帰国~“日常”から“日常”へ
2011年10月23日
午前0時35分。まずは香港を目指してジェットエアウェイのエアバスでデリーを後にする。
香港には午前8時ごろに到着したが、時差があるので飛行時間は僅か5時間。機内食を食べたりもしたので、睡眠時間はほんの少ししかとることができなかった。
ここでの乗継時間も5時間。長い時間だが、外に出るには短すぎる。空港内のWi-Fi(PCCWが使い易くて便利)でインターネットをしたり軽く食事をしたりして搭乗時間を待つ。
そして午後2時前、香港を出発。約4時間半後の午後7時すぎ、成田に到着した。
これで、今回の旅は終了した。
インドでの“非日常”から日本での“日常”に戻った――と、普通なら思うことだろう。
しかし、私の場合は違う。
私の場合、海外を巡ることは決して“非日常”などではなく、“日常”そのものなのである。
“非日常”なんて、言葉のあやだ。
どこにいようと、
どんな時を過ごそうと、
その時自分のいる場所、置かれいている環境こそが“日常”そのものなのである。
今回旅に出たのも、インド・ラダックという“日常”へと足を踏み入れたにすぎない。
この日の帰国も、インドという“日常”から、日本という“日常”に戻って来たにすぎない。
そもそも、海外に身を置くことがどうして“非日常”になるのだ?
同じ人間が住む場所に身を置き、同じ地球の上にいるという意味では、日本にいることと何も変わらないではないか。
だから、日本に戻ってきたからと言って、特に何も感慨は無い。
場所が違うというだけで、明日も昨日までと同じ“日常”が始まるだけのことである。
デリー・空港メトロ
2011年10月22日
かつてのデリーでは、空港へ行くのにタクシーやリキシャを使うしかなかったようだが、今では空港メトロがニューデリー駅から出ている。
ニューデリー駅東側にある入り口から、通常のメトロとは違う通路を歩いて、空港かと思ってしまうようなセキュリティチェックを受けた中で切符を購入。空港までは80ルピー。
速い(空港まで僅か15分!)
安い(メインバザールからのタクシー250ルピーの僅か3分の1!)
快適(エアコン完備の最新車両!)
で、込み具合は・・・
ガラ空き・・・
時間帯にもよるのかもしれないが、これだけ空席が目立つと赤字路線になって廃線の憂き目とならないかと心配してしまう。
いずれにせよ、メインバザール(パハルガンジ)を目指す旅行者にとっては嬉しい改善と言うことができるだろう。私も、メインバザールから帰りの空港へ向かうのに速く、安く、快適に利用させていただいた。
但し、このメトロのニューデリー駅出入り口が、国鉄駅の東側にあるというのが落とし穴。先日書いたように、メインバザールのある西側から東側へは国鉄駅の歩道橋を渡って行くことができるが、逆の東側からは歩道橋に入ることができないので、空港からメインバザールを目指す場合はリキシャなどで遠回りしなければならないので、ご注意を。
ニューデリー駅とメインバザール
2011年10月21日
明日の帰国の際には、新しくできた空港メトロでデリー空港に向かう予定である。念のため、ニューデリー駅東側にある駅に行って、場所と最終電車の時間を確認した。午後9時にはメトロに乗りたいと思っていたところ、最終電車は11時半だという。それなら全く問題ない。
ところで、ニューデリー駅西側にあるメインバザールと駅東側にあるメトロ駅の移動に若干の問題がある。
メインバザールからニューデリー駅東に行くには、駅構内の歩道橋を歩いてしまえば問題ない。問題があるのは、逆の駅東からメインバザール方面へ行く場合である。西から入ることができる歩道橋が、東からは2つある歩道橋の両方とも「No Entry(入っちゃダメ)」になっているのである。入り口にはしっかり警官が見張っているので隙を見て入ってしまうことも困難だ。
で、コンノート・プレイスを経由するというとてつもない遠回りをさせられる羽目になる。
