世界への旅(旅行記)
避暑山荘・1 ~城壁の中の別天地
2003年8月10日
市中心部に屹立する康熙帝像 久しぶりに長距離バスに乗ったのとホテル探しで1時間もバックパックを背負ってうろついたせいか、朝になってもまだ、やや疲れが残っている感触である。しかし、出歩けない程ではない。早速、承徳一の名所、承徳の代名詞・避暑山荘へ向かう。 承徳の市街地はそれ程大きくはなく、私が宿を取った中心街の南営子大街から避暑山荘までは、バスに乗るのもばかばかしい位に短い距離である。私は無論、歩いて向かった。
道中、交差点の真ん中に騎馬した人物の像が屹立しているのが目に入った。避暑山荘の建設に着手した清初期の皇帝・康熙帝である。馬上の凛々しい姿からして、武人としての誉れの高い人物だったに相違ない。
彼が造らんとした避暑地がどのようなものだったのか ―― 俄然、興味がわいてきた。
彼が造らんとした避暑地がどのようなものだったのか ―― 俄然、興味がわいてきた。
上にも書いたように、避暑山荘とは康熙帝が建造を始めた、後の歴代清朝皇帝が夏に政務を執った場所である。彼らが普段過ごした故宮の8倍にもなる564万平方メートルのその敷地は、城壁でぐるりと囲まれている。それは、その内部で夏の日を過ごしたのがアンタッチャブルな人物であったことを物語る証でもある。
「避暑山荘」の看板が掛けられた内午門 “城壁の中の別天地”を早く見たい、という気持ちは、私を7時半という早い時間に現地へと足を運ばせた。そして私に、90元という決して安くはない入場料を、何のためらいも無く支払わせた。
「避暑山荘」の看板が掛けられた内午門 “城壁の中の別天地”を早く見たい、という気持ちは、私を7時半という早い時間に現地へと足を運ばせた。そして私に、90元という決して安くはない入場料を、何のためらいも無く支払わせた。
南門に当たる麗正門から内部に入るとすぐに、宮殿区がある。その入口には外午門、そして内午門があり、麗正門を含めると三重の門が連なっている形になる。そのうち、一番内側の内午門の上部には、康熙帝直筆の「避暑山荘」の文字が記された看板が掛かっており、山荘の象徴の一つとなっている。
ここを抜けると本格的に、避暑山荘の内部である。
ここを抜けると本格的に、避暑山荘の内部である。
宮殿区は、皇帝らが起居した生活・政治の場である。広大な敷地面積と“皇帝の避暑地”というイメージから、豪華な建築物群を予想していたのだが、そこにあったのはその予想に反して、むしろ落ち着いた雰囲気の、質実としたものであった。
宮殿区の渡り廊下 先程街中で見た馬上の銅像から察するに、この避暑山荘を創建した康熙帝は、根は武人である。そうした気風が、この建築物群に表れているのであろう。
それら建物の間は、屋根付きの渡り廊下で結ばれている箇所が多く見られる。ここが避暑のための地であることを考えると、やはり夏の日差しを考慮して、という部分もあるのだろうか。
そうした建築物の内部を見ているだけでも清代の歴史を感じることができるが、内部もまた興味深い。御座や、居間、寝室など、ここで皇帝がどのように振舞っていたのか、想像力をかき立てられる場所が数多く見られる。
宮殿区の渡り廊下 先程街中で見た馬上の銅像から察するに、この避暑山荘を創建した康熙帝は、根は武人である。そうした気風が、この建築物群に表れているのであろう。
それら建物の間は、屋根付きの渡り廊下で結ばれている箇所が多く見られる。ここが避暑のための地であることを考えると、やはり夏の日差しを考慮して、という部分もあるのだろうか。
そうした建築物の内部を見ているだけでも清代の歴史を感じることができるが、内部もまた興味深い。御座や、居間、寝室など、ここで皇帝がどのように振舞っていたのか、想像力をかき立てられる場所が数多く見られる。
宮殿区は宮殿区で見ていて面白いが、敷地面積全体からすれば、
この区域はほんの一部分に過ぎない。
避暑山荘の真価は、やはり広大な湖洲区、そして平原区にある。
避暑山荘の真価は、やはり広大な湖洲区、そして平原区にある。
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