先に書いた、5/9に行われたアメリカ国籍のチベット人であるSFC事務次長テンジン・ドルジェ(テンドル)さんのトークイベントについて、詳しく書くことにします。
※
挨拶の後、まず2007年4月25日(パンチェン・ラマ11世猊下の誕生日を選んで行われた)にチョモランマベースキャンプにて行われたFree Tibetアピールの映像が上演された。
その3か月後に私自身が訪れたベースキャンプが、その時雲に阻まれて見ることができなかったチョモランマ峰が映し出され、その前で
ONE WORLD
ONE DREAM
FREE TIBET 2008
西藏独立
と書かれた横断幕が掲げられている。
「(ペテン五輪の聖火は)チベットに来ないでください。あなたたちの国の一番高い山でやってください」
「この地を中国にすること、チベット人を中国人にすることはできません」
「あなたたちは中国に住み、私たちはチベットに住みましょう。隣人として友人になりましょう。それ以外に道はありません」
テンドルさんの訴えが世界最高峰の前で響く。
続いて、テンドルさんのトーク。通訳つきの英語によるトークだったが、非常に聞き取りやすい英語だった。
「アメリカ人として、アメリカのパスポートで中国に入国したが、チベット入りのパーミットをとる時、『あなたはチベット人』ということで断られた。中国人は自由にチベットに入ることができるのに、なぜチベット人が自由に入れないのだろうか? 結局、ツアーに潜り込んで飛行機でチベット入りすることができたが、本来はチベットが中国人にチベット入りを許可すべきであるはずなのに中国がチベット人に許可を与えることに理不尽さを感じた」
「ラサではプロテストを行った者と関わったとして迷惑がかかるといけないのでチベット人居住区に入ったりチベット人と話したりすることを避けていた。ポタラ宮にも行ったが主人が電気を消していなくなってしまったような印象を受けた。ラサ滞在は心苦しく、3日滞在しただけですぐにチョモランマベースキャンプに向かった」
「プロテスト当日、午前中は雲や霧でチョモランマ峰が見えなかったが、普段は唱えないマントラを唱えながら歩いていると、ベースキャンプに着く10分前ぐらいに雲が動き始めてくれ、寒さで使用が危惧されたコンピューター類も温まって使えるようになってくれた」
「アピールを始めて20~25分後、公安が来て取り押さえられ、所持品を没収されたが、映像は既にインターネットと衛星を通じて送られていた」
「初めは中国語やチベット語で怒鳴られていたが、アメリカのパスポートを見せると急に態度が変わった」
「(拘束されていた)ティンリー郡には何も決定権が無く、水や煙草を与えていいかという些細なことまで、ティンリー→シガツェ→ラサ→北京というルートで伺い、その逆ルートで決定が届くのを待たなければならなかった。ようやく北京から届いた決定は『できるだけ丁寧に扱うように』というものだった。既に映像がYoutubeなどで公開された後で、丁寧に扱わないと国際問題になりかねないことを考慮したのである。1年後には五輪が行われるために中国はイメージアップが必要だったこともあり、私たちはすぐに解放されて3日後にはネパールに抜けることができた」
「今回のことで中国政府の本質が分かった。外に向けては規律が整っていて力強いように見せているが、チベットで見た中国は腐敗し、効率が悪く、政府で働いている人は最も無知で腐敗していた。インターネットの規制も政府の人を無知にした一因だ。中国の統治は人を無知にすることで行われる。こんなことが長続きするはずがない。中国のチベット統治はいずれ崩壊する」
「チベットは必ず自由になる。その根拠は、
1. 高地のチベットで中国人が長期にわたって暮らすのは難しい。
2. 中国はnationではなくempireである。歴史的に見て、モンゴルやイギリスを見ても分かるように、帝国は50年から100年、長くても200年ぐらいしかもたない。中国帝国は既にピークを迎えている
3. 非暴力。中国は強大で、中国が勝つに決まっていると考える人が多いが、チベットと中国の対決は非暴力対暴力の対決。中国は非暴力とどう闘えばいいか知らない」
「チベットサポーターの皆さんは歴史を変えることに貢献している。皆さんのサポートは仏教をサポートすることにもなる。チベットを支援することは世界平和に貢献することにもなる。非暴力のプロテストが成功すれば暴力による戦いの続く世界の人々の意識が変わるかもしれない」
穏やかで腰の低い人柄の裏には、熱く強固な心があった。
トーク終了後も、テンドルさんは参加者と気さくに会話をする。私も拙い英語で話をさせていただいた。
「あなたたちのプロテストから2、3ヶ月後、私もチョモランマベースキャンプに行きました」
「本当?」
「でも曇っていてエベレストは見えませんでした」
「6月?7月?」
「7月でした」
「ああ、7月は一番見えにくい時期ですよ」
そこへ、別のチベット人が
「祈らないからだよ」
と一言。そうかもしれない。先ほどのトークの中でマントラを唱えていたら雲が動いてくれたという話を聞いた瞬間、私も同じことを考えていた。
夜にはテンドルさんや在日チベット人を交えて食事会。チベットの人たちとはデモなどの折に少しばかり話をさせていただいたことはあったが、こうして杯を交わしながら交流することで、彼らとの絆が一層深まった気がした。
お開きの後、テンドルさんは在日チベット人たちと一緒に会場を後にした。きっと、同胞同士で飲みながら祖国のことでも語り合ったことだろう。
関連コンテンツ