2022年8月12日
山の日と会社の特別休暇で、木~日と4連休。
土曜日は台風接近との天気予報だったので、金曜日のうちにどこかに出掛けようと考え、千葉県の100名城を1日で巡ろうと計画。JR東日本の休日おでかけパスを買って、地元川崎駅を出発。総武本線快速・外房線(茂原-大原間は休日おでかけパス適用外)・いすみ鉄道(休日おでかけパス適用外)と乗り継ぐこと実に3時間半でようやく最初の目的地・大多喜に到着した。
外房線
いすみ鉄道大多喜駅から少しばかり歩いて、小高い丘の上へ。
ここにあるのは、大多喜城(続100名城No.122)。真里谷氏、里見氏が居城とした小田喜城を基に、徳川四天王の1人である名将・本多忠勝が改修して造り上げた城である。
その後江戸時代には荒廃し、江戸末期に天守閣が焼失。明治に取り壊されたが、1970年、千葉県立総南博物館を内設する形で天守閣が再建された。
※同博物館はこの時長期休業中で、ここにあった続100名城のスタンプも駅前の「観光本陣」に移されていた。
大多喜城の再建天守天守閣の眼下にある、かつての二の丸だった大多喜高校の敷地内(なので、見学の際は学校活動の妨げにならない配慮が必要)には、当時の遺構である、周囲17m・深さ20mに及ぶ大井戸と御殿薬医門を見ることができる。
大多喜城の大井戸
大多喜城 二の丸御殿薬医門次の城へは、再びいすみ鉄道で大原まで戻り、外房線・内房線・成田線と乗り継いで、酒々井町の酒々井駅へ。ここまでだけでも2時間半を要したが、城までは更に歩いて30分を要した。
次に訪れたのは、本佐倉城(続100名城No.121)。戦国時代に千葉氏が本拠とした城の跡だ。東山馬場(ここの公衆トイレ入り口に続100名城のスタンプがある)の入り口から場内に入ると、トルコ国旗を思わせる三日月と星を組み合わせた千葉氏の家紋が描かれた模擬矢立が出迎えてくれる。
本佐倉城模擬矢立一国一城制により江戸時代初期に廃城となったため、建物は何一つ残っていないが、土塁や曲輪は当時の姿を留めている。山道を少し上った先の主郭跡では、土塁に囲まれた主郭の様子を目の当たりにすることができる。
本佐倉城主郭跡
本佐倉城城山全景奥ノ山・倉址から山を下りた先にある中池(とは言っても現在は池は無い)あたりからは、城山を一望することもできる。
次に目指す城は酒々井町のお隣り佐倉市なのだが、5㎞離れていて歩くと1時間かかってしまう。夏の暑さの中、この距離を歩くのは大変なので、1駅だけではあったが、ここは京成本線で大佐倉駅から佐倉駅へと移動する。
京成佐倉駅から15分ほど歩いて行き着いたのは、佐倉城(100名城No.20)。先ほど訪れた本佐倉城の千葉氏が築城を開始し、江戸時代初期に土井利勝が完成させた城である。
国立歴史民俗博物館の方からアクセスすると、地面に深く切り込まれた「馬出し空堀」が出迎えてくれる。
佐倉城の「馬出し空堀」
佐倉城本丸跡の土塁佐倉城は石垣が一切無く、守りに使われているのは専ら土塁だ。一の門から本丸跡に入ると、周囲を土塁に囲まれているのを見ることができる。
土塁以外の建造物は一切残っていなかったが、奥の方に天守台があるのだけは確認できた。天守閣は19世紀初頭に焼失したが、その往時の様子は、佐倉城址公園センターに設置されているミニチュアで窺い知ることができる。
佐倉城本丸跡。奥に見えるのが天守台台所門跡から本丸跡を後にする。そう言えば、この城址公園にはあちこちに「~門跡」という看板を見ることができるが、建築物の痕跡が一切残っていない。明治の廃城令に加え、陸軍の駐屯地となったことから完全に撤去されたようだ。
佐倉城台所門跡
佐倉城の堀田正睦銅像江戸時代に入ってからは、佐倉城の城主は堀田氏が務めた。日米修好通商条約締結に奔走した幕末の老中・堀田正睦もその1人で、公園内にはその交渉相手だったタウンゼント・ハリスとともに銅像が立てられている。
城跡を抜けた先にある佐倉城址公園センターで、100名城のスタンプをゲット。ここでは先述の天守閣ミニチュアのほか、本丸を再現したジオラマや、撤去前の門の写真を見ることもできる。
佐倉城址公園センターのジオラマ
佐倉城大手門跡センターの更に先にある大手門跡が、城址公園南側の出入り口だ。ここも門の痕跡は見当たらなかったが、見事な土塁が往時を偲ばせる。
時刻は既に午後5時。自宅を出て10時間もかかったが、どうにか千葉の全名城3つを巡ることができた。
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