死刑判決の布告を至る所に貼り出し、判決を受けた者の写真或いは名前の上に人の目を引く赤い×印を描く。
2. 群衆の面前で公判大会を行い、判決を受ける者の親族は必ず最前列に立たせ、公判後は警察と兵士の手でトラックに乗せられ沿道にさらし者にされ、それから刑場に戻って銃殺に処される。中には刑場に着く前に首にかけられた縄でしめられて死んでしまう者もいた。親族は遺体を引き取ることを許されず、それどころか銃弾代を支払わされ、挙句には党が「階級の敵」を消滅させてくれたことに対して公開で感謝の意を表しなければならなかった。多くの人は虐待に耐えられず獄中で自殺し、また酷い刑罰を受けて死ぬものも多くいた。

1970年及び1971年に銃殺された人の人数について、私が以前取材したチベット造反派「造総」司令の陶長松が語った。銃殺された人のうち1969年のいわゆる「再叛」で法廷から銃殺の判決を下された者は295人。後にその295人のうち、誤って殺されたと認められた者が出て名誉を回復され、その家族に 200元、800元の「慰謝料」が支払われた。これについて、元「造総」司令の陶長松は聞くに悲しい話を語った。

「チベット族の人々は極めて従順で、彼らを銃殺した時、『トゥジェチェ』(チベット語で『ありがとう』)と言い、200元を支払った時にも『トゥジェチェ』と言い、800元を支払った時もまた『トゥジェチェ』と言っていた。彼らチベット族の人々は実に可哀想だった」

私が以前取材した「再叛」調査グループの責任者ドルジェは、この数字をはるかに越えていると考えていた。彼が言うには、1970年に「毛沢東思想学習班」をやっていた時に多数の人々が殺された。「バンパル、テンチェン2県だけで100人以上に上った……これが第1弾の処刑で、既に死刑判決が下されていたために本来なら2度、3度の処刑でその度に数百人が殺される予定だった。ところが第1弾の処刑後、第2弾は認められなかった。拡大化の傾向が見えていたのかもしれない。73年に私たちが政策を実施しにバンパルに赴いた時、死刑執行を待つ者、既に獄に繋がれて無期懲役の判決を下された者、15年、18年、最低でも10年の判決を下された者は、私が訪れたあの郷だけでも多数いた」。その他、現地で働いていたあるチベット人もこう語っている。「バンパルの再叛と言えば、1回の公判で銃殺されたのは90人以上だった」

しかしながら、銃殺された大多数が未だ名誉回復をされていない。当時の「赤の恐怖」を経験したあるチベット人はこう吐き捨てる。「こんなにたくさんの殺人事件で、私たちチベット人の心は恐怖に打ちひしがれている。私たちが受けた傷は深く、共産党への信頼も無くなった。だから、87年、89年のいわゆる“騒乱”も実際のところ、これらの傷害と関連しているのだ」

文革の酷さは既にいろいろな所で読んでいるので、今更驚きはしない。
ただ、冒頭に書かれている「歴史は忘れてはならない。なぜなら、歴史は繰り返されているのだから…」という一言[※]が意味深長である。

そう。チベットでは同じ位酷い抑圧が今でも続いているのである。
中国共産党の人の命を重んじない体質が今も当時も変わっていないことをこの一言がさりげなく示しているのだ。

チベットだけではない。1989年の天安門事件もその表れだろう。あの事件は既に20年前のものだが、同じようなことが中国共産党政権下で再び行われれば、また「歴史は繰り返される」のではないか。

今の政権の体質を、或いは政権そのものを変えない限り、チベットの、また東トルキスタンの、南モンゴルの、そして中国そのものの人々の前途に光は見えない――あらためてそう思わされた。

 

今回の作業で、ウーセル女史のブログをもっとじっくり読みたい、そして、もう一度中国語を頑張ってみるか、という思いがわいてきた。
せっかく学んだ中国語だ。生かせる所で生かさなければ。

 

[※]白状すると、私は当初、この部分の「在」一文字を見落として「歴史は繰り返すのだから…」と訳していたが、上記の協力者のご指摘でとんでもない誤訳をしていたことに気がつかされた。たった一文字で文の持つ意味は大幅に変わるものである。翻訳するということ、文章を書くということは、げに難しい。