歩きなら、コンノート・プレースを1区間時計と逆回りすればいいだけなのだが、コンノート・プレースは言わば大きなロータリーで、車両は時計回りにしか進むことができない。歩きなら1区間で済むところをタクシーやリキシャだとほぼ1周しなければならない。
この時私はメトロ駅で偶然知り合った日本人男性2人組と一緒にオートリキシャに乗ったのだが、歩道橋を歩けば5分で済むところをエンジン付きの車で10分ほどかかってしまった。ちなみに料金は、80ルピーの言い値を70ルピーに値下げさせた。
余りに不合理。余りに不条理。
もう少しどうにかならないものか・・・
クシナガル~ゴラクプル~デリー
2011年10月21日
クシナガルからデリーへの帰途は、最寄り鉄道駅のゴラクプルを経由してとなった。クシナガル~ゴラクプルの間は50kmほどだが、道路はかなり整備されていて1時間半ほどでスムーズにゴラクプル・ジャンクション駅に到着することができた。
ところが、その駅でアクシデントが発生した。
私が乗るはずだった10月20日の22時5分発の列車がなかなか来る様子が無く、待っているうちに日付が変わってしまった。駅の管理室に行って尋ねてみると、23時30分に出発してしまったという。駅の列車情報TVモニターをじっと見ていたが、その列車番号は1度たりとも表示されることがなかったにも関わらず、である。あり得ない・・・
じっとしていても仕方が無いので、駅員に他のデリー行きの列車へ案内してもらったが、運賃をもう一度払わなければならなかったのは言うまでもなく、上のランクのACスリーパー(エアコン付き寝台)しか空いておらず予定よりも高い金を支払う羽目になってしまった。
しかし、この列車に替わったことはむしろ吉と出た。
まず、本来乗る予定だった列車はデリー行きはデリー行きでもデリーのどこにあるかよく分からない駅へ行くものだったのに対し、替わった後の列車は宿泊予定地のメインバザールまん前のニューデリー駅に到着してくれた。
次に、実際に乗った列車(特急)がインドの列車の割にはスムーズに走ってくれて、午後2時すぎにはニューデリーに到着。ゴラクプルの時点で既に1時間半遅れていた、デリーのどこかの駅12時半到着予定の本来の列車(恐らく祭り期間の臨時便ではないかと思われる)よりもむしろ早くデリーに到着したのではないかというくらいなのである。
ACスリーパーの車両は、構造こそエアコン無しのスリーパークラスと変わらないが、乗客が若干少ない分スリーパークラスよりもゆったりとした感があり、乗っているお客もスリーパークラスのようにタチの悪い奴が交じっていない分安心感があった(こういう言い方は余りしたくないのだが、4年前にスリーパークラスでデジカメを盗まれたトラウマがあるもので・・・)。
ともあれ、予定通りの日付でデリーに戻ることができた。
数日前と同じHare Rama Guest Houseに入り、この日は明日(実際には日付が変わって明後日)夜の帰国に向けて、休養と準備をするばかりだ。
ダラムサラ―デリー
2011年10月16日
ダラムサラから夜を徹してインドの首都デリーへと向かうバスは、VOLVOバスとデラックスバスの2種類があった。私はエアコンが無く、リクライニングも並であるランクが下のデラックスバスを選んだが、これで十分。この時期はエアコン無しでも車内の室温はちょうどよく、リクライニングも浅すぎることなくちょうどいい塩梅だった。尻だけはちょっと痛くなったが、そんなにクッションが利いていない訳でもない。
午前6時すぎ。バスはデリーのチベット難民キャンプがあるマジュヌカティラに到着。他の外国人3人でメインバザールまでオートリキシャを相乗りする。しかし、インドのリキシャワラーはタチが悪い。メインバザール手前の場所にある、つるんでいると思われるホテルの前に泊まって、「さあ、こちらのホテルにどうぞ」とくる。しかし、甘く見てはいけない。私と更にもう1人、既にメインバザールを知っている乗客がいたのである。
「ここメインバザールちゃうやろ!」(勿論英語で言ったのだが、なぜかここでは関西弁で書いてみた)
