ブッダ入滅の地・クシナガル
2011年10月20日
前日の8時半から16時半、実に8時間かけてブッダ入滅の地・クシナガルに到着。着いたその日は既に暗くなり始めて何もしなかったので、今日がクシナガルを巡るただ1日の日ということになるのだが、農村地帯の中の小さな街(村)なので、1日あればむしろ時間はたっぷりある。
早朝。朝日に誘われて宿のほぼ正面にある大涅槃寺を訪れる。
ここに安置されているのが、クシナガルの代名詞と言うこともできる寝釈迦仏だ。ブッダ臨終の瞬間を再現した像である。足と頭以外は布で覆われているが、これもブッダが入滅の時に掛け布団を被っていたということを表しているのかもしれない。
朝早くから、海外アジアの集団巡礼者が参拝に来ている。この日遭遇したのはタイの一団。やはり仏教国として知られる国である。寝釈迦仏の周りに座して、僧侶の説教に耳を傾けながら熱心に祈りを捧げ、最後は集団でお釈迦様の周りをコルラする。
彼らはその後も本堂に隣接するストゥーパの傍らで読経にいそしむ。その敬虔さが見ていて心地いい。
クシナガルはブッダ入滅の地という面が強調されがちだが、ブッダ最後の説法の地でもある。その場所といわれる地には現在、黄金仏が安置された小さな堂が建っている。像そのものは裸体で、布も何も着せられていない、まさに裸一貫の仏様というのがちょっと目新しい。
大涅槃寺のある中心部から東に外れた場所にはラマバール・ストゥーパという未完の茶色い仏塔が建っている。ここは、ブッダが荼毘に付された場所らしい。見た目にはストゥーパと言うよりは小山のような外観だ。発掘もまだ行われていないらしく、今後の研究に期待、といったところだ。
かつての遺跡の他にも、チベット、ビルマ、韓国などの寺院や日本・スリランカ仏教センターなどが建ち並んでいるのはブッダ悟りの地のブッダガヤなどと同様。日本庭園を正面に置いた政府ブッダ博物館もある。仏教が廃れてしまった仏教生誕の地・インドにおいて仏教の聖地を仏教国各国が力を合わせて盛り立てようとしている様子が伺える。
いろいろ並べてはみたものの、やはりここクシナガルの主役で最も輝いているのは何と言っても寝釈迦仏である。私はその不思議な魅力に引き込まれて、3度、4度とお参りし、最後は五体投地までしてしまった。
像なので勿論、顔が変わることはないのだが、その表情は角度によっては憂いを帯びたものとなり、また別の角度から見るとにこやかにも見える。実際のブッダも、死の間際には憂いと安らかな気持ちの両方が胸を去来していたのかもしれない。
ふと、昨日バラナシの火葬ガートで考えていた“生”と“死”のことがまた頭をよぎった。
ブッダほどの方なら満ち足りた人生を終えることができたのではないかと、凡人の私にはつい思えてしまう。しかし、彼とて何とかしたいがどうしようもできないことは幾つもあったはずだ。カーストやそれによる貧富の差、人々の病の苦しみ等々――それらを少しでも和らげんがために彼の教えは後世まで広く伝わった訳だが、残念なことに今なおそれは解消には至っていない。彼もまた、思い残すことがありつつの死だったに相違ない。
とはいえ、私の心に深く残ったのはやはり、にこやかに見える角度からのその姿だった。解脱を達成したブッダは涅槃の向こうから、入滅の時より今に至るまで、そしてこれからも、穏やかな表情で私たちを見守ってくれていることだろう。
タンカのその後
2011年10月14日
ダラムサラの露店で買ったタンカ(仏画)の件だが、知人からこのブログのコメントで表装を進められた。
どうしようかと考えた挙句・・・
2つあるうちの片方だけ表装してもらった。
値段は400ルピーと、日本でやった場合を考えると恐ろしいほど安く済んだのだが、バックパックの容量が限界に近く、これ以上荷物を増やしたくなかったので小さい方の片方だけにした。
こうして、サキャムニ・ブッダのタンカが鮮やかに彩られた。
うん。ありがたさ倍増だ。
ダラムサラ(20)~マクロードガンジ中心部の寺院
2011年10月13日
またしてもマクロードガンジ広場近くの話だが、南へ延びる2つの道に挟まれて、規模は小さいが金色のまばゆい存在感のある寺院が建っている。
私はいつもこの寺院の東側の道を歩くことが多いのだが、この日西側の道を歩いていたら・・・
扉が開いている。
これまで全く気づかなかった。この扉、開いていたのか・・・
中には誰もいないが、どうやら入っても構わないようだったので入ってみた。
――知らなかった。
この寺院の内部にこんな立派なチョルテン(仏塔)があったなんて・・・
最上階にこんなに立派な仏像があったなんて・・・
ちょっと1階に戻るが、大マニ車が設置されている部屋の壁には無数の小仏像が安置されている。
再び最上階。マクロードガンジを見下ろしてみる。
前回も含めて滞在期間はそう長くないので当たり前のことだが、まだまだダラムサラには「初めて知った」がたくさんありそうである。
ダラムサラ(16)~チベット亡命政府、図書館
2011年10月12日
チベット亡命政府は、公式には国際社会に認められていないものの、今のところチベット人による唯一の正統な政府機関である。ここで、先日首相に選任されたセンゲ氏を中心に役人たちがチベット難民のために、そして世界に「Free Tibet」を訴えるために日夜働いているのである。
ガンチェン・キションの広場
ダライ・ラマ公邸や中心寺院のツクラカンのあるマクロードガンジからこんなに離れた場所に官庁を建てるというのは、「政教分離」を考えてのことなのかもしれない。
その一角にあるチベット図書館は、蔵書を管理すると同時に、世界各地から留学生らが集まってチベット文化を学ぶ場にもなっている。
チベット仏教の文物も一部管理しているようで、館内の一角には博物館もあって公開されている。スペースは狭いが、仏像やタンカ(仏画)など優れた文物が展示されている。中でも、展示室中央に展示されている2つの立体曼荼羅は必見。
この一帯で活動する人々の祈りの場として建てられたのか、近くにはネチュン・ゴンパという僧院もある。昨日訪れたチェチョリン・ゴンパなどと同様、赤・白・黄を基調とした伝統的な薫りのある正統派?ゴンパである。
更に、ガンチェン・キションから幹線道路を少し下った所には、チベット医学の中心地であるメンツィカンもある。
これらの施設で活動している人々の努力が、チベット難民の生活の改善、チベット文化の継承、ひいてはチベットの自由化という形で結実することを切に願う。
ちなみに、私はネチュン・ゴンパの屋根が見えた時点で斜面の細道を歩いて下ったのだが・・・
もう少し幹線道路を先に進んでいれば、こんな立派な入り口があり、整備された道を辿って行くことができたのだった。
ダラムサラ(13)~ダラムサラのゴンパ
2011年10月11日
ダラムサラの寺院は、中心寺院であるツクラカンも含め、ラダックで見てきたような伝統的なチベット建築ではなく、どちらかと言えば現代的な様式で色合いも黄色もしくは金色と白を基調としていて、少し違和感を抱いていた。しかし、ダラムサラにも赤・白・金色を基調とした伝統的な色彩の強いゴンパがあった。
一つは、チェチョリン・ゴンパ。マクロードガンジ西側の斜面にへばりつくように建っていて、広場から一番西側の細い道を下った先にある急な階段を下りてアクセスすることになる。
配布されていたパンフレットによると、元々はチベット本土のラサ南にあるディップという村にあったゴンパだが、中国共産党の大弾圧で破壊の憂き目に遭う。しかし、生き延びた僧侶の教えを受けた弟子が亡命に成功し、1984~1986年にかけてこの地に同名のゴンパを建てたという。
ゴンパの入り口には「僧侶の許可なき訪問を禁ず」などと書いたいかめしい看板が掲げられていたが、通りかかった僧侶がまず「どうぞご自由にお歩きください」とにこやかに言ってくれ、更に門前では管理者の?インド人が「どうぞお中へ。建物も、中も撮影してくださって結構です」とまで言ってくれた。看板とは裏腹に、結構オープンなゴンパだった。
内部はラダックで見てきたゴンパと違わぬ雰囲気で、薄暗い中に幾つもの像やダライ・ラマ14世のお写真が安置され、僧侶たちが読経に勤しんでいた。
許可を頂いたので心置きなく撮影
もう一つは、パグスの滝に向かう道の最初の左カーブの丘の上のにあるジルノン・カギェリン・ゴンパ(Zilnon Kagyeling Nyingmapa Gompa)だ。
こちらは資料不足で詳しいことが分からないのだが、どうやらニンマ派のゴンパらしい。
いずれも新しいゴンパではあるが、ダラムサラで伝統的な様式のゴンパを見たい方は、これらを訪れてみてはいかが?