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チベットトーク―モーリー・ロバートソン&福島香織

以前お伝えしたチベット映画「雪の下の炎」「風の馬」が昨日10日から東京・渋谷UPLINKにて本公開されました。
本日は「風の馬」の上映+トークイベントがありました。

映画の内容は以前の記事を参照していただければと思いますが、何度見ても胸が痛くなります。

上映終了後すぐ、トークイベントが始まりました。

爆裂トークを展開したのは・・・

モーリー・ロバートソン
日米ハーフの米国籍だが、完璧な日本語でJ-WAVEやポッドキャスト(i-morley)でラジオパーソナリティを務める。
2007年2~3月、チベットに渡って現地から生情報をポッドキャストやインターネットラジオで発信するというプロジェクト・チベトロニカを展開。「3日ぐらいで規制が入るだろう」と思いつつ始めたらそのまま無事プロジェクトを全うする。

福島香織
産経新聞政治部記者。前赴任地は中国・北京総局で、ブログ・北京趣聞博客(ぺきんこねたぶろぐ) [1]でチベット問題に対して鋭い指摘を続け、アンチCNN(http://www.anti-cnn.com/)[2]で中傷を受けるほどの反響を呼ぶ。

トークはチベット問題の報道について、モーリー氏が話題を振って福島氏が報道の表裏について語るという流れが基本で行われました。

福島氏は
「2008年3月の騒乱の時に、チベット人女性とコンタクトから情報をもらうが、余りにもCCTVなどの報道と違い、何が本当なのか分からなくなった」
「公式発表と現場の情報が食い違っているが、調べがつかない。新華社などがはっきりと報道されているのを見ると『一面あり得るかな』と思ってしまう」
「日本の記者は取材妨害に遭っても『中国だから』と諦めてしまうが、欧米人は屈しない」
「圧力を受けた現場の人はそれを報道してほしいが、上層部の判断で報道されないことがある」
「(コキントウが来た時に日本のメディアがチベット問題に触れずに傍観していた、というモーリー氏の指摘に答えて)コキントウが来たとか何をしたとか、公式に発表されることが優先的に報道される。よく分からないチベット問題は後回しにされる」

など、いろいろな問題点を指摘。

モーリー氏が
「報道で『mixiの○○さんによると・・・』とか『i-morleyによると・・・』とかもあってもいい」
と言うと、福島氏が
「そういうのがあっても面白い。『APによると・・・』『ロイターによると・・・』『新華社によると・・・』とかいうのはよくやるけど、『ラジオFree Asia[3]によると・・・』はやらない。でも、情報はこっちの方が早いんですよ。昔は、そんな所からのクオートはできない、という思いがあったけれと、いつか(最初は飛ばしが多かった)『大紀元[4]によると・・・』というニュースが流れる日が来るかもしれない」
と話すなどの一幕もありました。

思わず爆笑の渦となってしまうような裏話もありました。

<本日の最大爆笑>
福島氏
「(中国では)電話の盗聴は基本的には私たちのような仕事には24時間にやっていると思う。(盗聴の結果)ブチッと切れるようなことはしょっちゅうあって、時々盗聴している人から『そんな下らないことを話すな!』という罵声を浴びた後に切られたことがあった(笑)」
(福島氏によると、そうすることで『盗聴しているぞ』という圧力をかける効果もあるのだとか)

話は白熱する一方でしたが、残念ながらあっという間に時間となって終了。

ラウンド2はi-morleyで!!(モーリー氏)

本当ですか?? 期待してますよ!!

※            ※            ※

いやー、痛快だった(^o^)

[1]現在のブログ名は「北京・平河趣聞博客(ぺきん・ひらかわこねたぶろぐ) 」
[2]チベット騒乱をきっかけに、北京市民が自主的に立ち上げたとされるウェブサイト。西側メディアの“誤報”を微に入り細をうがち、中には写真までつけて詳しく説明している。西側の報道姿勢を激しく批判する論調は中国政府の最近の主張と、まったく同じだ。(産経新聞)
[3]米国議会の出資によって設立された短波ラジオ放送局。放送局は民間の非営利法人が運営しているが、放送理事会(BBG)の管理下にある。「国内メディアを通じて、完全で均衡のとれた報道へと定期的に接することができないアジアの聴衆者に対し、ニュースとその関連情報を放送する」こと、及びに「放送と聴衆者参加プログラムを通じて、RFAは多くの各アジア人民に欠乏している、ある事物に対する批評意見への見聞きを充足させる」ことを目指している。(Wikipedia
[4]ニューヨークに本部を置き、主に中国語で新聞を出版しているメディア。 大紀元は「気功」などで知られる新興宗教「法輪功」(筆者註:中共当局から『邪教』呼ばわりされて迫害を受けている)と関連した報道機関であり、 同社が発行する大紀元時報新聞では、中国共産党の言論統制に従うことなく、同党に批判的、反体制的な記事を多く掲載している。報道内容は法輪功の主張に沿ったものであり、中国共産党に肯定的な報道は全くない。各国の主要メディアが引用する事は滅多にない。(Wikipedia

