琵琶湖周辺100名城(1)―鎌刃城、八幡山城
2023年9月2日
午前5時すぎ。
日付が変わったばかりの時間に横浜を出発した夜行バスが、名古屋駅近くに到着した。
今回の目的地はもう少し先。私は早朝営業をしている牛丼店で朝食を済ませると、名古屋駅から米原行きのJR東海道線の列車に乗り込んで、西へと向かった。
夜明け前の名古屋
東海道線車内からみた岐阜城途中、岐阜県を通過。既に登城・100名城スタンプ獲得済みである岐阜城の天守(模擬天守)を金華山の上に見ることができた。
7時27分、終点の滋賀県・米原に到着。本日の私の目的地もここだ。今回は米原を起点に、琵琶湖周辺の戦国時代の名城を巡る計画である。この日の宿も米原で予約していたのでそこに荷物を預け、まず向かったのは、ここ米原が最寄り駅である名城だ。
行きはちょうどいい時間のバスがあったので、それを利用。米原駅から僅か6分の「番場」で下車する。ここから南に延びる街道は、かつて中山道の宿場町だった場所だ。
この街道を10分ほど歩くと「ここは中世の宿場まち 米原 番場」そして「鎌刃城跡 ここより3キロ」と書かれた標識がある。この鎌刃城(続100名城 No.156)が、本日目指す1つ目の城だ。
番場と鎌刃城跡の標識
Cafe&Gallery「源右衛門」その少し先にあるCafe&Gallery「源右衛門」が、鎌刃城の続100名城スタンプ設置場所だ。ここでスタンプと案内図を頂き、保全金に心ばかりの協力をさせて頂く。
この街道の東側を名神高速道路が並行して通っているのだが、鎌刃城がある山はその向こうなので、高速道路をくぐるトンネルが登山口ということになる。動物(熊)よけの柵を開け閉めしてトンネルをくぐり、いざ、登山開始だ。
鎌刃城登山口
鎌刃城は、戦国時代に番場を所領とした堀氏が築いた湖北最大級の山城だ。交通の要衝だったことから北近江の京極氏・浅井氏と南近江の六角氏がこの地を巡って度々争い、最後は浅井氏を破った織田信長が支配するところとなる。
登城口の標高が大体140m、主郭(本丸)の標高が大体360mで、その差220m。主郭までの道のりは2㎞ほどなので、平均勾配は11%にもなり、まあまあな山道だ。
これまで幾つもの山城を攻めてきたが、特に続100名城は急峻な山道であることが少なくなく、兵庫の有子山城などでは余りの急峻さに予定時間内での登城は無理と本丸到達を断念した城もあった。下調べをしていて、今回の城巡りは特に難易度の高い山城が多くなることが分かったため、しっかりとしたトレッキングの装備で臨むことにした。
・トレイルランニングシューズ
・トレッキングポール(ストック)
・登山グッズの店で買ったズボン
・熊よけの鈴
1つ目の鎌刃城で早速これらが役に立った。特にトレッキングポールの存在が大きく、お陰で私は比較的スムーズに山道を歩くことができた。
鎌刃城の登山道には「鎌刃城 一丁」「鎌刃城 二丁」...という道標がある。主郭までを十三丁として等間隔に刻まれているので、これで大体自分がどのあたりを歩いているかが分かる。
登山を開始して20分ほどで九丁に到着。この先が城の核心部分だ。
九丁を過ぎて程なくして、「大堀切」に到着。
鎌刃城の大堀切
鎌刃城の大石垣大堀切を抜けるように先に進むと「主郭」への道と「大石垣」への道の分岐になっていたので、主郭へ向かう前に大石垣へ寄り道。大石垣は高さ3mほどの野面積みのもので、確かに「大」の文字を冠するにふさわしい。
分岐に戻り、主郭方面のルートを進む。
登山開始から30分、ようやく広々とした郭(曲輪)に到着。ここが北の端の郭で、階段のある虎口や、土塁に囲まれた建物の跡「大櫓跡」が残っている。一番端には木造の見晴台が建てられていて、上からは西は琵琶湖、長浜から小谷、東は伊吹山を一望することができた。
北の郭の(手前から)虎口、大櫓跡、見晴台もう少し先に行った郭にも見晴台があり、こちらからは琵琶湖と彦根から近江八幡にかけての近江盆地を望むことができ、その風景の中にはこれから訪れる予定の城も含まれていた。
ここら辺りでも十分に鎌刃城を楽しむことができたが、他の来訪者が更に奥の方へ向かっているのを見て思い出した――ここは主郭ではない。この城の核心部は更に奥にあるのだ。
北-II、北-Iと連なっている郭を歩いていると、この城の構造=連郭式を体感することができる。
北-I郭からの坂道を上り終えたところで「国史跡 鎌刃城跡」の石碑が立つ広場に出た。ここが、往時に御殿が建てられていたとされる主郭である。石碑の近くには桝形虎口が口を開けていた。私は横道から入り込んだが、ここが主郭の正式な入り口である。帰りはこの虎口から下ったが、石垣に守られた堅固な姿を見て取ることができた。
鎌刃城主郭の虎口下りはトレイルランニングシューズの機能を生かして、ややスピードを出して下山。主郭までのんびり53分かけて登った道を、ほぼ半分の僅か27分で駆け下りた。
来る時はバスがあったが、帰りはいい時間のバスが無かったので、米原駅までの約3.8㎞の道を、時々走って徒歩で戻り、次の城への列車で西へ進む。
11時9分、近江八幡駅に到着。バスに乗り換えて八幡山ロープウェー公園駅前駅へ。
ここから向かう城が、八幡山城(続100名城 No.157)。安土城焼失後の1585年、羽柴秀吉の甥で後に関白にもなる羽柴秀次が琵琶湖畔の鶴翼山(八幡山)に建てた山城だ。1595年、後継者争いに敗れた秀次が切腹させられた後、僅か10年で廃城となった。
山道を30分ほど歩いてでも行けるが、八幡山ロープウェーに乗れば5分程度だ。この後のスケジュールを考えると極力時間と体力を温存したかったので、私もここは素直にロープウェーでアクセスした。
八幡山ロープウェー
八幡山城西の丸から望む琵琶湖ロープウェーの山上駅で続100名城のスタンプを頂いて、城巡り開始。
まず西の丸跡へ。琵琶湖と野洲方面の田園地帯を見渡すビューポイントだ。
八幡山城の石垣当時の石垣を眺めながら、外側の遊歩道を反時計回りに歩くと、最後の方で本丸の上に繋がる階段があった。現在、本丸の上に城の痕跡・再現となる建物は無く、村雲門跡瑞龍寺が移築されている。実はこの瑞龍寺、切腹という悲劇的な最期を遂げた秀次の母・日秀尼が秀次の菩提のために京都に開いた寺だ。
八幡山城本丸の瑞龍寺山門
八幡山の麓に立てられた豊臣秀次像八幡山の麓には豊臣秀次の居館跡もある。こちらは時間が無く訪れることができなかったが、それより手前の場所に立つ秀次の銅像だけ拝ませて頂いた。
秀次は「殺生関白」という呼ばれ方をするなど、悪いイメージを持たれがちな武将だが、地元近江では名君として親しまれているという。この銅像は、そのシンボルと言っていいだろう。
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