バス憧れの大地へ

日本100名城

100名城探訪記

大分100名城(3)―角牟礼城

2025年3月21日

午後からは大分市から青春18きっぷでJR久大本線に乗って、西へ。1時間半以上かけて玖珠郡玖珠町の豊後森駅で下車して、更に40分ほど歩く。この街は「日本のアンデルセン」と呼ばれた児童文学者・久留島武彦の出身地で、道すがら童話の世界の像を幾つも見ることができた。
「わらべの館」に併設された豊後森藩資料館に到着。まずはそこで続100名城のスタンプを頂いた後、山歩きの装備を整える。そこから見える比高250mの角埋山の上に、次に目指す角牟礼城(続100名城No.192)があるのだ。 写真
豊後森藩資料館
写真
角牟礼城を頂く角埋山
角牟礼城は13世紀後半に始まるとされ、戦国時代に大友氏の指導の下、改修が加えられた山城だ。島津義弘による豊後侵攻に対し玖珠郡衆が籠城して耐え、難攻不落の城として名を高め、16世紀末、日田の毛利高政により玖珠の拠点として石垣や櫓門を持つ近世城郭へと整備が進められる。
豊後森藩資料館や久留島武彦記念館がある三島公園の奥から延びる御長坂を上り、神社の敷地に入る手前にある分かれ道が、角牟礼城への登城口だ。暫く歩くと、道端に仏像が幾つも安置されている一直線の舗装された急坂が現れ、ふくらはぎを痛めつける。こんな急傾斜、なぜつづら折りにしないのか、理解に苦しむ。
途中から階段になって少し楽になり、更に進むとつづら折りの未舗装の山道になった。山歩きに慣れている身にはこちらの方が遥かに楽だ。
20分ほど歩いたところで、二の丸・本丸へ向かう上り坂と三の丸へ向かう下り坂の分岐点に到着。私はまず三の丸の方へ足を向けた。 写真
角牟礼城 三の丸
三の丸は自動車で角牟礼城にアクセスした場合の駐車場になっている。展望が開けていて大岩扇山などの山々を見渡すことができ、断崖の際には高いものではないが石垣があり、本丸へのルートの間には竪堀を設けて守りを固めている。
三の丸の後は、いよいよ本丸へ向かう。先程の分岐点に戻って今度は上り坂の方へ脚を動かす。すぐに二の丸大手門の折り返しがあって方向転換すると、目の前に見事な石垣が現れた。「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれる石工集団が積み上げた「穴太積み」が特徴の、高さ7mに及ぶ角牟礼城最大の石垣であり、角牟礼城最大の見どころでもある。 写真
角牟礼城 穴太積石垣
穴太積石垣から更に折り返して石垣の横を上って大手門跡を過ぎると、目の前にまた石垣。この上には二の丸西曲輪跡があり、その脇にある西門跡には当時の建物の礎石も残っている。 写真
角牟礼城 二の丸西曲輪跡
写真
角牟礼城 西門跡
二の丸西曲輪からまた暫く山道を直登して、山頂広場の本丸に到着。しかし本丸は石垣の解体工事中の真っ最中で、本丸虎口から見て奥の方まで進むことができず、周囲に巡らされた土塁、隅櫓跡や、奥からしか見えない眺望を間近に楽しむことはできなかった。 写真
角牟礼城 本丸跡
来た道を戻って再び豊後森藩資料館へ。閉館までギリギリ時間があったので展示を見させて頂く。
角牟礼城は1601年、伊予の村上海賊の出である来島(くるしま)氏(来島村上氏)が入国した後、廃城となっていて、展示にはそのことに関する説明もあった。ちなみに、同じ音の名字の久留島武彦も来島氏の一族である。
伊予の村上海賊...
2020年に訪れた愛媛の能島城のことが思い出された。能島城も来島村上氏と同じく村上海賊の出である能島村上氏の拠点である。
豊後水道を隔てた2つの城が、1本の糸で繋がったような思いだった。

攻城を完了させ、徒歩で豊後森駅に戻る。少し空き時間ができたので、近くにある豊後森機関庫公園でSLを見て楽しんだ後、予定より少し遅れて駅に到着した大分行きの列車に乗り込む。
しかし、この列車がなかなか動かない。どうやら1つ先の駅で信号機故障が発生してポイントが切り替わらなくなり、運行できない状況だという。
1時間以上待たされたが、ようやく復旧。無事大分市に戻り、宿に入ってこの日の攻城の疲れを癒すことができた。

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