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チベットの“受難”―歴史と文化学習会

2月8日に続き、チベットの歴史と文化学習会に参加してきました。

今回の内容は、

(1)講座「チベット仏教の潮流」第2回「仏教のチベット的展開」
講師:吉水千鶴子(筑波大学人文社会科学研究科哲学・思想専攻准教授)

(2)チベット報告「受難ということ」
報告:渡辺一枝(作家)

(3)緊急報告「国境線リポート」
報告:野田雅也(フォトジャーナリスト)

(4)基調報告「Tibet2009 vol.2…チベットの政変から60年」
質疑応答:長田幸康(ライター、I love Tibet! ホームページ 主宰)

といった具合。

吉水先生の講座は、チベット王朝分裂(842年)~ゲルク派の成立(1409年)のチベット仏教史について。この時期の仏教の復興と宗派の成立、仏教の多様化について分かり易く説明していただきました。
(『チベット問題』のコンテンツにいつか追加予定である『チベットの歴史』にこのへんの内容を盛り込んでいく予定です)。

渡辺一枝さんのお話は、今回も印象深かったので締めで紹介することにします。

野田さんの「国境線リポート」は、チベットの人たちが亡命する際に通過するネパール国境を現地取材したリポート。私も通ったことのあるダムコダリの国境の様子や凍傷で足の指や膝から下の脚を失った人たちの話や2008年3月を境に国境を越える人が激減したことなどを交えて国境を越えることの困難さを、またネパールでマオイスト政権が成立したことでネパールのチベット難民たちが危機にさらされていることやチベット人強制送還の”ビジネス”が成り立っている可能性など、亡命後もなお困難が続いている状況を話して下さりました。

そして、質疑応答やTake Actionへの参加呼び掛けなどを行った後、今回の学習会は締めくくられました。

次回は夏ごろに行われるとのことです。

最後に、渡辺一枝さんのお話の一部を要約して紹介させていただきます。

 

あなたの一番大切なものが蹂躙されたということを想像してみて下さい。

チベットでは各地に山や湖など、その地の産土神として崇拝されているものがあります。
それらが今、次々と壊されているのです。

チベット人にとって最も苦しいのは信仰を禁じられていることです。
仏壇を置くな、ダライ・ラマの写真を持つな・・・「~するな」は手を変え品を変え、何とかすることもできます。
しかし、

ダライ・ラマの写真を踏みなさい、破りなさい、燃やしなさい
ダライ・ラマを批判する作文を書きなさい

これを強要されたら死ぬしかない、という、やりたくないことをやらされている、ということが日常頻繁に行われているのです。

これを”受難”と言わずして何と言うのでしょうか!

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不当判決を許すな!―2008年3月の騒乱でチベット人4人に死刑

見せしめが行われようとしています。

チベット:ラサ暴動 4人に死刑--地裁判決
http://mainichi.jp/select/world/news/20090409dde007030024000c.html

 【北京・浦松丈二】新華社通信によると、チベット自治区ラサの中級人民法院(地裁)は8日、08年3月のラサ暴動で放火などの罪で起訴されていた被告4人に死刑、別の被告1人に無期懲役の判決を言い渡した。ラサ暴動裁判で死刑判決が言い渡されたのは初めて。

 判決によると、被告5人は3件の放火事件を起こし、店の経営者ら7人を死亡させたとされた。死刑判決を受けた4人のうち2人には2年の執行猶予が付けられた。猶予中に再犯などがなければ、無期懲役に減刑される。

 自治区当局者によると、ラサ暴動では市民18人と警官1人が死亡。2月までに暴動に関与したとして約950人が拘束され、76人に有罪判決が出されていた。

※上記記事の「猶予中に再犯などがなければ、無期懲役に減刑される」の部分だが、どこかで「無期」ではなく「終身刑」になると書かれていたのを読んだ。

 