と言うと、リキシャワラーは笑ってごまかしながら、最終的にはメインバザールまできちんと行った。
リキシャが停まった所のちょうど近くに、宿の候補と考えていたAjay Guest Houseがあったのでまずは行ってみたが、エアコン無しでも500ルピーと少々高い。向かいのHare Rama Guest Houseのフロントを覗いてみると「エアコン無し300ルピー」となっている。部屋もそんなに悪くなかったので、こちらに泊まることにした。
さて、帰国の途に就く前に、もう1か所、今回行っておきたい場所があった。ブッダ入滅の地・クシナガルである。前回のインド・ネパール訪問で、生誕の地・ルンビニ、苦行の地・ラージギル、悟りの地・ブッダガヤ、初説法の地・サールナートには既に行っていたのだが、どういう訳か入滅の地だけ行きそびれていた。今回のインド訪問でどうしてもその穴を埋めたかったのである。
列車でゴラクプルまで行ってそこからバスでアクセスするのが便利そうだったので、ニューデリー駅に行って切符を買いに行くか。と、それよりも、予想通りの展開ではあったが、日本でとった復路の日付が変更可能な航空券の予定日よりもやはり早めの帰国となりそうだ。こちらの変更手続きを先にやっておくか。
そこで、コンノート・プレイスにあるジェットエアウェイズのオフィスに向かったが、どうやら元あった場所から移転した模様。同じコンノートプレイスのGブロックに移ったと聞いたのでGブロックに行ってみたが――はてどこだろう。
あ、「ツーリストインフォメーション」の看板がある。あそこで聞いてみよう。
ところが、場所を聞くつもりだっただけのそのツーリストインフォメーション――ではなく、DELHI TOURSという旅行社だった――で、結局日付変更の手続きをすることになった。よく考えたらこの日は日曜日。航空会社のオフィスも今日はCloseなのだ。それならここでやってしまった方がいいだろう。
ところで、私がとった航空券は純然たるオープンチケットではなく、「復路のみ、空席があれば、目的地以降1回のみ無料で変更可。経路変更は不可。 *現地で変更事務手数料が別途かかる場合があります。」というものだった。その「現地で変更事務手数料」というのが曲者で、これに結構な値段がかかってしまった。
そして、クシナガル行きも、ニューデリー駅の外国人専用チケットオフィスが日曜で閉まっているらしいこと、現在インド全体でフェスティバルが行われていて列車のチケットが手に入りにくいとのこと、ゴラクプルからラージギルのバスが予想以上に少ないようであることなどから、こちらでお世話になる流れになってしまった。
最初は行きも帰りもゴラクプル経由で行く方向で話を進めていたのだが、
「クシナガルなら、バラナシから車でアクセスする方がいいですよ。途中に他の仏教遺跡もありますし」
と、日本語の達者なベテラン職員が横から入ってきた。
そういうことなら、デリーから夜行列車でバラナシに行って、翌朝到着したら車でクシナガルへ・・・
待て待て待て。
バラナシに行くなら、素通りはしたくないぞ!
ということで、
1日目 デリー―(夜行列車)→
2日目 →バラナシ(1泊)
3日目 バラナシ→クシナガル(1泊)
4日目 クシナガル→ゴラクプル―(夜行列車)→
5日目 →デリー、市内観光
という日程になった。
さて、お値段は・・・
先程のベテラン職員が電卓をたたく。
「3万5000」
「え!? 3万5000ルピー?」
「違う違う。3万5千円」
何だ、日本円か。それにしても高いな・・・
どうやら、バラナシ→クシナガル→ゴラクプルの車代が高くつくらしい。
その後、車や列車をエアコン無しにしたり、5日目の市内観光を無しにしたりで「ラストプライス」2万円まで引き下がった。
どうしようか・・・
2万円でも、自力で行くことを想定して考えていた値段よりも高い。しかし、ここまで引き下げることができたのだし、やはりクシナガルには行きたい。列車の切符の取りにくさを考えると・・・
よし。
これで行こう!