ダラムサラ(11)~不殺生
2011年10月11日
すっかり毎日の日課になった朝のコルラ道巡礼。この日はいつもよりほんの少しだけ早めに出かけたのだが、その分いつもより多くの巡礼者を目にすることができた。
前々から、路上の何かを拾って道端に移すような動作をしている巡礼者が時折いるのが目に付いていて「ごみ拾いをしているのかな?」などと考えていた。
しかし、この日よく見てみると、拾っているのはごみではない。
ミミズだった。
巡礼者に踏みつけられて死んでしまわないように、人が通らない道端に移しているに相違ない。チベット仏教の根底に流れる「不殺生」の精神とはそういうものである。道端に移す時も、放り投げるのではく、いたわるようにしてそっと置いている。
映画『Seven Years in Tibet』の中に、建築現場の土の中からミミズが出てきて「このミミズの前世は私の母親かもしれない」などと言ってチベット人の作業の手が止まってしまうシーンがあった。初めて見た時には「そんな大袈裟な」と思ったものだが、こうして実際にミミズを助ける現場を見ると、あながち大袈裟な話でもないのかもしれない。
ダラムサラ(10)~タンカを描く人-2
2011年10月10日
昨日購入を見送ったタンカ(仏画)・・・
買いました。
しかも2枚。
1枚は500ルピー、もう1枚は800ルピーのところを700ルピーにしてもらって。
「1ルピー=10円という感覚」と考えてしまうと確かに高いが、日本円にして約2500円と考えると決してびっくりするほど高い買い物ではなかったのだ。
昨日と同じ露店で、最初に選んだのは、サキャムニ・ブッダを描いたもので、次に選んだのはカーラクチャ・曼荼羅を描いたもの。いずれも緻密な描画で、技術の高さと集中力と根気が必要なものだということが一目で分かる。
(写真でお見せしたいところだが、せっかく型崩れしないようにビニールパイプで厳重にパッケージしてもらったので今は開ける気にならない)
品定めの最中、絵師のミチュさん(女性、恐らく20代後半ぐらいのの奥様)は熱心に絵の解説をしてくれる。ビジュアル的に分かり易いものは理解できたが、仏教の深い話になってくると、日本語でも理解できるかどうか怪しいのに英語となると尚更、だった。
買い物が終わった後も、明るくておしゃべり好きなミチュさんとの会話が弾む。
彼女はネパール生まれの難民三世。夫婦そろってタンカ絵師で、この道18年と若いながらもかなりのキャリアを積んでいる。親戚がチベット本土のラサにいるらしいが、彼女自身はラサは勿論、チベットそのものを見たことがない。
「じゃ、以前行ったときに撮ったラサの写真を送りましょうか?」
そう言うと、彼女は嬉しそうに目を輝かせていた。
生まれたネパールのこと、絵の勉強のことなど色々話したが、最後の方になるとちょっと経済面での愚痴がこぼれてきた。
「露店を開くにしても、警察に場所代を払わなきゃならないの。警察キライ」
「お店(露店とは別の、6畳程度の小さな小屋)の家賃は月5800ルピーもするし、その他にも、電気代に、水道代に、牛乳代に、テレビの受信料に、子どもの教育費に、絵の勉強に必要なお金に――お金は必要なのに、ここ(ダラムサラ)にはビジネスが無いのよね」
「このショール、ネパール産なんだけど、ここで買うとネパールで買う値段の倍以上するの。だから、時々ネパールに行って買い物をするのよ」
チベット難民の生活は、思っていた以上に経済面のやりくりが大変なようだ。ほんのちょっと無理してでもタンカを買ってよかったな、と思った。
旦那さんが作業しているお店にお邪魔してチャイをごちそうになり、そろそろ街に戻ろうか、という時、ミチュさんが尋ねてきた。
「ダラムサラには、いつまで?」
「うーん、あと3日、4日、いや5日ぐらいはいるかな?」
「明日は来れます?」
「何とも言えないけど――時間があれば」
「じゃ、時間があったらまた来てください。またおしゃべりしましょ」
ダラムサラに、素敵な友達ができたようである。
ダラムサラ(8)~祈り
2011年10月 9日
最近、チベット本土で中国共産党の支配・弾圧に対して抗議の焼身自殺をするケースが増えている。自殺はチベット仏教でご法度とされているにもかかわらず、である。ルンタ・プロジェクトの中原氏によると、「チベット人的に言えば『自らの体を灯心にして抗議の火を灯して』いる」とのことらしい。
痛ましい・・・
悲しい・・・
悔しい・・・
抗議するにしても、自らの死を以って行う以外に方法は無いのか?
生き永らえて別の形で抗議を続ける方が或いはより良い方法ではないのか?
逆に言えば、彼らはもうそうでもしなければどうにもならない所まで追い詰められている、ということにもなるのかもしれない。
しかし、“命を懸ける”気持ちは尊重したとしても、私は彼らに死という選択肢を選んでほしくない。
生きて、チベットが自由を勝ち取る瞬間を見届けてほしい。
この日夕方前、2度目のツクラカン参拝に出かけた私は、命を散らせたチベット人たちの冥福と、そんなことが繰り返されなくて済むようなチベットの実現を祈り、静かに仏に祈りを捧げ、マニ車を回すのだった。
ダラムサラ(6)~タンカを描く人
2011年10月 9日
未明。この日は流星群を見ることができるというので夜遅くまで頑張ったのだが、夜空には分厚い雲。辛うじて見えていた月もやがて雲にのみこまれ、「星にFree Tibetの願いを」とはいかなかった。
夜が明けて目が覚め、昨夜のことを思い、「今日も曇りかな」と思いつつ宿の屋上に上がってみたら・・・
ダラムサラに来て一番の青空。
雲よ、なぜもう6時間早く晴れてくれなかったのだ・・・
恒例となった朝のコルラ道・ツクラカン巡礼中も汗ばむほどの陽気となった。
昼前、その陽気に誘われるようにして、マクロードガンジから更に山奥に入った所にあるパグスの滝へふらりと出かける。
パグスへの途中、タンカ(仏画)を売る露店が開かれていた。露天の横では、チベット人の女性が今まさにタンカを描いている。
「(露店に並ぶタンカを指差しながら)これ、全部あなたが?」
「はい」
優しそうな若いタンカ絵師が笑顔で答える。
「これが仏陀、これが曼荼羅、これがグル・リンポチェ、これが医学・・・」
並んでるタンカを指しながら一つ一つ解説してくれる。
値段と大きさによっては買ってもいいかな?とふと思った。
「小さいのがいいな」
「じゃ、これはどうですか?」
「うーん、ちょっと大きくて、このバッグに入らないかも」
「大丈夫。巻けば入りますよ」
どうやら、紙ではなく絹の布に描かれているらしい。それなら折れ曲がってしまう心配も無い。
「じゃ、これ幾らになります?」
一番肝心な話に入る。
「えーと――800ルピーになります」
げっ、思っていたよりもはるかに高い。
「これは本物の金を使っているので」
見ると、確かに金粉が使われている。
「こちらなら金粉を使っていないので、500ルピーになります」
どちらにしても、個人的に1ルピー=10円という感覚でやっているので、衝動買いするにはちょっと厳しい。申し訳ないが、もう一度よく考えてからにすることにした。
いずれにせよ、こうしてチベット文化が脈々と受け継がれていくのだな、と実感できた。
そして、こうして絵を売ることで、彼女は今後の鍛錬、材料購入、生活の費用を得て、その文化の継承の役割を担っていくことになる訳だ。
そう考えると――やっぱり買ってあげたいな。財布と相談・・・
ダラムサラ(4)~問答
2011年10月 8日
午後、昨日見逃した問答を見に再びツクラカンに赴く。
昨日のことから推察するに、3時前に行けば見ることができるだろうと思って行ってみると、案の定、やっていた。寺院前のスペースに僧侶たちが幾つかのグループに分かれて問答を展開している。中には、留学生か研究生だろうか、俗人の外国人の姿も見られる。
本土のセラ僧院などでは問い手と答え手が1人ずつのペアが基本だったが、ここでは2人1組とは限らず、複数対複数のケースも見られる。
問い手が問いを終えると手のひらを「パァン!」と打ち鳴らすのがチベット仏教の問答でおなじみの動作。ここでは割と控えめなアクションで打ち鳴らしている僧侶が多かったが、中には答え手を威嚇するかのように?大きな動作で打ち鳴らす僧侶もいる。
最後の方になると、皆で取り囲んでよってたかって?答え手を追及する場面も。
先述のセラ僧院で見た問答はショー的な色彩も見え隠れしていたが、ここでの問答は過剰なパフォーマンスは一切無く、チベット仏教の修行の本当の姿を垣間見た思いだった。
ダラムサラ(3)~コルラ道
2011年10月 7日
昼食時、「ルンタ・プロジェクト」の中原一博氏にお会いする。最近チベット本土で続いているチベット人の抗議の焼身自殺という悲しい出来事の話、新たに亡命してくるチベット人の動向、チベット子供村(TCV)のこと、ダラムサラのことなど、貴重なお話を聞かせて頂いた。
その後、中原氏に行き方を教えて頂いたダラムサラの「コルラ道」を歩いてみた。
コルラとは、仏教の聖地を時計回りに巡礼することで、ダラムサラでは中心寺院のツクラカン周りにコルラ道が設けられている。
実は、2007年に旅の途中の予定外の思い付きから予備知識ゼロの状態でダラムサラを訪れた時、私はこのコルラ道の存在を知らずに過ごしてしまっていた。
それから3年経ったある日のことである。
ダラムサラを訪れたばかりの知人にその時の写真を見せてもらった中に、無数のタルチョがたなびく風景を撮ったものがあった。
「これ、どこですか?」
「え、(ダラムサラに行ったことがあるのに)知らないんですか!? コルラ道ですよ!」
――非常に恥ずかしい思いをした。肝心な場所を訪れていなかったようである。
[次にダラムサラを訪れた時には行かないと・・・]
その埋め合わせの時が来たということだ。
ルンタGHから中心街とは逆の方向に急な坂を下り、三叉路のカーブを通過して今度は急な坂を上り、そのまま真っ直ぐ行くとツクラカンに行き着くのだが、その途中にある細道の入り口を進むと、そこがコルラ道だ。
道中には、無数のタルチョ(五色の祈祷旗)と、タルチョ色に文字が色分けされたマニ石(経文や真言等が刻まれた石)を見ることができる。
街中では見られない大型マニ車やチョルテン(仏塔)もある。
そして、その大型マニ車やチョルテンのある場所を過ぎた後のことだった。
タルチョの“海”と言っていいだろう。その“海”に埋め尽くされるように、廟とその左右にチョルテンが建っているではないか。
――出るのは、溜め息ばかりだった。
これでもかと押し寄せてくるチベット仏教の薫りに、私は祈りを捧げずにはいられなかった。
この時、気づいたことがあった。
ダラムサラに“チベットの空気”が希薄であると感じたのは、「借り物の地」「バターの匂いがしない」ということばかりが理由ではなかったのだ。
寺院を除いて、大型マニ車、チョルテンなどといったチベット仏教の施設が街の中心に見当たらないことも大きな原因の一つだったのだ。(タルチョは街中にあることはあるが、そんなに多くもない)
その証拠に、
ここには間違いなく、“チベットの空気”が漂っていた。
ほんの少し、心に少しあいていた穴が埋められた思いだった。
それにしても、前回の訪問でこんな重大な場所を見落としていたとは、恥ずかしい。
もはや、「ダラムサラは2度目」などと大きな顔をして言えない・・・
コルラ道のゴール地点は、朝にも訪れたツクラカンである。
ツクラカンに近づくと、問答をやっている熱気を帯びた声が聞こえてきた。これだけはラダックでもお目にかかることができていなかったので、急いで中に入ろうとしたが、
「ここは出口です」
と門番に押し留められ、入り口に回ってセキュリティチェックを受けてから入場する頃には、問答は終わっていた。
とはいえ、その後のお経の合唱だけは拝見することができた。僧侶だけではなく、俗人、しかも女性も交じって行っているのが他では見たことのない光景だった。
――決めた。
コルラ道とツクラカンは、毎日巡礼しよう。
その後、街中に戻るが、先程のコルラ道で心に飛び込んできたものの余韻が残ったのか、前にダラムサラに対して感じた違和感は少し緩和されたようだった。
※一部写真を後日撮影したものに差し替えています。
マナーリー(3)
2011年10月 5日
街の南側に行ってみると、「Yak」だの「Himalaya」だの親しみを覚える文字が看板に見えるようになった。そして、奥の方に入ってみると、チベット仏教寺院が2つ建っている。
――チベット人街だった。
人口の比率はそれでもインド人の方が多いが、中心街に比べるとチベット人率が高くなっている。
そして、寺院は言うまでもなく、それ以外の建物でも屋上にタルチョ(五色の祈祷旗)が飾られている所がある。
宿も多い。バスターミナルから歩いて5分ほどという立地にもかかわらず。中心街からやや離れているため、今宿をとっている場所よりもはるかに閑静である。
[こっちにすればよかったかな?]