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<4月10日追記>
日本の報道は上記のように中共お抱えプロパガンダ垂れ流し機関の言うことを垂れ流す記事ばかりですが、下記のような報道も。死亡者の人数が違うことが一点と、チベット側の立場も書かれていることが一点です。

http://www.guardian.co.uk/world/2009/apr/09/four-tibetans-sentenced-to-death
イギリス ガーディアン紙 北京特派員 Jonathan Watts

中国営放送によると昨年のラサの動乱の際に甚大な被害をもたらした放火犯4人に死刑を言い渡した。
この死刑判決はラサ市中級人民法院が宣告したもので、2002年以降この地域では初めて。

亡命チベット団体はこの判決を政治的な意図のもとに、作為された不当な判決であるとして、抗議。

新華社によれば、ロプサン・ギャルツェンはラサの二つの衣料店を3月14日に放火し商店主を殺害したとして死刑。
ロヤックはディジェン地区の自転車屋に放火し、店主とその妻、息子、二人の従業員を殺害した罪により死刑。
その他、大変危険な放火を自白したという、二人のチベット人テンジン・プンツォックとカンチュックには二年の執行猶予付き死刑。
もう一人の被告は、審議中だという。

新華社には、法廷のスポークスマンによる発表として以下のようなコメントが載せられている。
”これら3件の放火が3月14日暴動の犯罪の中で、もっとも最悪な結果を招くことになった”とし、”これらのの犯罪が多くの人命と不動産を失う結果を招
き、公共の風紀や安全と安定を乱した”

フリーチベットはこれらの判決を、被告は当然の権利である司法上の防衛手段が全く与えられなかったとして、真っ向から攻撃

”本日発表の死刑宣告の報告は、チベット人が最低限の司法上の権利すらも与えられず判決に至る、昨年より引き続き報告されている裁判のプロセスで、中国
の政治的な意図は明らか”とフリーチベット広報官マット ウィタケース。

”各国政府は自国の北京総領事を通して、中国人民法院への即時介入と、同時に国際メディアの即時入国(チベット)を要求するべきである。”

なお、中国国営放送は裁判は一般に公開され、被告側は弁護士がついていたとしているが、外国人記者のチベット立ち入りが非常に規正されているため,確か
める手段は皆無である。

<4月10日追記、ここまで>
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「地裁判決」ということで、控訴はできないものか――と、文明国の人の感覚でつい考えてしまうかもしれませんが、敵は正式な手続きを経ずに逮捕ということを平気でやる連中です。今回の裁判もどれほど正当な手続きを経て行われたものだか。不当判決を言い渡されたチベット人たちにも、きちんと弁護人がつけられていたか怪しいものです(形だけはついていたかもしれないが)。

国民のためではなく中共のための政治しか行われないかの国で、国家、というよりは中共に楯突く形になってしまった彼らの前途はかなり絶望的です。
しかし、だからと言ってこのまま黙っている訳には行きません。死刑を阻止しましょう!

Take Action !
ロンドン在住の日本人チベットサポーターWさんより、オンライン署名の情報をいただきました。
http://actionnetwork.org/campaign/stoptheexecutions/
英語ページですが、内容をごく簡単に言えば、死刑執行を中止するよう中国政府に要請する手紙をオンラインで送付するものです。
ページ右側の入力フォームにEメールアドレス、名前、苗字、住所(国、市、町名まででもOK)、郵便番号等を入力してボタンをクリックすれば、ページ左下に表示されているメッセージに名前と住所を添えて送付される、という仕組みです。

また、以下の文章をFAXにて関係当局に送付する行動についても協力が要請されています。

<日本語>
中国のチベット人への死刑宣告に関して

 中国政府が4人のチベット人に死刑を宣告したことを聞いて、私は大変な憤りを感じています。
 私は、猶予なしの死刑判決を受けた洛桑堅才(Lobsang Gyaltsen) と落牙 (Loyak) について、即時の執行停止と各事件に関する独自の再調査とを求めます。
 同時に、死刑まで2年間の猶予が与えられた旦増平措 (Tenzin Phuntsok) と剛組 (Kangtsuk)、終身刑を言い渡された達瓦桑布(Dawa Sangpo) について、処遇を深く憂慮しています。
 彼らの基本的人権は否定されました。また裁判は、国際的な判例に沿ったものでは
ありませんでした。
 昨年のラサでの騒乱に対して中国政府は極端な暴力で応じました。
 これらの判決も政府の方針に異議を唱えるチベット人へのあからさまな脅迫です。
 中国政府がいますぐ執行を停止し、この不当判決を撤回するよう、私は求めます。
 私は日本政府代表にこのことを知らせ、断固とした処置を取るよう、日本政府に求めます。

※このアクションは終了しました。

不当な死刑を断固として阻止しましょう!

