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日本100名城

100名城探訪記

北関東100名城(1)―忍城、箕輪城

2024年8月9日

夏。
特に2024年の夏は「観測史上最高の暑さ」と言われた。
そんな夏真っ盛りのこの日、私が下り立った駅はよりによって「日本一暑い街」ともいわれる埼玉の熊谷駅だった。
なぜ一番暑い夏の一番暑い街に来てしまったのか...
それは、これから始めようとしている北関東の群馬・栃木の城巡りはJRの在来線を多用することになり、青春18きっぷが使える時期が最適だったのである。青春18きっぷは冬や春でも使えるが、その時期は逆に雪に閉ざされる可能性がある城もあり、結局暑さに耐えて夏に巡るという選択肢を選んだのだ。
まずは、この年のゴールデンウィーク前半に埼玉の城巡りをした中で1つだけ時間切れで行きそびれていた忍城(おしじょう 続100名城 No.118)を目指してJR高崎線を熊谷駅で下車し、秩父鉄道に乗り換える。
忍城は、戦国時代に後北条氏の勢力に属していた成田氏の居城で、豊臣秀吉の小田原征伐の際に石田三成が水攻めで落とそうとしたがそれに耐え抜いた城だ(その時の様子は和田竜の小説『のぼうの城』で描かれ、映画にもなった)。明治の廃城令で建物は失われたが、1988年、行田市郷土博物館が開館した際に、その一部として御三階櫓が、位置や規模は史実とは異なるものの、鉄筋コンクリート造りで外観復興される。ちなみに、この御三階櫓は行田市が舞台となったTBS日曜劇場「陸王」でしばしば映し出された。 忍城の御三階櫓、東門、あずま橋
忍城の御三階櫓(左)、東門(右)、あずま橋(手前)
秩父鉄道持田駅で下車し、ここから15分ほど歩く予定だったが、ちょうど持田駅入口バス停から郷土博物館へ行くバスが着く頃だった。短い距離ではあるが少しでも炎天下を歩く時間を短くしたかったので、バスを待って郷土博物館へと向かう。 行田市郷土博物館
行田市郷土博物館
行田市郷土博物館の忍城ジオラマ
行田市郷土博物館の忍城ジオラマ
郷土博物館で続100名城のスタンプを頂き、展示を見学。今は面影が無いが、忍城は戦国時代当時、広大な沼地に島や自然堤防を巧みに利用して建造され、水攻めの際には「忍の浮き城」とも称されていた。その時の様子が館内展示のジオラマでよく見て取ることができる。
御三階櫓内部を含めて博物館を参観後、復元された東門から御三階を横目に木橋を渡って堀の外に出て、本丸の周りをぐるりと巡る。 内側から見た忍城御三階櫓と東門
内側から見た忍城御三階櫓と東門
忍城本丸土塁
忍城本丸土塁
移築された藩校の表門近くに、数少ない当時の遺構が残っていた。本丸土塁である。これがきっと、三成の水攻めに耐えられた要因の一つだったのだろうか?などと想像していると歴史のロマンがかき立てられる。

秩父鉄道で熊谷駅に戻り、再び高崎線に乗車して、北へ。群馬県に入り、高崎駅で下車して高崎伊香保線バスに乗り換える。箕郷田町バス停で下車して高崎市箕郷支所でまず100名城のスタンプを頂き、次なる城へ向かう。
箕輪城(100名城 No.16)は、戦国時代中期の16世紀前半、上野国西部を支配していた長野氏により榛名白川河畔の丘陵地に築かれた平山城で、1566年に武田軍の総攻撃を受けて落城して以後は武田氏の上野経営の拠点となる。その後織田氏の滝川一益、後北条氏の支配下となり、小田原征伐後は関東に封ぜられた徳川家康の家臣・井伊直政が入城し、箕輪城を近代城郭に改造したが、1598年に高崎城に移封されると箕輪城は廃城となる。 箕輪城大手門跡
箕輪城大手門跡
大手門側の箕輪城登城口
大手門側の箕輪城登城口
高崎市箕郷支所から真っすぐ北へ、箕輪城を頂く小高い山に向かうが、山の上にはいかにもこれから雨が降りますよ、と言わんばかりの不穏な黒雲が広がっていた。
山の南西へと進むと、井伊氏の時代に大手門跡に行き着く。そこから細道を縫った先にある大手尾根口からいざ、登城開始。
緩やかな傾斜の大手尾根筋を5分ほど歩くと、2016年に復元された郭馬出西虎口門が来る者を出迎える。 再現された箕輪城 郭馬出西虎口門
再現された箕輪城 郭馬出西虎口門
郭馬出西虎口門をくぐった先には郭馬出の曲輪跡があり、それと二の丸の間には大堀切が横たわっている。大堀切には下りることもできるので、上からと下から、2通りの楽しみ方でその深さを体感することができる。 箕輪城の大堀切と郭馬出西虎口門
箕輪城の大堀切と郭馬出西虎口門
大堀切を渡って二の丸へ。更に奥へと進むとその先に、石碑が2つ並んで立っている広場――本丸だ。南北約100m、東西約70mという広大なエリアの周囲を土塁で固めている。
この城に向かう時から嫌な雲が立ち込めていたが、本丸を散策しているうちにとうとう雨と雷の空模様に。ここからは傘を差しての散策となった。 箕輪城本丸
箕輪城本丸
本丸の先にも更に曲輪があった。「御前曲輪」は、本丸の詰めであり、精神的支柱だったとのこと。武田信玄に攻められた城主・長野業盛はここで自刃したという。奥の方にある井戸からは長野氏の墓石が見つかっている。 箕輪城御前曲輪跡
箕輪城御前曲輪跡
箕輪城の堀切を歩く
箕輪城の堀切を歩く
本丸と御前曲輪の間からも堀切に入ることができる。ここから堀切を辿って本丸・蔵屋敷間の木橋をくぐり、二の丸へと至る。
本丸・二の丸の西側には三の丸がある。端の方まで行くと、箕輪城最大の石垣を見ることができる。 箕輪城三の丸の石垣
箕輪城三の丸の石垣
再び郭馬出西虎口門に戻り、今度は観音様口へのルートを辿って、下山。長野氏という余り馴染みの無かった戦国武将のことを知ることができたのは大きな実りだった。
箕輪城では後半、雨に見舞われたが、高崎駅に戻るバスを待っている間に雨は上がり、今回の城巡りの旅ではこれ以降、雨にたたられることは無かった。

高崎駅から上越線に乗車して、吾妻線との分岐駅である渋川へ。この日はここで1泊して、明日はここを拠点に3つの続100名城を巡る予定だ。

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