琵琶湖周辺100名城(4)―佐和山城、彦根城、小谷城
2023年9月3日
米原で一夜を明かし、早朝から2日目の琵琶湖周辺100名城巡りに繰り出す。
まずは、昨日時間が無くスキップした、東海道線で西へ1駅の彦根へ。彦根と言えば――の名城の前に、彦根駅の近くにもう一つ、100名城にも続100名城にも数えられていないが、戦国の名将ゆかりの名前の通った城があるので、まずそちらに行くことにした。
彦根駅を東口から出て、東海道線横の小川に沿って北へ歩いて10分ほど。右手の山の中腹に大きな看板が掲げられているのが見えてきた。
佐和山城。
戦国時代に、浅井氏配下の磯野氏、織田氏配下の丹羽長秀、豊臣秀吉配下の堀秀政などを経て、関ヶ原の戦いで西軍の中心人物として徳川家康と争った石田三成が居城とした城だ。当時の俗謡の中で「三成に過ぎたるもの(不相応なもの)が二つあり 島の左近と佐和山の城」と言われたとされるので、名城であったことが窺い知ることができる。
佐和山城があった佐和山
佐和山城の模型「佐和山一夜城」踏切近くにある佐和山会館の敷地の一角には「佐和山一夜城」という城の模型がある。石田三成が佐和山城を改修した際に建てたとされる5層の天守をミニチュアで再現したものだ。
城の建造物の痕跡は残っていないというので、ここでは山登りはしないで次へと向かう。
彦根駅前の井伊直政像
一旦彦根駅に戻り、今度は西口から、この街の主役である名城を目指す。こちらの出口では、徳川家康の重臣で「徳川四天王」の1人にも数えられ、彦根井伊家の祖である井伊直政の像が、来る者を迎え入れている。
駅から一直線の道の先に建つ城が、彦根城(100名城 No.50)。江戸時代初期、関ヶ原の戦いの功で近江に封ぜられ佐和山城に入った井伊直政の息子・直継の下建てられ(これに伴い佐和山城は廃城となる)、幕末の井伊直弼など多くの大老を輩出した譜代大名・井伊家の居城となった城だ。明治の廃城令も生き延びて、現存12天守の1つに数えられる天守のほか、附櫓、多聞櫓は国宝に指定されている。
外堀からその多聞櫓を控える虎口をくぐり、更に内堀を越えた先が、彦根城の核心部分だ。営業開始時間の8時30分を待って入場券を買い、いざ、入城。
彦根城の堀と天守(奥)
彦根城の二の丸佐和口多聞櫓彦根城は彦根山(金亀山)の上に建つ平山城だ。入城口を入るとすぐに、急坂が城を攻めようとする者の前に立ちはだかる。
彦根城天守閣への坂
彦根城の廊下橋と天秤櫓坂を上り切ると、天秤櫓へと続く廊下橋の下をくぐる。本丸は天秤櫓の先にあるので、廊下橋を渡るためにまた坂を上る必要がある。
天秤櫓をくぐるとまた上り坂。彦根城の築城が始まったのはまだ徳川方と豊臣方のにらみ合いが行われていた時代。防備に抜かりは無い。
坂の先の太鼓門櫓を過ぎた所が、ようやく本丸だ。国宝の現存天守や、木の板の「ひこにゃん」が、登城までの苦労をねぎらうかのように迎えてくれる。
彦根城天守彦根城天守は2014年に1度訪問したことがあるが、この国宝を目の前にして入らないという選択肢は無い。無論、中まで参観させて頂いた。
修復を重ねたとはいえ、当時のものが残っているので、天守は勿論木造。しばし江戸時代の趣の中に身を置いて想像力を働かせる。
彦根城は外からだと鉄砲や矢の窓である狭間が見えないのだが、蓋をされている「隠し狭間」であって、中に入るとしっかり狭間を確認することができる。
彦根城天守閣内部
彦根城天守からの眺め最上階3階からの琵琶湖の眺望は相変わらず見事だ。
琵琶湖は関西の交通の要衝であり、特に彦根や米原は東国への出入り口に当たる。ここに信頼の篤い譜代の家臣を置いた家康の判断はよく理解できる。