そう考えた私は、幾つかの宿を当たってみた。その中で、屋根にタルチョを飾っているHOTEL SUNFLOWERがやはり、300ルピーのところを250ルピーへのディスカウントに応じてくれた。部屋も、今いる宿より広くて奇麗である。
時刻は11時。チェックアウトの12時には十分間に合う。
――決まった。
私は宿に戻り、大急ぎで荷物を纏めてチェックアウトし、閑静なHOTEL SUNFLOWERへと移動した。
さて、このエリアには上にも書いた通り、2つのチベット寺院がある。
まず奥の方にある、ガンデン・テクチョリン・ゴンパの方を訪れてみた。
僧房に取り囲まれるようにして、本堂が1つだけ建っているシンプルな寺院だ。本堂の入り口に近づくと、そこにいたチベット人女性2人が「どうぞ」と中へと促す。
中では、僧侶たちがお経をあげていた。修行中にお邪魔してもいいのかな?と少し躊躇するが、「どうぞ」と言ったからにはいいのだろう。修行の邪魔にならないよう、ひっそりと中に入り、正面に安置されている仏像やダライ・ラマ14世の写真などに祈りをささげ、ひっそりと外に出た。
境内を出ようとすると、入れ違いにチベット人僧侶が1人、入ってきた。
「タシデレ」
私が声をかけると、僧侶もにこやかに返してきた。
「タシデレ」
そう。ラダックではあいさつの言葉は「ジュレー」だったが、これからはチベット人コミュニティでのあいさつは、チベット本土の言葉で「タシデレ」となる。
なぜなら、ここにいるチベット人たちは、中国共産党の魔の手から逃げ延びてきたチベット難民なのだから。
次に、表通りから見ると手前に当たる場所にある、ペマ・ウーリン・ゴンパを訪れた。ここも、本堂のほかは小さな堂が2つと、チョルテンが1つ、仏像が1つ建っているだけの小さな寺院である。
本堂に入ると、2階部分に頭が突き出るほどの大きな仏像が安置されている。2階に上がると、いかめしい顔つきの守護神を左右に従えた、仏像の穏やかな表情を正面から見ることができる。
入り口には、「写真撮影:20ルピー」と書かれている。写真も撮影したかったし、お布施もしたかったのでしっかりと20ルピー支払って仏像の写真を撮らせて頂いた。
これで、マナーリー巡りは終了。他にも疲れに良さそうな温泉のあるヴァシシトなどの場所があるのだが、少し遠いので行くのが面倒臭くてやめてしまった。
後は、次の目的地に向けて鋭気を養うばかりである。
スタクナ・ゴンパ
2011年10月 3日
次の目的地・スタクナ・ゴンパに到着したのは、マト・ゴンパを出発してから1時間40分も経った後だった。
スタクナ・ゴンパは、インダス川南岸の荒野の中にポツンと1つだけ突き出た小高い丘の上に建っている。インダス川の側に回ると、雪山を背景にゴンパを見ることもできる。
中に入って2階に上がると、親切な老僧が見どころである部屋の鍵を一つ一つ開けて案内してくれた。
左奥にドルジェ・パンモ像が安置され、正面奥に7体の尊像が並び、右側に3体の仏像が並ぶなどするドゥカンをはじめ、いずれも、この日最初に行ったマト・ゴンパで内部を正面からは何も見ることができなかった無念さを晴らしてくれる見応えだった。
ドゥカン
しかし、この場所で私の心を打ったのは、ゴンパの建築物でも中身でもなかった。
そこから見える風景――真っ青な空の下、赤茶けた山々が連なり、方向を変えると雪山も見える。広大な谷あいには、ラダックを育んできたインダス川が流れ、そのほとりにはポプラを中心とした木々が青い葉を生い茂らせている。その向こう、山の手前には、私が特に気に入ったティクセ・ゴンパの姿も見える。
私をここまで満足させてくれて・・・
私が心底、ラダックに満足した一瞬だった。心残りが無いと言えば嘘になるが、今回はこのあたりでいいだろう。
[そろそろ――行くか]
私は乗り合いタクシーでレーに戻り、旅行社で次の場所への足をブッキングした。
そして、レーの中心寺院・ジョカンで最後の祈りをささげた。
マト・ゴンパと農村風景
2011年10月 3日
昨日タクシーの中から見えた、インダス川南岸のはるか彼方にあるゴンパが気になり、この日朝からそのマト・ゴンパへ向かうことにした。
古い情報だと7時30分にマト行きのバスがあるとのことだったが、やはり古い情報。現在では9時発になっており、しかも既に他の場所からの途上で客を大勢乗せたバスは9時20分になってようやくレーのバスターミナルに到着。それからマト・ゴンパに到着まで1時間。奇跡的に座席を確保できて助かった、という混雑ぶりだった。
間近から見るマト・ゴンパは、回収されたためか割と真新しい印象を受けた。向かって左側の堂の白と、右側の堂の赤、そして背後の青空のコントラストが美しく目に映える。
しかし、僧侶が誰もおらず、肝心の中に入ることができない。誰かいませんか~と言わんばかりにうろついていたら、奥から英語の話し声が聞こえてきた。声が聞こえてくる部屋の奥を見ると、西洋人の女性が無線を相手に話している。尼僧ではなさそうだが、ここでワーキング(働いている、ということではなくどうやら何か研究をしている様子)をしているとのことだった。そのフランス人女性に案内されて赤い堂の1階の一室に入れてもらったが、美術品制作真っ最中の何も無い部屋だった。
その隣の部屋に大仏が安置されているようだったが、残念ながら鍵がかけられていて、鍵を開けることのできる僧も不在の様子。幸い、フランス人女性が無線で話していた部屋の前の窓からその仏像を見ることができ、その窓を開いて拝ませてもらった。
次の目的地へは歩いていけそうだったので、そのまま歩き出した。
道中は辺り一面の農村風景。牛などの家畜がのんびりと草をはんでいる。大部分は刈り取りが終わっていたが、一箇所だけ、穀物(時期を考えると恐らく小麦)の収穫作業を行っている場面に出合うことができた。今回の旅では何度も農村を見る機会があったにもかかわらずこうした本格的な農作業を行っている場面に出合ったことがなかっただけに、最終段階でそれらしい場面を見ることができたのは幸運だった。
やがて、次の目的地が見えてきた――のだが、ここから大した傾斜でもないのにダラダラとしたつづら折りの道になってきた。何度か近道をしたものの、目的地はなかなか近づいてくれない。
ヘミス・ゴンパ、チェムレ・ゴンパ(2度目)
2011年10月 2日
ラダックで最大といわれるヘミス・ゴンパにまだ行っていなかった。これを見ずしてラダックを去ることはできないと思い、この日目指すことにした。
まだ閑散としたバスターミナルへ行ってみると、ザンスカールからの帰途を共にした田辺さんがいた。
「今日はチェムレ・ゴンパに行って明日はヘミス・ゴンパに行くつもりなんですよ」
と田辺さんは言う。
「あ、でもチェムレとヘミスは割と近いから纏めて行った方がいいですよ」
しかし、「割と近い」とは言っても、どちらもレーから35km離れたカルの街からのアクセスが便利だというだけで、双方の間の距離は結構ある。そうなると、バスよりもタクシーをチャーターした方が便利なのだが・・・
そこで、私は考えた。
[ヘミス・ゴンパには自分も行きたい。チェムレ・ゴンパはもう行ったけれど、もう1回行ってもいいかな]
ということで、2人してタクシーをチャーターして行くことになった。
近くにいたドライバーに料金を訪ねてみたところ、
「タクトク、チェムレ、ヘミスと行って1900ルピーちょっとですね」
とのこと。
「タクトクには行かなくてもいです」
「じゃ、200ルピー安くします」
ということで、バスターミナル近くの食堂で朝食後、その運転手の車でまずはチェムレ・ゴンパへと向かう。
チェムレ・ゴンパについては2度目なので、様子についてはその時の記事を参照していただくことにして、ここでは話をヘミス・ゴンパの方に集中させる。
ヘミス・ゴンパはカルからのアクセスが便利とはいえ、カルの街からその姿を見ることはできない。インダス川の南岸に渡り、山道を随分奥に入った場所にある。
チベット本土のガンデン・ゴンパ、セラ・ゴンパ、デプン・ゴンパ(以上ラサ)、タシルンポ・ゴンパ(シガツェ)に比べれば小さいものの、数十もの建物から構成されるヘミス・ゴンパは確かにそれまで見たラダックのゴンパの中で最大のものだった。
特に本殿は大きく分けて3つの部分から成り立っていて、その部分部分だけで小さなゴンパが一つすっぽり入ってしまいそうな大きさである。
本殿正面の壁を見ると、仏や神々などを描いた絵が100以上ずらりと飾られている。
本殿に入る前に、本殿前の広場前庭隅に入り口のある博物館に入ってみた。中は撮影禁止で、カメラを含めた荷物は入り口のロッカーに預けることになる。
入り口となる建物自体は小さかったが、入場して地下の展示室に潜ってみると、どこまで続くのだと言いたくなるほど(と言うより、田辺さんと実際にそう言い合った)広いフロア面積を誇っている。勿論、その面積に見合う数の展示品――仏像、タンカ、儀礼用具、武具、衣服等々――がフロア全体に整然と並べられている。
展示品の数と質は、間違いなくラダック一番だろう。しかし、どうもあるものをただ並べているだけ、というような散漫さが感じられ、目玉となるような特別な展示品も見当たらない。その点に関して言えば、テーマ毎の纏まりがあり、仏陀の生涯を描いたタンカ群という目玉品のあったチェムレ・ゴンパの博物館の方に軍配が上がる。
博物館の規模が特大なら、本殿に安置されている像も特大だ。前庭への入り口から見て一番手前の部分2階にあるグル・ラカンには巨大な金色のグル・リンポチェ像が安置されている。先程訪れたチェムレ・ゴンパにも大きなグル・リンポチェ像があったが、それとは比較にならない大きさだ。
その他にも、集会所であるドゥカン・チェンモ、チョルテンを中心に神仏像が並べられたツォム・ラカン、ツェテン・ドルマ像を中心とした像や壁画が見事なラカン・ニンパなど、その規模に比例して見どころも多い。
ラカン・ニンパ
ところで、一番上の写真を見ると分かるかと思うが、この時本殿奥の3階部分が何かでえぐられたかのように大きく破損し、その影響で本殿中央のドゥカン・パルパの公開が控えられていた。破損した箇所では、多くの人々が修復作業に当たっていた。
Men at Work
「これは一体、どうしたのですか?」
英語でいろいろな人に尋ねてみたが、「英語ダメ」「分からない」と、要領を得ない答えばかりだ。田辺さんがタクシーの運転手に尋ねてみたところ、
「雪が屋内にたまって、それが解けた水圧で押し流された」
とのこと。何だそれは? もしそうだとすると春に壊れたことになるが、その修理ををなぜ今?