花祭り ピース・キャンドル

花祭りの時期にはまだちょっと早いのですが、神奈川県平塚で行われた「花祭り ピ-ス・キャンドル」と題したチベットイベントに参加してきました。

<スケジュール>
「もっと知りたいチベット」
「ヒマラヤを越える子どもたち」上映
チベットの歌 ソナムさん
(休憩)
法要(日本語とチベット語)+キャンドル+交流

 

「ヒマラヤを越える子どもたち」―何度見てもぐっとします。
ソナムさんの歌―澄んだよく通る声でチベットの歌を4曲。胸に響きました。
休憩―お茶と桜餅を頂きつつ、出席者同士で歓談。
   私が飲んだお茶は・・・バター茶
   でもこれが、意外と桜餅と合いました。
法要―静かな心でチベットの安寧を祈りました。
キャンドル―キャンドルアーティストの方によるキャンドルを前に、
   各自キャンドルを手にしながら全員で「真実の祷り」を斉唱。
   チベットを支援する皆の心が一つになりました。

どれも良かったですが、個人的に一番得るところが大きかったのが、KIKUのMさんによる、チベットの歴史を解説する「もっと知りたいチベット」。
「チベットの歴史ならもう大体分かってるよ」と開始前は思っていたのですが、どうしてどうして。あれほど分かりやすく、よくまとまったチベット史の解説は初めてでした。
ちょうど、当サイトの「チベット問題」コンテンツで次はチベットの歴史に取り組みたいと思っていたところで、かなり多くのヒントをいただくことができました。

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ダライ・ラマ法王の南ア入国を認めよ!(署名活動終了)

もう一つ、チベット関連ニュースについて・・・

南アフリカが中国のご機嫌とW杯開催への影響を気にして、同国ヨハネスブルクで3月27日に開催される予定だったノーベル平和賞受賞者らによる国際平和会議に招待されていたダライ・ラマ14世に対し、ビザ発給を拒否した。

南アフリカ、ダライ・ラマへの査証発給拒否

ヨハネスブルク(CNN)
南アフリカの大統領府報道官は23日までに、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世に対する査証(ビザ)発給を拒否したことを明らかにした。来年開催予定のサッカーのワールドカップ(W杯)への影響を懸念したと説明している。

ダライ・ラマ14世は、ヨハネスブルクで開催される国際平和会議へ招待されていた。同会議には、元南ア大統領のネルソン・マンデラ氏やデズモンド・ツツ大司教、元フィンランド大統領のマルッティ・アハティサーリなどのノーベル平和賞受賞者が出席する予定。

査証発給を拒否したことについて南ア政府側は、もしもダライ・ラマ14世が平和会議に出席すれば、世界の注目が来年のW杯からチベット問題に移ってしまうと懸念。中国との貿易額が大きく同国にとって、中国との関係悪化を避けたい意向もある。

(2009年03月23日)

「開催される予定だった」と書いたのは、当然のことながら各所から反発の声が上がり、ノルウェーの委員会が、地元南アの同平和賞受賞者デズモンド・ツツ元大主教やデクラーク元大統領が、次々と出席取りやめを表明し、会議が延期を余儀なくされたからである。
https://www.47news.jp/CN/200903/CN2009032301000997.html

ダライ・ラマの査証拒否 南ア、中国に配慮

 【カイロ23日共同】南アフリカのヨハネスブルクで27日に開催される平和会議に出席予定だったノーベル平和賞受賞者のチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世が、同国政府から査証(ビザ)の発給を拒否されたことが23日、明らかになった。AP通信などが伝えた。

 南ア政府が正式な招待状を出さないため、ビザも発給されないという。大統領報道官はAPに「中国に関する否定的な報道」につながることを避けるためとし、中国政府への配慮を認めた。

