本日は那覇から南へ自転車で向かう。ゆいレール美栄橋駅近くにあるNPO法人「しまづくりネット」さんでマウンテンバイクを借りて、AM9時40分、いざ出発。
目指す場所は、糸満。目的地までは20kmほどなので、信号待ちなどを考えたとしても大体2時間弱で着くことができるだろう。
往路は主に国道331号の路肩を走って行った。ちょっと怖いのは確かだが、歩道を走るのに比べ凹凸が少ないので、車道の方が遥かに走りやすい。しかし、途中で間違って高架の車道に入ってしまった時はさすがにおっかなびっくりになった。
出発から約1時間15分後のAM11時前、沖縄本島南西端に近い琉球ガラス村に到着。予定には無かったがせっかくだから寄ってみた。
ここでは琉球ガラスの製品を作る匠の技を直接見ることができ、且つその作業を体験することもできる。私も体験してみたかったが、待ち時間が長そうだったのでそれはやめておいて、ガラスの器作りの作業を見るだけにとどめて次の場所へと向かった。
琉球ガラス村の匠の作業
次に向かったのは、琉球ガラス村から程近い場所にある、ひめゆりの塔。日本人なら誰もがその名を知っているであろうこの場所こそが、この日最大の目当てだった。
第2次大戦終戦直前、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女生徒たちが看護師として駆り出され、米軍の南進に伴い沖縄本島の南端まで逃れることを余儀なくされる。そして1945年6月18日、突然の「解散命令」で行き場をなくした彼女たちは戦場を逃げ惑い、ある者は米兵に殺され、ある者は自決していく。ひめゆりの塔は彼女たちの魂を鎮めるため、87名という最も多くの犠牲者を出した沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の上に建てられた慰霊碑である。
入り口では、献花が1束200円で売られていた。私はそれを1束買って、ひめゆりの塔の前に供えて深々と祈りを捧げた。
ひめゆりの塔
塔の近くにはひめゆり平和祈念資料館が建てられている。入場するとまず、“ひめゆり”の生き残りたちの生々しい証言を綴った映像が上映されていた。
展示では、彼女たちが戦争に巻き込まれていく様子や、米軍が沖縄本島の北から攻めてきて彼女たちが南へと追い詰められていく様子が描かれている。展示終盤では、彼女たちの生々しい証言が特大の本にされてそれが閲覧できるようになっている。
ひめゆり平和祈念資料館
まだ人生これからという少女たちが戦争に巻き込まれていき、そして死んでいくことだけでも十分すぎる位の悲劇だ。しかし、よしんば生き残ったとしても、教師を目指していたはずの女学生たちが看護士として戦場に駆り出され、負傷兵の痛々しい傷口を目の当たりにし、そして目の前で同級生たちが、恩師たちが死んでいくのを目の当たりにしたことは、青春真っ盛りの少女たちの心にどれほどのトラウマを残したか計り知れない。
資料館では生き残りのひめゆりが語り部として、来館者に自らの体験談を涙ながらに語っていた。思い出したくもないことだろうに…彼女たちに敬意を抱かずにはいられない。
それにしても文字による説明が多いな、と思っていたところ、最後の展示室でその謎が解けた。生き残りの語り部もいつまでも生きていられる訳でもないので、彼女たちが他界した後のことを考え、来訪者の方々がより詳細にひめゆりたちの悲劇を理解できるよう、2004年のリニューアルでこのような形になったとのことだ。
確かに、その時はいつか間違いなくくる。しかし、語り部として1日でも長く生き抜いていただきたいということ以上に、戦争という悲劇に青春を奪われた分、そして非業の死を遂げていった学友たちの分、彼女たちには長生きしてほしいと切実に思う。(もしかして彼女たちにとっては『生き残ってしまったこと』自体が辛い、という側面があるかもしれないが、それでも私は敢えてそう言いたい)