兎にも角にも、見応えのあるゴンパだった。田辺さんも
「(チェムレもヘミスも)どちらも見応えありましたね」
と、かなり満足した様子だった。
予習不足でこのゴンパの存在をかなり遅くに知った私も、これを見ずしてラダックを去るということを避けることができて本当に良かった。
ギャワ・リンガ磨崖仏
2011年9月29日
少し宿で休んだ後、今度はパドゥムの南へと向かった。
何が何でも見ておきたい場所の残る1箇所――それが、ギャワ・リンガ磨崖仏だった。パドゥムの東側を流れるツァラプ川の岸に立つ大岩に刻まれた仏たちである。
手元のガイド本を見ると、谷の底近くに架けられている橋に通じる小道を降りて、更にその橋の先にあるという。その通りに進んでいくと、遂には川辺にまで降りてしまい、更に川辺を歩くことになった。
しかし、なかなかその岩が見つからず、それがそうなのだろうと見回してみると、上の方にタルチョ(五色の祈祷旗)が飾られている岩が見つかった。
タルチョのある所に仏教あり――その原則に従えば、あれに間違いない。川辺からその岩まで上ってみると、まずチョルテン(仏塔)が刻まれているのを確認することができた。
岩の別の側面へと移動してみる。すると、岩肌に5人の仏たちがくっきりと刻まれているではないか。
これを見た瞬間、私は思った。
[これで、心置きなくザンスカールを後にすることができる・・・]
私がラダックに求めていたのは、ゴンパではない。チベット仏教そのものなのだ――先程サニで見たチャンパ石仏やこの磨崖仏が、私をそんな原点に立ち返らせてくれた。もはや、
ゾンクル・ゴンパに対する未練もサニ・ゴンパの内部に対する未練も大幅に(100%とは言えないが)消えてくれた。
それに、ザンスカールについて仏教以上に楽しみにしていたのが、自然の風景だった。トレッキングこそしなかったが、これについても既に十分に満足していた。実は、パドゥムに来る途上で目にした大自然の風景だけで既に大満足していたのである。
もっと長居してもよかったのだが、手持ちのルピーの問題もあるし、ラダックの旅行シーズンがそろそろ終わりに近づいてもいることだ。
[よし、行こう]
問題はレーに向かうための交通手段だ。
ところで、ギャワ・リンガ磨崖仏への道だが、わざわざ谷底に降りなくてもフラットな道筋で行けることに、帰り道で気がついた。
サニ・ゴンパ
2011年9月29日
何が何でも見ておきたい場所は、あと2箇所あった。その一つが、パドゥムから北西へ7kmの場所にあるサニ・ゴンパ(サニ・パレス)だった。幸いにも、乗り合いタクシーがすぐに見つかったので早速向かった。
サニ・ゴンパは珍しく平地に建てられたゴンパである。本堂が一つと、チョルテン(仏塔)が幾つかあるだけの小さなゴンパだが、その本堂の内部が素晴らしいらしい。
本堂の周りは工事中で、マニ車の列を設置するスペースはできているものの、肝心のマニ車がまだ設置されていない。しかし、本堂そのものはかなりきっちりとメンテナンスされているようで、真新しさすら感じさせられる。
――にもかかわらず、塀を工事している俗人のインド人以外、全く人けが無い。本堂の扉も固く閉ざされている。境内の井戸へ水をくみに来た女性にも確かめてもらったが、やはり誰もいないようである。
仕方が無いので、先に境内の外にあるチャンパ石仏を見に行くことにした。実は本堂以上に見ることを楽しみにしていたのがこちらなのである。
こちらも入り口は閉ざされているが、外から覗くことはできた、チョルテンの前に、1000年以上前のものとは思えないほど保存状態のいい石仏が並んでいる。ここでお祈りをして、本堂の中を見ることができないイライラを少し和らげた。
しかし、1時間以上待っても誰も来る気配が無い。この分では、幾ら待っても無駄となる可能性も十分にある。
残念ながらの連続だが、サニ・ゴンパ内部の参観も諦めざるを得なかった。しかし、立派な本堂の外観とチャンパ石仏を見ることができたので、まあよしとしよう。
サニにはこのほか、地元民に神聖視されている小さな湖もあり、仏教以外に自然も楽しむことができる。
パドゥム北部
2011年9月29日
起床がいつもより遅くなったものの、昨日疲れきった体の調子はだいぶ良くなっていた。
初めのうちは、今日は近場だけにしてできるだけ体を動かすのは控えようと思っていたのだが、結果から言うと、この日も精力的に動き回ることになる。
この日はまず、昨日よりは手前のパドゥム北部に出かけた。最初に、昨日もすぐそばを通りながら後回しにしたピピティン・ゴンパを訪れる。小高い丘の上、本堂の背後にチョルテン(仏塔)が建てられているその外観は、巻貝に入ったヤドカリのようで面白い。
ご本尊は千眼千手十一面観音。黄色い布で覆われていて、顔がたくさんあるのは分かるが手が全く見えなかったのが少し残念。
放牧されている家畜や農作業をする人々を横目に、畑を横切る形で次の場所へ向かう。
実はパドゥムには今でもパドゥム王家が続いている。かつては街の南にあるパドゥム・ゴンパそばに王宮があったのだが、今は街の北外れにあるポタンで暮らしている。
その敷地には真新しいゴンパもあったが、周りは人を寄せ付けぬかのように囲いで覆われていて、とても中に入れそうになかった。
かつて権力を握っていた一族が今では外部から隔離されているようである。滅びてはいないものの、そこには「栄枯盛衰」の物悲しさが感じられた。
チューチグザル・ゴンパ
2011年9月28日
次に目指すは、チューチグザル・ゴンパ。カルシャ・ゴンパとは肩を並べるようにして建っているが、規模はその数分の一程度だ。
それに、隣り合わせとは言ってもその間は谷によって隔てられているので、一旦カルシャ・ゴンパから下りてまた坂道を上らなければならない。
ちょっと離れた場所から道を探し、畑を越え、チョルテンの並ぶちょっとした丘を越え、ようやくつづら折の緩やかな道を見つけた。もうショートカットはせず、道なりに歩く。それでも、これまでの疲れの蓄積から、到着する頃にはまたも、息も絶え絶えになっていた。
向かって右側にあるお堂に入ると、4人のお坊さんが談笑していた――いや、お坊さんではない。尼さんだ。ここは尼寺だったのである。カルシャ・ゴンパと比べて規模が小さかったのも、尼さんの数が少ないことが理由なのかもしれない。
お堂の階段を上がろうとすると、
「ここは入れませんよ」
と言われると同時に、中からものすごい勢いで小さな犬が吠えながら駆け出てきた。なかなか優秀な番犬である。
ここで入れるのは、向かって左側にある大きなラカンだけである。先程中庭にいた尼さんの1人に扉を開けてもらって中に入る。
ラカンの中には、小さなチョルテン(仏塔)や仏像を前に従えた、高さ6mにもなる金色の千眼千手十一面観音像が安置されていた。実は、「チューチグザル」とは「千眼千手十一面観音」の意味なのである。ちょっと目つきは悪いが、観音様らしい穏やかなオーラを発している。
観音様の表情に癒されたのか、ラカンを出る時には少しばかり気分が軽やかになっていた。
さて、ゴンパを下りる段になって、来る時とは別の坂道を見つけた。足元はコンクリートでしっかりと固められている。来る時の坂道よりも傾斜は少々きついが、こちらの方が時間はかからずに済みそうである。
坂道を下り切ると、先程までいたカルシャ・ゴンパの真下に辿り着いた。間違いなく、ここからこの道を行けばもっと時間を短縮することができただろう。
それにしても、この道は余りに分かりにくく、見つけにくい。
カルシャ・ゴンパ
2011年9月28日
目的のカルシャ・ゴンパの麓に到着した私は、2時間半もかけて歩いてきたことを少々後悔した。
ゴンパは崖にへばり付くようにして、かなり高い位置まで建てられていたのである。
上り始めのうちは小川のほとりで遊ぶ子どもたちや、水浴びを嫌がって飼い主から逃げようとする羊を上から眺めて楽しんでいたが、それが見えなくなると急な坂に脚の筋力を奪われ、汗も出て、息も絶え絶えになり、身も心も疲れが蓄積されてくる。
それでも、最上部からザンスカールの広大な景色を見ていると、少しは気分が晴れやかになってくる。
最上部にある本堂の右側の部屋に入れさせて頂く。正面には中央にダライ・ラマ14世の写真が置かれていて、その左右には経典の棚や金色の像などが安置されている。右側の壁には色鮮やかな仏画が描かれていたが、現在作成中のようで手前半分はまだ下絵状態。そんな中、一番手前には子どもの悪戯描きのような絵が描かれていた――と言うより、間違いなく小僧さんの悪戯描きだろう。
本堂左側3階の部屋は最初鍵が掛けられていたが、やがてやって来たお坊さんに開けていただいて中に入れてもらった。
入ってすぐの部屋は正面に仏像やチョルテンが安置され、壁には仏画が描かれていたが全体的にがらんとしていてもの寂しい。
と、お坊さんが「奥へどうぞ」と促す。誘われるがままに入った奥の部屋は、手前より狭いながらも、正面には聖者たちの像などがずらりと並んでいて、こちらの方が壮観だった。
正面右の方に、ツァンパ(麦こがしの粉末)にお布施が刺されている台があった。私もそれに倣ってお布施の紙幣をツァンパに刺すと、その様子を見ていたお坊さんが私を呼びつけた。何かと思うと、お布施の台帳に名前やパスポート番号まで記入を求められ、更にはお布施の証明書のようなものまで頂いた。
こんなものまで出していただいて恐縮である――たった10ルピーのお布施だというのに。
中身もなかなかのゴンパだったが、とにかく上るのに疲労困憊させられた。このゴンパで一番テンションが上がるのは、少し遠目から崖にへばり付くゴンパの全体像を見た時かもしれない。
ラマユル・ゴンパ
2011年9月25日
ラマユルでの「宿の目星はつけていたのだが、そちらの方向に向かって坂を上り始めるや否や、
「Homestay?」
と、ラダッキ(ラダック人)の男性に声をかけられた。値段を聞いてみると、1泊150ルピーだという。安いし、これまでの経験からまたホームステイをするのも悪くないと思ったので、その話に乗ることにした。但し、この宿に限らずこの一帯はホットシャワーが出ないとのことで、日中またしても寒さに震えながら水で体を洗うことになる。
「JULLY HOME STAY」というその宿で昼食をとった後、ここに立ち寄った唯一の目的であるラマユル・ゴンパを目指す。
まず目を見張るのは、その外観だ。真っ白な壁、赤茶色の屋根や窓枠がまばゆいほど奇麗なのは19世紀にドグラとの戦争で破壊されたのを再建したものであるからだが、元の姿が立派なものでなければ、これ程のずっしりとした安定感をもって再建されることはあり得ないだろう。
中でも私の心を引きつけたのが、本堂に隣接するチョルテン(仏塔)群である。大小18基もあるという中、とりわけ大きな2基はやはり近年になって再建されたものであることは明白だが、スノーライオンや孔雀のレリーフがあしらわれていたりして存在感は格別だ。
その他小さなチョルテンも、マニ石(経文やマントラ等が刻まれた石)が無数に供えられていて、信仰の具としての役割を果たしている。
チョルテンの林全体の周囲には周回路と、マニ車が設置されている。回しながら歩いていると、一体いつになったら終わるのだろうと思わさせられるほどの数がある。それだけチョルテンの林が広いということだ。そしてよく見ると、マニ車とマニ車の間には石に描かれた仏様が安置されている。まるで、マニ車を回して歩く人々を見守っているかのようだ。
普通なら本堂が主役でチョルテンは脇役、というバランスが普通だが、このゴンパでは本堂とチョルテン群が言わば“双頭の鷲”の如く対等なバランスで存在している。
再建されたが故の真新しさということもあるが、このゴンパの外観の立派さは、これまで見た中でもかなりのレベルに達していると言えるだろう。
――え? 中はどうかと?