 会議に出席予定だった南アの同平和賞受賞者ツツ元大主教は抗議のため、出席を取りやめた。ノルウェーのノーベル賞委員会もAPに「失望」を表明した。

 平和会議は、南アで2010年に開催予定のサッカーのワールドカップ(W杯)に関連した行事。ノーベル賞受賞者やハリウッドスターらが、人種差別やスポーツの役割などについて議論する予定だった。

2009/03/24 00:22 【共同通信】

この腰抜け南アの愚行に対し、早速ダライ・ラマ法王へのビザ発給を求めるオンライン署名活動が開始された。


ANC GOVERNMENT INVITE DALAI LAMA TO SA
(アフリカ民族会議政府はダライ・ラマを南アフリカに入国させよ)

http://www.mypetition.co.za/index.php?page=sign_petition&petition_id=323

(この署名活動については、『雪の下の炎』の楽真琴監督のブログで知りました。楽監督ありがとうございます)

 

呼びかけ人は、South African Friends of Tibet(チベットの南アフリカ人同志)。

署名の趣旨は以下の通り。

我々南アフリカ・フレンズ・オブ・チベットは、ダライ・ラマ猊下のご友人たちに、ヨハネスブルク平和会議の無期限延期と、予定されている南アフリカ対ノルウェーのマンデラ杯サッカーの試合をキャンセルすることを確実にするため、支持の確約を呼び掛ける。

更に言えば、中華人民共和国政府の圧力の下、ダライ・ラマ猊下のヨハネスブルク平和会議出席を拒否するという南アフリカ政府の恥ずべき行為を考慮に入れてのものである。
South African Friends of Tibet

1. ダライ・ラマ法王が出席できるようになるまでの平和会議延期を呼び掛ける。この点について、呼び掛けは2010年W杯組織委員会にも向けられる。
2. ノーベル委員会に、平和会議の開催を保障せず、会議に出席しないことを呼び掛ける。
3. 南アフリカの受賞者に、会議の延期と、ダライ・ラマ不在で会議が行われた場合の欠席を呼び掛ける。
4. モーガン・フリーマンさんとシャーリズ・セロンさんに、会議の延期と、ダライ・ラマ不在で会議が行われた場合の欠席を呼び掛ける。
5. すべての会議の招待参加者に、ダライ・ラマ法王のために会議をボイコットすることを呼び掛ける。
6. 南アとノルウェーのサッカーチームに、ダライ・ラマ法王のために3月28日(土)に開催予定のマンデラ杯の試合をキャンセルすることを呼び掛ける。
7. ダライ・ラマ法王を会議から締め出せば、会議の趣旨はまやかしとなってしまうことは明白である。

South African Friends of Tibet委員会及びメンバー

(翻訳に自信なし)

チベット・アムド地区ゴロクでの騒乱

ついに衝突が起きてしまった・・・

チベットのアムド地区ゴロク(中国共産党が”青海省果洛”と称している街)でチベット人と中国共産党当局の間で大規模な衝突が起きたようである。

日本の各種メディアの報道を総合すると大体以下の通り。

新華社通信によると、ゴロクチベット族自治州で21日、僧侶約百人を含む数百人が地元の警察署と政府庁舎を襲撃、政府職員数人が軽傷を負った。
警察当局は22日、暴動に参加した6人を逮捕、ほかに89人が自首/出頭し「秩序は回復された」としている。

新華社電によると、当局者は今回の暴動について「チベット独立を支持した疑いで取り調べ中の男が警察署を脱走、行方不明になったとのうわさが広まり、騒動に発展した」と説明。

チベット亡命政府によると、警察署周辺には約4000人(Phayulによれば2000人)が集結し、「チベット独立」などと叫んだ。
また亡命政府は(中国当局が『チベット独立を支持した疑いで取り調べ中の男が警察署を脱走、行方不明になったとのうわさ』について)「チベット旗の所持などで捜査中の若い僧侶が川に飛び込み、自殺を図った」と発表した。

要約を2つに分けたのは、既にお気づきだろうが、中国共産党御用通信社・新華社の言い分とチベット亡命政府の発表に分けたものである。

前半に纏めた部分だが、中国共産党にとって都合の悪いことは隠蔽・捏造・歪曲を当たり前のように行う不公正な通信社の記事を垂れ流しているだけである。
憶測の域を脱しないが、

