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日本100名城

100名城探訪記

大分100名城(5)―臼杵城、大友氏館跡

2025年3月23日

佐伯城の攻城を終えて、来た道を大分方面へ戻るが、その途中にも未訪の名城がある。途中で下車して臼杵市の海の程近くにある臼杵城(続100名城No.193)を訪れた。
臼杵城は大分駅に銅像も立っている、戦国時代にこの地に一大勢力を築いた「豊後の王」大友宗麟が拠点とした城だ。今は埋め立てが行われて海から少し離れているが、当時は北、南、東を海に囲まれ、西は干潮時に現れる干潟で繋がるのみの天然の要害・丹生島(にうじま)に築かれた海城だった。1586年に島津軍の侵攻を受けるも、大砲を駆使して退けている。大友氏が朝鮮出兵での敵前逃亡を咎められて改易された後は福原氏、太田氏を経て稲葉氏が城主となって天守が築かれるなどの修築が行われる。
臼杵城は東西に長い丘の上にあり、JR臼杵駅から北へ真っ直ぐ歩くと、東側の入り口である卯寅口に行き着いたので、ここから入城。但しこちらは言わば「裏口」で、臼杵城と言えば、という表の登城口は逆側の西側になる。 写真
臼杵城に卯寅口から入る。左が卯寅口門脇櫓
江戸時代末に建てられたものが現存する卯寅口門脇櫓や井戸丸近くから階段を上ると、その先が本丸だ。建物は一切残っていないが、石垣が往時の姿を彷彿とさせる。二の丸との間に空堀が南北に横断していて、中央に渡された橋から南側を見ると鉄門櫓跡から武具櫓跡に至る高石垣が、北側を見るとかつて3重4階の天守が建っていたという天守台が鎮座している。 写真
臼杵城 本丸・二の丸間の堀と本丸の石垣
写真
臼杵城 天守台
大友宗麟公碑などがある二の丸を進むと、大門櫓(復元)に辿り着く。ここを出た先が、臼杵城の表玄関への入り口になる。門をでると左側に畳櫓(現存)、右側に時鐘櫓跡を、そして畳櫓から続く坂の先には、西の登城口へと繋がる鐙坂を見ることができる。 写真
臼杵城 大門櫓(左)、畳櫓(右奥)
鐙坂を下って古橋口を出た先にある臼杵市観光交流プラザが、臼杵城の続100名城スタンプ設置場所だ。スタンプを頂くのは勿論のこと、この施設2階にあるバルコニーは大門櫓・畳櫓・鐙坂を高い位置から一望できる臼杵城随一のフォトスポットなので、写真撮影をするのであれば忘れずに訪れたい。
バルコニーには臼杵城の説明板もあり、そこに描かれた城の絵図面と臼杵城の全景を交互に眺めていると、人工的な直線ではなく自然な曲線で描かれている城山の姿に、確かにこれは島だったのだろうな、と実感させられた。 写真
臼杵市観光交流プラザ2階から見る臼杵城
もう一度臼杵城の縄張を横断して卯寅口に出て、JR臼杵駅へ戻り、大分市への帰途に就く。

大分市内には、旅の計画時には全くキャッチしていなかったが、今回の旅で大分市に入った時に偶然知った100名城や続100名城には数えられていない「城」があった。
JR大分駅から東へ20分ほど歩いた先にある大友氏館跡――室町時代に豊後守護となった大友氏泰を始めとした、大友宗麟ら大友氏がこの地に居た時に暮らしていた場所である。1990年代後半以降の発掘調査で存在が明らかになった。大友氏は毛利氏との戦いに敗れた後、先程訪れた臼杵城に移ったという。 写真
大友氏館跡
写真
大友氏館跡庭園
館跡に隣接する場所には大友氏館跡庭園も復元されている。
まだまだそこに居館があった痕跡のあるだだっ広い広場でしかないが、今後大友氏の歴史を語る施設として充実されていくのではないだろうか。

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