まあ――元々あったものはドグラとの戦争で破壊されたようなので――ごくごく平凡だった。
一旦下界に下りて色々な角度からのゴンパの眺めを楽しんだが、チョルテン群をもう一度見たい余りにまた上って、マニ車を回しながら周回してしまった。
その帰り道、偶然宿の主人と出くわした。挨拶をして、分かれ道の右側を行こうとすると、
「仏教的には左側を行くのが正しいですよ」
と言われた。よく見ると、分かれ道の間にはマニ石がびっしりと敷き詰められたマニ壇が横たわっていた。なるほど、聖地を回る場合は右回りに歩くというチベット仏教の原則を考えると、確かにこの場合はマニ壇の左を歩くのが正しい。
それにしても、このゴンパは今まで見たどこよりも、マニ石が多いような気がする。
アルチ・チョスコル・ゴンパ
2011年9月24日
次は、バス発着所から見て逆の下る方向にあるアルチ・チョスコル・ゴンパに向かう。ゴンパ自体には先程既に訪れていたのだが、Lunch Breakに入っていたため、中を見るための最訪問となる。
しかし、堂の入り口は閉ざされているし、開けてくれそうな人も見当たらない。
「ジュレー」「Excuse me」
繰り返しながらウロウロしていると、境内中央のエリアで手を洗っている気難しそうな老僧がいた。
「中を見せて頂いてもよろしいでしょうか?」
そう言うと、老僧は黙って境内中央エリアのドゥカンの扉を開けてくれた。
「No Photo!」
拝観料を払う際、老僧は肩にカメラを掛けている私に釘を刺した。ここでは、例えNo Flashであろうと写真撮影は厳禁なのである。
この堂は手前の部屋と奥の部屋=ドゥカンに分かれていて、手前の部屋は壁に描かれたごく普通の仏画と、ドゥカンとの間を仕切る壁の中に仏像が安置されている。
そして、ドゥカン――先程見たトゥジェチェンポ・ゴンパのものに劣らない見事な曼荼羅に心を奪われる。そして、扉の枠部分に木彫りの彫刻が成されていたりもして、その芸の細やかさに驚かされる。
ドゥカンの参観を終えて外に出ると、今度は一番奥のエリアに促される。ここにはロツァサバ・ラカンとジャムヤン・ラカンという2つの部屋があるが、前者はこの時閉鎖されていて、見ることができたのはジャムヤン・ラカンだけだった。
ジャムヤン・ラカンには中央に4対のジャムヤン像が四方に顔を向けて安置されている。私は外の明かりに照らされている正面のジャムヤン像しかじっくり見なかったが、象やスノーライオン、ガルーダなどの小さな像があしらわれているのが印象に残った。壁はやはり、見事な曼荼羅や千仏画等で彩られている。
そして最後に、一番手前のエリアにあるスムツェクに促された。
参観できた1階の壁には曼荼羅は無く(入ることのできない2階、3階には曼荼羅があるらしい)、千仏画が主だったが、ここで心を奪われたのは壁画ではなかった。
左・正面・右に安置された、高さ5メートルにも及ぶ立像が、この部屋の主役である。左のものは白、正面のものは黄色、右のものは橙色で全身を塗られている。その規模に圧倒されつつも、2階部分にはみ出ているご尊顔は穏やかで、心が休まる思いがした。そして、ここにも細かい部分の芸が――立像のズボン部分に、彩り鮮やかな仏画が描かれているのである。
いずれの部屋も、その芸術性の高さに舌を巻かれる思いだった。そして、これだけのものを見せつけられると信心の高揚も自ずから内面からわき起こってくる。エツコさんや吉田さんが強く勧めるのも良く分かる。
写真撮影が不可なのは、写真好きとしては少々残念だったが、これだけ素晴らしいものは現地でなければ見られない状態にしてこそ価値が上がるというものだろう。
トゥジェチェンポ・ゴンパ(アルチ)
2011年9月24日
さて、アルチのゴンパ地区に戻ったところで、ゴンパ見学である。
この地区にはゴンパが4つほどあるが、私はそのうち2つに絞って訪れることにした。
まず、山の斜面を少し上がって橋を渡った先にあるトゥジェチェンポ・ゴンパへと向かった。
しかし、着いてはみたもののどの建物も閉ざされているか、工事中かのいずれかである。よくよく手持ちのガイド本を見ると「開くのは朝夕のみ」と書かれている。
[タイミングを間違えたか
]
と、引き揚げようとした時のことだった。
「ジュレー」
中からラダッキ(ラダック人)のおばあさんが声をかけてきた。ラダック語で話しかけてくるので言葉の内容は分からないのだが、私の持っているガイド本を見せなさいと身振りで言ってくる。トゥジェチェンポ・ゴンパのページを見せると、
「そうそう、ここね」
と言う。どうやら、拝観料を払えば中を見せてくれるようである。財布の中から10ルピー、20ルピーと出したところ、30ルピーで開けてもらえることになった。
おばあさんは1、2分ほど中に引っ込んだ後、若い女性に私が支払った30ルピーを渡しながら出てきた。その後は、その女性が案内してくれた。
(それにしても、ゴンパの管理に俗人の女性が携わっているってどういうことだろう
)
案内されたのは、工事真っ最中の建物だった。1階の部屋の鍵を開けてもらって中に入ると、正面のケースに観音像が安置されている。
しかし、この部屋の主役は観音像ではなかった。
おびただしい数の仏様(千仏画)と、大小の曼荼羅が幾つも描かれた壁こそが、この部屋の主役だった。よく見ると、吹き抜けになっている先の2階、3階にも壁に仏画が描かれている。
その部屋の参観が終わると、女性は鍵を閉めて立ち去って行った。それでもまだ何かがありそうな気がしてウロウロしていると、工事をしていた俗人の男性が
「2階にもありますよ」
と言ってくるので誘われるがままに上がって扉を開けてみると、今度は本尊があるべき部分に大きな曼荼羅の壁画が描かれ、周りの壁にはやはり千仏画が描かれていた。
1階に戻ると、やはり工事をしていた俗人の男性が
「こちらもどうぞ」
と、先程まで正面の床の工事で自分が塞いでいた扉の向こうへと促す。
そちらにも入ってみると、真ん中にポツンとチョルテン(仏塔)が1つ建っている。
しかし、ここでも主役はチョルテンではなかった。やはり、壁に描かれた大小さまざまな曼荼羅とおびただしい数の仏様が圧倒的な存在感を放っていた。
どの曼荼羅も仏画も、美術的レベルの相当高いものである。しかし、ここで感じるべきは芸術性よりもやはり宗教性だろう。
不思議な気分だった。まるで自分が、この世とは違う仏教の世界にいざなわれたような感覚に襲われた。既にラダックで幾つものゴンパを訪れたが、現世を離れたような感覚はこれが初めてだった。
不思議といえばもう一つ――このゴンパでは、僧侶にお目にかかることがついぞ無かった。
レーに見るチベット仏教
2011年9月23日
レーに来てはや13日目になる。ここまで、レーで何度も目にしながらここで書いていなかった、レーに見るチベット仏教について少々書くことにする。
<レー・ジョカン(ゴンパ・ソマ)>
チベット本土の首都・ラサの中心寺院がやはり「ジョカン」であることから連想されるように、レーの、と言うよりラダックの仏教の中心寺院がここである。周囲のゴンパに比べて規模は小さいこともラサのジョカンと同じだったりする(とは言ってもラサのジョカンはレーのものよりもずっと大きいが)。それでも中心寺院であることに変わりはなく、礼拝者は後を絶たない。ロサル(チベット正月)やラダック・フェスティバルの際にはイベント会場にもなる。
<マニ車>
中に経典が入っていて、1度回すとお経を1回唱えたのと同じ功徳が得られるという。高さ数メートルの大規模なものから、寺院等の周囲に幾つも連ねられている中規模のもの、手に持って回すことのできる小規模なものと、大小さまざまある。特に大規模なものは、1回回すたびに「カラーン」という鈴の音が鳴り響き、これがラダックはじめチベット文化圏を象徴する音になっていると言ってもいい。
<タルチョ>
青・白・赤・緑・黄の5色の祈祷旗。表面には経文やルンタ(風の馬)などが描かれている。風にはためくごとに功徳が得られるという。寺院などの仏教施設以外にも、一般の家屋や自動車の中などにも張られている。(写真はレー王宮にて)
<マニ壇>
石に経文やマントラを刻んだマニ石を奉納した壇。
現地はレーほどにネット環境が整っていない。ザンスカールにはインターネットカフェがあるという噂も耳にするが、自分の目では未確認だ。
その間、ブログの更新は元より、メールの送受信すらままならない状態になる。
ラカン・ソマ
2011年9月23日
レー王宮の西側にある小さなツェモ・ゴンパというゴンパが、午前8時からの30分間限定で開かれているという情報を得てこの日朝早速行ってみる。
しかし、王宮の真下まで息を切らせて上り、王宮外壁下の道なき道を歩いてようやく到着したものの、門は固く閉ざされていた。
このまま手ぶらでは帰れない、と思って近辺を歩いていると、ラカン・ソマという小さな寺院の門が開いていたので中に入ってみる。
2回にあった本堂の内部は取り立てて素晴らしいという程のものでもなかったが、苦労だけして徒労のまま引き返すことを回避できたという意味だけでも実りはあった。
チェムレ・ゴンパ
2011年9月22日
タクトク・ゴンパから更にレー方面に戻るが、ここでまたちょっと寄り道。チェムレ・ゴンパを訪れた。
チェムレ・ゴンパは山腹に建つ幾つもの僧房に守られるようにして岩山の頂の上に立派な本堂が建てられている。
個人でこうした山上のゴンパへ行く時、私は大概正面突破で麓から攻略しようとするが、今回は車で山頂の入り口まで運んでもらい、かなり楽をさせていただいた。その途中、年配の僧侶が私たちの車を止めて「乗せてくれないか?」と頼んでくる。すると、運転手は快くそれに応じて彼を頂上まで乗せてあげた。さすが、ラダックでは僧侶はいつどんな時でも大切にされるものだ。
中庭から直接入ることができるドゥカンをまず見学。ここは壁に描かれた無数の仏様が見ものだが、中には明らかに近年になって描かれたものもあった。
そのドゥカンを出たところで、先ほどとは別の老僧に連れられた若い女性と出くわした。
「あ、こんにちは」