 抗議行動(デモ) → 襲撃
 銃をつきつけられてホールドアップした → 自首/出頭

このくらいの捏造、やりかねない。
(ちなみに、各メディアが『自首/出頭』と報道する中、ロイター日本語版だけがかぎ括弧つきで『降伏』と報じている。まだこの方が真実に近いと思われる)

また、抗議行動を行った人数の差も大きい。
数百人中の95人と数千人中の95人とでは、意味合いが違ってくる。しょっぴいた人数が全体の2.5%程度だとすると「秩序は回復された」どころか相当火種が残っていることになるだろう。
新華社の報道には、事件の矮小化の意図がありはしないか。

あと「政府職員数人が軽傷を負った」とあるが、一方のチベット人側に負傷者が出なかったのかについて全く触れられていない。”衝突”が発生しながら全くいなかったとはまさか考えにくい。チベット人が何人怪我をしようが死のうが知ったことではない、当局側の人間が負傷したことが重要なのだ、ということか?

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チベットは今~最新のビデオ映像&勉強会(第2回目)

本日は東京・田町で「チベットは今~最新のビデオ映像&勉強会(第2回目)」に参加。
第1回の様子はこちら

まず、チベット本土の人々の本音を綴った「ジグデル」上映。既に何度も見ているフィルムですが、彼らの痛切なメッセージはいつ見ても心に突き刺さります。
それから、2008年11月のダラムサラ特別会議後のダライ・ラマ法王の記者会見、ダラムサラのチベット子供村(TCV)レポートの映像と続きます。

そして、今回私が一番楽しみにしていた、田崎國彦さんによるチベット史の講演。
今回は1913年にダライ・ラマ13世が布告した「独立宣言」について。まず前回も説明があった清朝とチベットの関係――西洋の伝統的な考え方である支配・被支配の関係とか力の強さによる関係ではない、帰依処-施主の関係(チュ-ユン共存体制)――とその崩壊について復習をした上で、当時チベットにいた日本人・矢島保次郎、青木文教、多田等観、河口慧海らの目撃証言から、13世による独立宣言を「独立再確認宣言」と位置づけていました。
そして、中国が繰り返す「チベットは中国の一部である」という言い分を
「中国・チベットの関係の歴史を読み直し、創り出された虚構の言説
と言い切られていました。

元々歴史研究者を目指して挫折した経歴のある私にとって、チベットの歴史というのは深く掘り下げたいところではあります。
まだ自分なりの観点は全く固まっていませんが、第3回も予定されている田崎さんの講演が大きな指標になるのではと思っているところです。

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国連大学の前でFree Tibet

先週に続いて、本日もチベット問題改善を訴えるピースマーチに参加してきました。

所は東京・渋谷及び表参道一帯。

300人の参加者を集めて、宮下公園を起点にデモが始まりました。
開始直前は雨模様で皆心配したのですが、行進開始の時には雨は完全にやんでくれました。
これも、仏の慈悲のおかげでしょう。

“Free Tibet !” “Free Tibet !”
“チベットに自由を!” “チベットに自由を!”
“チベットに人権を!” “チベットに人権を!”
“中国はチベットから出て行け!” “中国はチベットから出て行け!”
“U.N.O !” “We want justice !”

(注:U.N.O = 国連のこと。決してゲームのウノではありません )

などとコールをあげながら表参道に向かう途中、見えてきたのが・・・
国連大学
まさに、シュプレヒコールの中で叫ばれていた国際連合の学校・国連大学・・・
ここに差し掛かると、自然とボルテージが上がりました。

“Wake up !  Wake up !”
“U.N.O !”


国連大学
[頼むよ国連、動いてくれ!
中国なんか常任理事国から除名して!]
この場を歩く際にそう思ったのは、私だけではないでしょう。

デモは混乱も無く、無事終了しました。

夜からは場所を替えて、上映会・ディスカッションがありました。
上映会は、”Undercover in Tibet”と”ジグデル”。
どちらも既に見ている(しかも”ジグデル”は既にDVDを持っている)にもかかわらず参加したのは、ディスカッションが目当てだったからです。

ディスカッションでは、
・東京以外での活動
・今後のフリー・チベット
・日本人として何ができるか
の3グループに分かれて議論が行われました

私は「今後のフリー・チベット」に参加。正直、ディスカッションには自信がなかったのですが、参加してみると意外と話すことができましたし、他の方の意見を生で聞くことができて、極めて有意義な話し合いになりました。

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