福島100名城(3)―会津若松城、二本松城
2023年8月25日
会津若松城(鶴ヶ城)の訪問を終えて、市内巡回バスに乗る。
福島にもう一つある名城をこの日のうちに訪れておきたかったので、前回会津若松を訪れた時に来たことのある会津武家屋敷はパス。しかしもう一つ、前回訪れていたものの、素通りせずにきっちり訪れたかった場所があり、その場所でバスを下りた。
そこにあったのは、飯盛山。先程訪れた会津若松城でも説明展示があった、白虎隊が集団自決をした山である。痛ましく悲しい最期を遂げた彼らの墓参はしておきたかったのだが、私に残された時間は次のバスが来るまでの僅か30分。普通に石段を歩いて上ったら間に合わないかもしれなかったが、この山には動く坂道・スロープコンベアという有難いものがある。普段ならこのくらいの山は自力で歩くのだが、時間が無い今回はこれを利用させてもらった。前を行く客がいなかったのをいいことにずんずん歩いて進んだところ、ものの数分で山上の広場に着くことができた。
飯盛山
白虎隊自刃の地この広場から少し下った場所に「白虎隊自刃の地」はある。この地から会津若松城から煙が上がっていたのを見た20人の隊員たちは城が落ちたと思い込み、自刃という痛ましい道を選んで若い命を散らせた。
ここに造られた石像は城の方を見ているというが、肉眼ではなかなか分からず、デジタルカメラで撮った風景写真を拡大させてようやく、木々の緑のベルトの上の天守を確認することができた。
白虎隊自刃の地から望む会津若松城平和と命の尊さを噛みしめながら、下山。動く坂道のお陰で、30分で墓参を終えて次のバスで予定通りの時間に会津若松駅まで戻ることができた。
会津若松駅からJR磐越西線で郡山へと、昨日辿った路線を戻る。そこから南へ向かう帰路に就く前に、逆方向の北へ。福島市手前の二本松駅で下車して、観光案内所で電動アシストのレンタサイクルを借りる。目的地への道のりは1.2㎞程だが、途中に立ちはだかる久保丁坂が急激な上り下りで、電動アシストでないととても上り切れない坂だった。
城跡の手前にある「にほんまつ城報館」で100名城のスタンプを頂く。帰りに時間があれば再訪して見学しようかと思ったが、先に結論を言うと、その余裕は無くスタンプを頂くだけに留まってしまった。
二本松城箕輪門。手前にあるのは二本松少年隊像
辿り着いた霧山の上に築かれたのが、目指す二本松城(100名城 No.11)。室町中期に畠山氏7代当主・二本松満泰が築いたのが始まりで、その後伊達氏、蒲生氏、上杉氏などを経て、江戸時代に領主となった丹羽光重が山上の本丸を大改修したほか、麓に城門(箕輪門)や城下町を整備する。
この城も明治の戊辰戦争では新政府軍に攻められ、1日で落城。建物の多くが焼失した。少年兵による「二本松少年隊」も動員されたあたりも会津若松城に似ている。
現在は別名の「霞ヶ城」から霞ヶ城公園として整備され、二階櫓・箕輪門・多門櫓が復元された。
その箕輪門をくぐって城内に入り、三の丸広場に上がり、更に本丸を目指して山の上へと進む。ところがこの城、道標や案内板が乏しく、どの道を通ればいいのか分かりづらい。上の方に本丸の大石垣が見えてようやく、自分がどのあたりの位置に居るのか分かったという有様だった。
雑草に覆われた二本松城の大石垣
「日影の井戸」を経由し、本丸直下の道を歩いていると、「本丸下南面大石垣」という説明板が目に留まった。よく見ると確かに高い(13mあるという)石垣があるが、草ぼうぼうで一目では石垣とは分からない状態だった。
一方、本丸に行き着いてみると、その石垣は見事な姿を私に見せてくれた。高さ8mほど、広さは30~40m四方の、野面積みの大石垣だ。
二本松城本丸の石垣桝形虎口から階段を上ると、本丸の上に出ることができる。四方が開けていて、戦時には敵の様子を、平時には城下町の様子をよく見渡すことができたことだろう。
北の隅には天守台、東の隅には東櫓台跡、西の隅には西櫓台跡が残っていて、建物の再現は無いものの、当時の様相を十分に想像することができる。
二本松城本丸の虎口
二本松城本丸の天守台(左)と東櫓台跡(右)ところで本丸の石垣だが、東日本大震災で崩落の被害を受けている。昨日訪れた白河小峰城は2019年に修復を完了させていたが、二本松城本丸の方は、表側の修復は完了したものの、裏側はまだ修復の真っ最中で、足場も組まれていた。私が登城した時もちょうど、修復スタッフが見回り点検をしていた。
10年以上の月日が経つが、あの震災はまだまだ「過去」にはなってくれない。
この二本松城で、福島県の100名城・続100名城は全て登城を達成。先述した通り、「戊辰戦争」「東日本大震災」というワードを強く意識させられた訪問となった。
今回の城巡りはこれで終了。二本松駅に戻って帰途に就く。
この日も青春18きっぷだ。鈍行列車を乗り継いで、住まいのある川崎に帰り着く頃には23時近くになっていた。
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