そう挨拶されて気がついた。彼女は先日バスでティクセ・ゴンパを訪れた時に少し一緒になった日本人女性だったのだ。以後、私と吉田さんもそれに便乗する形でゴンパを歩き回る。
その次に訪れたグル・リンポチェ・ラカンも、正面に安置されたグル・リンポチェの像や壁に描かれた忿怒尊の絵が見事な部屋だった。
しかし、このゴンパで一番見応えがあったのが、屋上に設置された博物館だった。
外目にはそんなに広いとも思えないのに、どうやってこんなに多くの部屋を造ったのだろうというくらい、展示室と展示物の充実した博物館だった。仏教の儀式の用具から生活用具までさまざまなものが展示されている中、最も印象的だったのが仏陀の生涯を描いたシリーズもののタンカだった。
(博物館内部は暗く、フラッシュ無しでは撮影不可能だったため写真なし)
その後も、ドルマ・ラカンやラマ・ラカンを、老僧に扉を開けて頂いては見学。いずれも、間違いなく一級品であろう像や小型チョルテンが並ぶ一級品の部屋だった。
それでも一番印象に残っているのがやはり博物館だったということが、その充実ぶりを示していると言えるだろう。
「いやー、見応えありましたね」
私と吉田さんは言い合った。今回の1泊2日の小旅行のトリがここになったというのは、最高の締めくくりだと言って差し支えあるまい。
後は、吉田さんはストクの「にゃむしゃんの館」まで、私はレーへ戻るばかりである。ここで、先ほどの女性が今度は私たちに便乗して、レーまで同乗することになった。
タクトク・ゴンパ
2011年9月22日
パンゴン・ツォからの峠道を越え、上ラダックの谷あいに戻る。ここで、そのままレーには戻らずにちょっと寄り道。タクトク・ゴンパを訪れる。
このゴンパは18世紀創建のニンマ派のもので、旧ゴンパと新ゴンパの2つの建物がある。この時は新ゴンパは門が閉ざされていたが、本命は旧ゴンパの方なので問題ない。
旧ゴンパの方へ上がってみると、ガイド本に掲載されている写真よりもかなり真新しく色鮮やかなのに驚かされる。どうやら最近になって修復が行われたようだ。
本堂に入ると、ガラス張りの扉の向こうに何かがありそうな場所があったが、鍵がかけられていて中に入ることができない。ひとまず上に行って、仏像やチャムの仮面が安置されたカンギュル・ラカンを参観した後、外に出ると、
「お客さん、こちらへどうぞ」
と、下から僧侶に声をかけられる。行ってみると、先ほどは鍵がかけられていたガラス張りの扉が開けられている。「どうぞご参観ください」ということらしい。
中に入ると、薄暗く少しひんやりとした空気の中に、グル・リンポチェの像や千手観音像などが安置されている。
天井や床が石になっていることに気づいた私は、僧侶に尋ねてみた。
「ここは――洞窟ですか?」
「そうです」
そう。ここはダグプクという洞窟ラカンなのである。道理で他よりも薄暗くてひんやりとしているはずだ。
ティクセ・ゴンパ(2度目)
2011年9月21日
午前5時すぎ、まだ真っ暗な中、宿を出て(チェックアウトは前日に済ませた)ジョカンの前に向かう。5時半に迎えの白いTOYOTAイノーバが来ることになっている。
ちょうど5時半。言われた通りの車が来たので近寄ってみたが、
「いや、私は1人のラダッキ(ラダック人)を迎えに来たのです」
とのこと。あれ?おかしいな、と思っていたら10分ほどして白いイノーバがもう一台来た。
「ストクへ?」
その通り。この車が正解だ。同じ車がこんな早朝のほぼ同じ時間に来るなんて、よくできた偶然があったものだ。
ストクに着く頃には辺りも明るくなっていた。先日お世話になった「にゃむしゃんの館」でもう1人の日本人・吉田さんをピックアップしていざ、本日の最初の行き先に出発である。
最初に訪れたのは、先日も訪れたティクセ・ゴンパである。この日は特別に朝のお勤めを7時から公開していたのだ。
この日は晴れていて先日よりもいい写真が撮れた。
本堂では既に儀式が始まっていて、中ではお坊さんたちが着座して、時折楽器を鳴らしながらお経を唱えている。そしてその間を、小僧さんたちがツァンパ(麦こがしの粉末)とバター茶を着座しているお坊さんたちに給仕して回る。
暫く読経が続いた後、その場にいた俗人の客たちが、ご本尊等にお祈りするよう促される。他の皆さんが手を合わせてお祈りをする中、私は先日このゴンパの大仏殿でやってすっかり慣れてしまったようで、ご本尊とダライ・ラマ法王の写真の前ではしっかりと五体投地をさせていただいた。
貴重なものを見させて頂いたが、これは今回のお出掛けでは前座に過ぎない。私たちは次の場所へ向かうべく、再び車上の人となった。
スピトク・ゴンパ
2011年9月19日
レー近郊でまだ行っていない大物ゴンパ(僧院)があった。レーから南へ8kmの場所にあるスピトク・ゴンパ――ティクセやストクとは道が別方向になるのでこれまで行きそびれていたのである。
多分に漏れず岩山の上にあるこのゴンパ、空港に隣接する場所にあり、上までのぼると滑走路がすぐ横に見える。ゴンパすれすれに飛行機が発着する光景はなかなかスリリングだ。
境内に入り、ストゥーパの下に設けられたトンネルをくぐるが、そこにはなぜか日本語だけで「スピトクゴンパの由来」という説明文が書かれている。それによると、ここは11世紀に端を発するラダック地方で最も歴史の古いゴンパらしい。
外目にはそこまで大きなゴンパにも見えないが、内部が複雑で、こっちへ行けばあそこに着くのではないかと思えば全然違う場所に行き着いたり、あそこを行けばどこに着くのだろうと思って行ってみれば先ほど来た場所にまた出てきたりと、どこを歩いているのか本当に分からなくなる。
最上階の堂や砂曼荼羅台など、見どころの多いゴンパなのだが、この時は勤行中の本堂を見せて頂くことしかできなかった。
本堂正面の中庭で、3人の僧侶が布製の丸いものを繋げて何かを作っている。直径20cmほどの大きなものを中心に、その半分ほどのものを放射状に幾つも連ねているのだ。
「何ですか、これ?」
と尋ねると、
「Treasure(宝石)ですよ」
と言う。私の英語力では詳しいことを聞かされても分からなかっただろうが、どうやらこの布の丸いものを宝石に見立てて何かを作っているようである。
メインの堂とは別にもう一つ、山の上の更に高い所に堂が建てられている(1枚目、2枚目の写真参照)。この場所から見るインダス川の景色はこれまで別の場所で見てきたよりも緑が多くて人造物が少なく、ちょっと趣が違う。
堂の内部は薄暗く、奥に進むとご本尊のほかにチャムのお面が壁の上で目をむいていて、ちょっと気味が悪い。
レー到着9日目。そろそろレー近郊では見るものも見尽くした感がある。そろそろ遠くへ足を延ばすことを具体的に考えなければ。
シャンティ・ストゥーパ20周年式典
2011年9月18日
先日泊まったた「にゃむしゃんの館」のエツコさんからのお誘いで、シャンティ・ストゥーパ(日本山妙法寺)完成20周年式典に赴いた。先日も訪れたあの高台のストゥーパ ―― また登るのかと思うと少しげんなりしてしまう。とはいえ、さすがに体が高地に慣れてきたか、先日よりも楽に登れた気がする。
式典は、インド仏教界の重鎮や日本からも九州の高僧がゲストとして呼ばれて行われた。雲一つ無い空から降り注ぐ強い日射しの下、入れ替わり立ち代りスピーチが行われて少々げんなりし始めたが、いいタイミングでチャイやスナックの差し入れがあり、気分一新。スピーチも終わってようやくお目当ての出し物が行われた。
出し物はいずれも歌舞。仏教に限らず、ラダック各地の歌と踊りが披露された。こうした芸能は今のところチャムしか見ていないので、また一つラダックの文化に触れる機会を得ることができた。
出し物も良かったが、今回の式典で一番感じたのはやはり仏教における日本とインドの結びつきだった。日本の力添えが、仏教誕生の国で仏教を復興させる原動力になってくれればと思う。
チョグラムサル
2011年9月17日
せっかくチョグラムサルに来たのだからここで見るべき場所も訪れてみることにした。
チョグラムサルとシェイの境目あたりに大きながあるというので、まずそちらへ向かってみた。しかし、この道は既にバスで2度通ったことがあり、それだけ大きなものだったら既に車窓から目にしていてもおかしくないはずである。それが今まで見られていないというのはどうしたことか。
実物を見て分かった。確かに大きな仏様が岩肌に彫られてはいるが、その姿の半分ほどが木陰に隠れていたのである。これではじっくり探さないと見つからないのももっともなことだ。
仏教の“慈悲”に反する言葉とは分かっているが、敢えて言う。
お願いです。この木、切り倒してください。
今度は、チョグラムサルのレー寄りの端のほうへと移動する。
ここにあるのは、チベット難民キャンプ・ソナムリン ―― そう。中国共産党の迫害からヒマラヤを越えて逃れてきた本土チベット人たちのコミュニティである。ラダック人居住区の家屋の壁が日干し煉瓦の色そのままになっているものが多いのに比べ、こちらでは鮮やかな白に塗られているのが多いのは、ラダックと本土の文化の違いということなのだろうか。
4年前に訪れた、インドのチベット難民コミュニティの中心であるダラムサラと比べると、空気がより穏やかでゆったりと時間が過ぎているようにも思われる。しかし、彼らにも祖国を去らざるを得なかったことへの苦悩が深く心に影を落としているはずだ。
私という個人が、今ここで彼らの役に立てることは殆ど無い。あるとすれば、難民たちの手によるハンドクラフトの店で買い物をするぐらいか。
彼らに仏のお慈悲を、祖国への安全な帰還を・・・
ストクの朝
2011年9月17日
夕べから雨が気になっていたが、朝起きてみると頭の上は見事な青空。山には雲がかかっていたが、逆にその景色が美しかったりもした。
7時ごろからワンボに連れられて朝の散歩。まずは山の中腹にある集会所を開けてもらい、中の仏像などを見せていただく。
それから、山の更に上の、旗のある場所までプチ登山。まだまだ上り坂は息が切れるが、そこから見渡す四方の風景は、雪山あり、川あり、街あり、砂漠ありと、目をやる方向を変える度に姿を変えていく。