先述した通り、彦根城を訪れるのはこれで2度目になるが、前回は100名城のスタンプ集める前のことだ。本丸を後にして、これも重要文化財である当時の馬屋跡を見学しつつ、先ほど入城してきた多聞櫓のある虎口へ。この虎口の東側にある彦根市開国記念館がスタンプの設置場所だ。9年越しの訪問でようやくスタンプを頂くことができた。
彦根駅に戻り、9時50分発の列車で、今度は東へ、そして北へと針路をとる。
途中、長浜駅の辺りで車内から天守閣が見えた。羽柴秀吉が近江に封じられた際に築城した長浜城の跡に、犬山城や伏見城をモデルに建てられた復興天守である。100名城にも続100名城にも選定はされておらず、今回は対象外ということで列車の中から眺めるにとどめた。目指す次の城はもう少し先だ。
長浜城復興天守
河毛駅前の浅井長政・市の像10時21分、長浜市の河毛駅で下車。ここで出迎えるは、戦国武将・浅井長政と彼に嫁いだ織田信長の妹・市の銅像だ。
駅に隣接する河毛駅コミュニティハウスで自転車を借りて、東へ。目指すは戦国大名・浅井氏3代の居城だった小谷城(100名城 No.49)だ。
駅前に像があった長政は信長の妹を妻として茶々、江、初(浅井三姉妹)などの子宝にも恵まれるが、信長に反旗を翻し、姉川の戦いに敗戦し、のち小谷城を落とされて自害する。市と三姉妹は生き延びるが、後に数奇な運命を辿ることになる。
浅井氏滅亡後は羽柴秀吉が入城するが、秀吉は間もなく先ほど通りかかった長浜城を築城してそちらに移り、小谷城は廃城となる。
小谷城攻めで織田軍が陣を敷いたとされる田園地帯を横目に自転車を走らせること12分、小谷城戦国歴史資料館に到着。ここに自転車を置いて、館内で100名城スタンプを頂き、地形と曲輪の構造を予習する。
小谷城戦国歴史資料館
戦国歴史資料館そばの小谷城追手道入り口小谷城は小谷山(伊部山)上の尾根に建てられた山城だ。戦国歴史資料館そばの小谷城追手道入り口から防獣フェンスをくぐり、登山開始。
高低差170m、距離1km=平均斜度17%という急勾配をトレッキングポール(ストック)の力を借りて、主郭部入り口に当たる番所跡に到着。遊歩道と並行している車道がこの手前で終着点になっている。
小谷城番所跡
小谷城の黒金御門跡番所跡から上り坂を更に10分、黒金御門跡という虎口に到着。この虎口の先が小谷城の核心部だ。
小谷城最大の平地である、千畳敷曲輪とも呼ばれる大広間跡の先に、石垣に固められた高台――これが本丸だ。往時には2層の天守(鐘丸)が建てられていたという。
小谷城の大広間跡(手前)と本丸(奥)山城は本丸・天守が山頂にあるケースが多いが、小谷城の場合、本丸がある場所は山頂ではない。更に上がある。まだ時間もあるので、最上部まで行ってみることにした。
本丸のすぐ裏手に、大堀切がある。これが本丸と中丸を分ける境界線だ。
小谷城の大堀切
小谷城の京極丸大堀切から更に上へ。
途中の京極丸は京極氏の屋敷があった場所とされ、織田軍が小谷城を攻めた際には羽柴秀吉がまずここに攻め上がり、長政の父・久正がこのすぐ上の小丸で自刃に追い込まれる。
大石垣を経て、山王丸に到着。ここが小谷城の最深部だ。
小谷城の大石垣
小谷城の山王丸更に先には小谷山の山頂にある大嶽城もあるが、時間の都合もあってそこまでは行かず、ここで下山。
折しもこの日は、浅井長政命日直近の日曜日ということで、本丸の一段下にある浅井氏慰霊碑の前で慰霊祭が開かれていた。
慰霊祭が完了して静かになった慰霊碑の前で、私も攻城戦で散った浅井家の人々に祈りを捧げた。
浅井氏慰霊碑河毛駅に戻り、JR北陸本線で更に北へ。次に向かう城は、滋賀県境を越えて、福井県だ。
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