朝食におじやを頂いたところで、ストクの農村体験ツアーは終了。「にゃむしゃんの館」を後にする。
実にいい体験をさせていただいた1泊2日だった。また機会があれば・・・。
ストクには、ゴンパや宮殿もあり、2010年まではそちらにまでバスが通っていたのだが、現在ではレー ― ストクのバスの終着点であるトレッキングのチェックポイントから、ゴンパまで20分ほど、王宮までは更に20分ほど歩かなければならない。ワンボさんにチェックポイントまで送ってもらった後、私は突き当たりの道を右に曲がってまずはゴンパへと足を運んだ。
ストク・ゴンパは道から少し外れた所にある。かなり古ぼけているが、不自然に修復するよりはこの方が風情がある。
本堂の扉には鍵がかかっていたが、2、3度と訪れているうちにお坊さんが現れたので扉を開けてもらった。一番奥には、ゲルク派の創始者であるツォンカパの像が ―― 何かあるような気がして粘ったのだが、予感は当たっていた。これが祀られていたのだ。
元の道に戻ってストク・カル(王宮)へ。まずまず立派な建物なのだが、近くに鉄塔が建ってしまい、それが入らないように写真を撮るのに一苦労した。
ここは元はラダック王家の別荘だったが、1842年に王家が廃位となりレー王宮を出た後は王家の居城となる。しかし現在では博物館として公開され、王家の人々がここにいる様子は無く、年老いた高僧のほか数人の職員がいるばかりだ。
ここからレー方向に進んで最初にある街が、インダス川の東にあるチョグラムサルだが、先述したとおりバスは走らなくなってしまったのでそれ以外の手段で移動しなければならない。ヒッチ等も可能だったが、まだ十分時間はあるし、私は歩くことに抵抗が無い、と言うよりは、大好きである。私は歩いて向かうことにした。
しかし、目の前に見えているインダス川がなかなか近づいてくれない。時には道を外れて荒野の中をショートカットするなどして歩くこと1時間20分。ようやくインダス川に行き着いた。
この川を渡れば、そこはもうチョグラムサルである。
シェイ
2011年9月15日
次の目的地は、レー方面へ戻った場所にあるシェイである。ニャルマからは5kmほどしか離れていないので、私は高地順応のためもあって歩いて向かうことにした。
ティクセを通過し、途中で何度も足を止めて写真を撮りながら歩いても、最初の目的地はニャルマを出発してから1時間15分ほどで見えてきた。シェイタン・チョルテン群である。
トルコのカッパドキアに例えるべきかベトナムのハロン湾に例えるべきか――褐色の大地の上に、白いチョルテン(仏塔)が遥か向こうの山際まで無数に林立している。これだけたくさんあると、これらの仏塔は実は墓で、ここは墓場なのではないかという想像すらしてしまう。
チョルテン群から更にレー方向へ500m。今度はシェイ・カル(王宮)が右手に見えてくる。表に見える王宮には入ることはできず、王宮に覆われるようにして建てられているシェイ・ゴンパ(僧院)のみ中を参観することができる。
正直なところ、規模、外観、内部全てにおいてティクセ・ゴンパには及ばない。ティクセよりもこちらを先に見た方が或いは正解かもしれない。しかし、唯一拝観料(20ルピー)を取る大仏殿ではティクセ・ゴンパのものにも劣らない金色の大仏を拝むことができる。また、別棟では暗闇の中、幾つものチューメ(バターランプ)が灯されていて神秘的な雰囲気を醸し出している。
この日は上ラダックでもう一箇所行きたい場所があったのだが、ティクセ・ゴンパで予定以上に長居をし、ニャルマで少し場所が分からなくなったために時間が無くなってしまった。しかし、まだ日程は余裕があるのでまた次の機会に行くことにしよう。
ニャルマ
2011年9月15日
ティクセ・ゴンパから1km弱南へ行ったところで左のわきに入ると、小さな白色のチョルテン(仏塔)がずらりと並び始めている場所に行き当たる。
そのチョルテンの列に沿って歩いた先にあるのが、1000年以上前に創建されたニャルマ・チョスコル・ゴンパである ―― いや、今となってはニャルマ・チョスコル・ゴンパ“跡”と言った方がいいかもしれない。なぜなら、そこにあるのは辛うじて痕跡が残っている主要建造物の跡を除けばほぼ全面的に瓦礫の山と化しているからだ。
ラダックのチベット仏教史上極めて重要な地であることは間違いないだろうが、当時の面影を思い浮かべることすら困難な今の壊れぶりを見ていると、寂しさと言うよりは悲しさすら沸き起こってくる。
ティクセ
2011年9月15日
今回最初に目指したティクセはレーから南東へ約20kmの場所にある。バスは途中で客を乗降させながらも1時間足らずで到着した。
ティクセでの目当ては、隣町を出てすぐに目に入ってくるランドマークであるティクセ・ゴンパだ。
正面からその姿を見た瞬間 ―― 一目惚れをしてしまった。チベット本土のポタラ宮と瓜二つなのだ。レー王宮も形はポタラ宮と似ているが、色がほぼ褐色のみである。それに対し、ティクセ・ゴンパは赤・白・黄色とポタラ宮とほぼ同じ配色で、ポタラ宮よりもむしろ色鮮やかなくらいだ。
近くで朝食をとった後、早速上ってみる。
その途中、何か部屋のようなものがあったので入ってみると、教室が幾つか並んでいて、中には小僧さんたちがいる。学校だった。
「ここは入っちゃダメだよ!」
小僧さんに言われて入り口の貼り紙を見ると、確かに「ここは学校です。参観者の入場はご遠慮ください」と英語で書かれている。
おっと、これは失礼しました――と外に出たところ、小僧さんの1人が着いてきて「Photo!」と写真をねだってくる。聖職者の卵とはいえ、まだまだ子どもなんだな、とほほえましく思いながら写真を撮ってあげると、今度は「カメラを貸して」と言ってくる。貸してあげると、私の写真や周りの写真を撮り始める。
と、更に2人の小僧さんが出てきて、カメラの奪い合って互いの写真を撮り始めた。しかもバシャバシャと遠慮なく連写する始末である(デジタル一眼だったからよかったが、フィルムカメラだったらたまったものではなかった)。おまけに持ち方が危なっかしく、いつ落としてもおかしくなかったので私は下から必死でカメラを支えなければならなかった。
まさしく好奇心の塊だが、かのダライ・ラマ14世も幼少の頃には好奇心の塊で時計を分解したりなさっていたという。もしかしたらこういう好奇心が、偉大な高僧を産み出す要因となるのかもしれない。
満足した小僧さんたちからカメラを奪い返し、いよいよゴンパ内部へと入る。入場料30ルピー也。
本家ポタラ宮と比べれば部屋数こそ少ないものの、まずまず多くの部屋があり、それぞれに仏像やダライ・ラマ14世をはじめとした高僧の写真が安置されていた。
「ジュレー ※1」
「ジュレー」
私は一つの部屋の前にいた僧侶に声をかけた。
「きれいなゴンパですね。ポタラ宮そっくりです」
「そうですね」
そんな話をしている間に、話題はそこに描かれていた壁画へと移った。
「この壁画は“The Cycle of Life”を表しています」
「“The Cycle of Life”――日本語では『輪廻』といいます」
「『リンネ』?」
「はい!」
今後、このお坊さんが日本人を相手にした時、「この壁画は『リンネ』を表しています」とか説明するかもしれない。
更に話題は、ゴンパから見下ろす景色へと移った。
「あそこに川が流れているでしょう? あれはチベットから流れ出ているインダス川です」
「そうですか――それにしても、川の近くと遠くとで色が全然違いますね」
そう。インダス川のほとりは緑が生い茂っているのだが、ある一線を境にして突然、ラダックの大地は荒涼とした褐色の砂漠へと姿を変えているのだ。
その水と緑の風景は、さながらオアシスである――否、“さながら”ではない。
インダスの川の流れはまさしく、乾燥したラダックにとって「オアシス」そのものなのだ。
ゴンパの中を右回りに「コルラ」する形で、仏様に祈りを捧げつつ部屋という部屋を回り、いよいよ最後の大部屋を残すのみとなった。
「うわ…」
中を覗いた瞬間、嘆声が口をついて出た。
そこには、下の階から床を突き出て肩から上を見せている金色の大仏(チャンパ大仏、弥勒大仏)の姿があったのだ。
高さは実に15m。このゴンパで見てきた全ての仏像の印象をかき消してしまうかの存在感だった。もはや、それらの仏像に対してやってきたのと同じ祈り方では全く足りなかった。私は、チベット仏教に関心がありながら普段は殆どやらない五体投地 ※2 を、その大仏の前で2度、3度と繰り返していた。
兎にも角にも、素晴らしいゴンパだった。これまでのところ、ラダックで訪れたゴンパの中では最高のインパクトを受けたが、チベット本土で訪れたゴンパを含めても5本の指に入るのではないだろうか。
今後、ラダックで幾つものゴンパを見ることになろうが、ティクセ・ゴンパと比べてもの足りなさばかり感じてしまわないか、少々心配だ。
※1 ジュレー…ラダックの言葉で「こんにちは」「ありがとう」「さようなら」等、いろいろな意味で使われるあいさつの言葉。
※2 五体投地…合掌した手を頭上から3段階で下ろした後、地面に体をひれ伏す方式の祈り。
レーのゴンパ巡り
2011年9月14日
この日はレーにあるゴンパ(僧院)を3つ訪れた。
まず早朝に、レー北東のサンカル地区にあるサンカル・ゴンパを訪れた。
メイン・バザールから緩やかな坂道を北へ歩くこと20分。ちょっと場所が分かりづらく地元の人に道を尋ねる場面もあったが、殆ど息を切らすことも無く楽に到着することができた。
一応、敷地内には入ることができたが、内部は残念ながらドゥカン(僧侶たちの修行場)を覗くことができたに止まった。
それよりも、帰る途中で見た(ということは来る途中でも通りかかったはず)、チョルテン(仏塔)が山の上まで幾つも建ち並んでいる光景の方が印象に残った。
一旦レーの街に戻って朝食をとった後、今度はレー北西のチャンスパ地区へ向かう。
このあたりは思わず飲んでしまいたくなるほど澄んだ水をたたえた川に恵まれ、レーでは珍しく林ができている、自然の豊かなエリアだ。川の東側にはタシゴマン・チョルテンという、このあたりでも一際大きなチョルテンが建ち、そのすぐ近くにはかなり古い時代のものと考えられる、仏のレリーフが彫られた石柱がたたずんでいる。
そして、川から西へ少し離れた岩山の上にはシャンティ・ストゥーパ(日本山妙法寺)が建っている。これがこのエリアを訪れた本命の目的地だ。
レー王宮より高い位置の頂の上にあるチョルテンとゴンパには手すりも無い長い階段を上って行くことになる。幾らラダック4日目とはいえ、本格的な上りはこれが初めてとなる。酸素が薄い中、息も絶え絶えになりつつどうにか上り切った。
そう言えば、ネパール・ポカラの日本山妙法寺も山の上で息を切らせながら上った記憶がある。妙法寺はどうしてこうも高い所ばかりに仏塔を建てようとするのだろう・・・
来た道が険しかっただけに、到着後の感動もひとしおだった。ゴンパや別院のご本尊はまあ普通だったが、ここで見るべきはやはりチョルテンだ。1985年建造と歴史は浅いが、新しく大規模であるが故の存在感と、インドと日本の仏教の繋がりを示す存在意義はピカ一である。誕生・悪魔来臨・入滅という釈尊の伝記のレリーフを見つつ、手持ちのハンディ式マニ車を回しながらコルラ(聖地の周囲を右回りに回る巡礼)をさせていただいた。
そして、レー王宮よりも高い位置から眺めるレーの景色も圧巻だった。ここからはレーの町並みに加え、手前に緑豊かなチャンスパの景色も併せて見ることができ、王宮からの眺めとはまた違う味わいがあった。
しかし、数時間後には更に高い位置からレーを見下ろすことになる。
その更に高い位置とは、王宮の東側の山の上にあるナムギャル・ツェモである。
正直、日本山妙法寺を上った疲労は宿で休んだものの半分も回復できていなかった。しかし、少し無理をすれば行けなくはなさそうだ。
この日のうちに行くか否か、タイムリミット寸前まで迷ったが、
[この際だ。体を徹底的にいじめて高地に慣らそう]
ということで午後3時、ベッドに横たえてた体を起こし、体に鞭を打って山の上のゴンパへと足を動かした。
ナムギャル・ツェモへの道は、途中までは昨日行った王宮へのコースと同じである。王宮に到着する直前の地点から、何とか道と言っていい土むき出しの道を上ることになる。
そんなに驚くほどの傾斜ではないものの、酸素の薄さと蓄積された疲労とが重なって、20~30歩あるいては立ち止まることを繰り返す。しかし、さすがに体が慣れてきたのか、上り切った直後の疲労感は妙法寺の時ほどではなかった。
まずはレーで一番高い場所からの景色を楽しむ。ゴンパの正面に立つとレーの中心街の景色が見え、ゴンパの右側に移ると先ほど訪れた緑豊かなサンカル、チャンスパが見えるといった具合に、立ち位置によって見える景色が変わってくるのが面白い。
建物は、赤と白の寺院、赤一色の寺院と白一色の砦跡の3つ。うち寺院は門が閉ざされており、砦跡は老朽化が激しくて立ち入ることができず、中に入ることができたのは砦の手前一角にある礼拝堂だけだった。
礼拝堂の中は小さなストゥーパと像が2つ安置されている。それよりも、その外側に張り巡らされているタルチョ(五色の祈祷旗)の印象が強く残った。高い場所にあるだけに、時折強い風が吹いて旗を一斉にはためかせる。(確か)1回風になびけばお経を1回唱えたのと同じ功徳が得られるというタルチョ――私はこの場で、何百回のお経を唱えたのと同じ功徳を得られたことになるのだろうか。
何より印象に残ったのは、白い砦跡とタルチョの組み合わせだった。礼拝堂の周囲ばかりではない。隣の頂から繋げられた2本の綱にも無数のタルチョが宙を舞っている。
白い建造物、五色の旗、褐色の山肌、そして深い色の青空――褐色が目立つラダックの大地で、これほどカラフルでバランスのいい配色が見られる場所は稀ではないだろうか。
素晴らしい情景に心を満たして下山する。そのためか、出発前に心配していた疲れだが、頭や肩、背中、腰などは思いの外軽やかだった。しかし、脚だけはさすがに少々重い。おまけに、帰り着いたゲストハウスで階段を上る途中、左膝の下をしこたま打ってしまい、山登り中の何倍もの痛みが左足を襲った。
この文章を書いている現在、少しは痛みも治まったが、明日も予定している10km以上の徒歩を果たして予定通りに実行できるかどうか、少し心配である。
ラダック・フェスティバル(3) & レー王宮
2011年9月13日
この日も午前中、ラダック・フェスティバルの一環としてジョカンにてチベット仏教の仮面舞踏チャムが行われた。この日は開演前に現地入りして、楽器演奏もしっかりと見えるベストポジションを確保して観劇。2度目でも見る場所を変えるとまた新鮮に見えてくる(内容がよく分からない間はずっと新鮮に見えることだろう)。
レー入りして3日目。にもかかわらず、宿から、街中からしょっちゅう見ているレーのランドマークにまだ訪れていなかった。体もそこそこ適応してきたことなので、そろそろ行ってみることにしよう。
ということで、いざレー王宮(レーチェン・パルカル)へ。宿からの直線距離は近いが、ポロ・グラウンドから迂回路を回って行った方が楽だ。
レーの街を見下ろしつつ迂回路を徐々に上っていくうちに、王宮に到着。入場料は100ルピー也。
中に入ると、修復中の箇所、がらんどうの箇所が結構多い。この王宮は19世紀のドグラ戦争以降、住む者のいない廃墟と化してしまっていたのだ。何かが置かれているのはチベット仏教の仏像やチャムの仮面等が安置されているパルカル・ラカンのみである。
外観は修復が完了したのか、色鮮やかさこそ無いもののチベット本土のポタラ宮にも似た(レー王宮はポタラ宮のモデルとも言われている。丘の上に建っているというのも両者の共通点だ)威風堂々とした姿を下界の人々に見せ付けている。内部もいつかきっと、往時の輝きを取り戻してくれることだろう。
パルカル・ラカン以外の王宮の楽しみ方は、何と言ってもレーの街を見下ろすことだろう。タルチョの向こうに、造りかけのものも多いが、石レンガを積み重ねて造ったラダック風の家屋が軒を並べている風景を見渡すことができる。賑やかなメイン・バザールも、王宮から見下ろす風景の中ではそのほんの一部にすぎない。
今となってはすっかり無機質でチベット伝統文化のかけらも無い中国人居住区となってしまったラサのポタラ宮周辺も、かつてはこんな感じだったのだろうか――チベットらしさが残るその景色を前に、そんなセンチメンタルな感傷に思わず襲われた。
レー王宮を訪れたのなら、そのすぐ近くに登り口があるナムギャル・ツェモという山の上のゴンパ(僧院)を訪れるのが常道だが、この時はポロの決勝戦の時間が迫っていたのでこちらは後日に回すことにして街へと下りた。
しかし・・・
ポロ・グラウンドに来てみると、ギャラリーは集まっているもののポロの試合が行われる気配は一切無い。
と、外国人と思われる男性が試合開始を待つギャラリーたちにこう言った。
「ポロの試合、日程が変更されていたようですよ――昨日に」
昨日にって――ということは、完全に見逃してしまったということではないか。
私はがっかりしてポログラウンドを去り、インターネットや夕食を済ませて宿に戻った。
ラダック・フェスティバル(1)
2011年9月11日
レーに着いて真っ先に訪れたい場所があったのでそこに向かっている途中、中心寺院であるジョカンの入り口から重厚な音楽が響いてきた。もしやと思って入り口の向こうを覗いてみると、やはりだった。チベット仏教伝統の仮面舞踏・チャムが執り行われていたのである。
実は、私が今回、飛行機を使ってでも早めにラダック入りしたかったのには理由があった。毎年9月の1日から15日の間、レーとその近辺ではラダック・フェスティバルが開催され、毎日何かしらのイベントが行われるのである。この日は午前11時からジョカンでチャムが行われるスケジュールになっていたのだ。
私も詳しいことは不勉強なのだが、チャムではいろいろな仮面を被った僧侶たちが入れ替わり立ち代わりステージに出て、管楽器や打楽器の重厚な演奏に合わせて踊りを披露する。今回も、仮面というよりは帽子と覆面をしただけの簡素ないでたちの僧侶たちから、憤怒神(トゥンガム)の仮面をした4人組、骸骨(アツァラ、チティパティ)の仮面をして客席にツァンパ(チベット人の主食である、麦焦がしを粉末にしたもの)を振りまいたりと奔放な2人組、鹿神(シャワ)の仮面をした1人が次々とステージに現れ、最後は総出で踊りを披露してくれた。
チャムは東京・新宿で行われたイベント等で見たことがあるだけで、ぜひとも現地で見たかったチベット芸能の一つだ。偶然の巡り会わせでタイミングよく見ることができた幸運がこれからも続いてくれればいいのだが・・・
チャムが終了して、今度こそ最初に訪れたいと思っていた場所へ赴く。メインバザールから少し上がった所にある、HIDDEN HIMALAYAという旅行社だ。ここにいらっしゃる日本人女性Sachiさんは、現地の人と結婚して上記の旅行社を経営していて、私も来る前からTwitterで連絡を取っていたのだ。Sachiさんから、フェスティバルの日程やレーのインターネット事情(別記事にします)など役に立つ情報を教えて頂く。
昼食をとったり街中を散策したり、宿に戻ってブログの下書きをしてインターネットカフェでブログをアップしたりした後、次なるフェスティバルのイベント会場へと赴いた。
今回のイベントは、ポロの試合である。言わずと知れた馬上のホッケーだが、私は生も中継・録画も含めて、初めての観戦となる。
試合はメインバザールからすぐ近くのポロ競技場で行われた。選手たちはサッカー場と同じぐらいのフィールドをフルに利用して馬を走らせ、木のボールをスティックで巧みに操りながら白熱した試合を展開する。時には観戦者のすぐ近くまでボールが転がってくるが、選手たちは観戦者にお構いなしでボールを追いかけてくるので、見ている方がボールや馬をよけなければならず、時として観戦者たちが大慌てで逃げ惑うシーンも見られた(私自身も2、3度逃げ惑った)。
チベット人は元より遊牧民である。馬を利用したイベントとしては他にも天然の平原を利用した競馬などがあり、彼らにとっては打ってつけの競技と言うことができるだろう。