帰国日こそ日曜が明けた翌日にならないと決まらないが、これで取りあえず今回の旅の最終段階の日程が固まった。
マナーリー―ダラムサラ
2011年10月 6日
マナーリーで迎えた2日目の朝。宿に近いチベット寺院2つを参拝した後、いざ、今回の旅で第2の目的地であるダラムサラへと向かう。
ところが、マナーリーのバスターミナルで、前日に買ったチケットの車が無く、取りあえずクルまで行ってそこでダラムサラ行きに乗り換える、ということになる。
クルでの乗り継ぎは、最初のバスの車掌が案内してくれたお陰でスムーズにできた。と言うより、乗り継いだらすぐの発車でトイレに行く暇すら無かった。
乗ったバスは「Ordinary」、即ちごく普通の鈍行バスで、途中で何度も停まっては客を乗降させ、要所のバスターミナルではじっくり停まって客を集め、という実にゆったりとしたものだった。
バスは途中までは、おおむね山道を上るコースをたどる。しかし、後半になるとほぼ一貫して山道を下りる形となった。ダラムサラは山のてっぺんにあってその上にはもう街は無い、というイメージが前回の訪問であっただけに「おいおい、どこまで下りるんだ?」と少し不安を覚えた。しかし、よくよく外を見れば山を下っているというよりは山そのものがだんだん低くなっていて、それに沿うようにして走っていたのだった。
もう一つ違和感を覚えたのは、前回はチャッキバンクからアクセスして、ダラムサラに着くまでは人里離れた山奥の道をひたすた走ったような記憶があったのだが、今回は到着直前まで賑やかな街を幾つも通ったことだった。しかしこれも、コースが違えば車窓の外に見える風景も変わって当然のことだった。
午後6時すぎ、ダラムサラのバスターミナルに到着した。しかし、これで目的地に着いたと思ったら大間違い。ダラムサラには「ロウアーダラムサラ」と「アッパーダラムサラ(通称『マクロードガンジ』)」の2つの地域があり、旅行者にとって「ダラムサラ」と言えば後者なのだが一般的に「ダラムサラ」と言えば前者なのであるらしい。ここから更に、すし詰めのジープタクシーで10kmほど山道を上ることになる。(ちなみに、この時の私の隣席は、女性に抱えられた大きな犬だった)
午前8時20分にマナーリーを出発して約10時間30分後の午後7時前、ようやく目指すマクロードガンジに到着した。
9月26日:7時間
9月27日:11時間
9月30日:10時間
10月1日:9時間半
10月4日:19時間
10月6日:10時間半
これ全て、ここ最近車で移動した所要時間である。
――移動しすぎ。
ここでは暫く、ゆっくりすることにしよう。
レー―マナーリー(2)
2011年10月 4日
バラトプルを出てから間もなく、バララチャ・ラ※を越える。高さは先程越えたナキー・ラと同じ4950m。同じ高さから下ってまた同じ高さまで上ってきたことになる。ご苦労なことだ。
このあたりからだったか、チョルテン(仏塔)やタルチョ(五色の祈祷旗)がまばらではあるが見られるようになる。再びチベット仏教圏に入ったということであろうか。
ダルチャで2度目のパスポートチェックを受けてから30kmほど走った後、割と大きな街が見えてきた。ケーロンである。田舎町なのだが、このコースを走っていて明るい間に見たのがテント村だけだった私の目には、かなり大きく感じられた。
見たところ、チベット料理の店やチベット人の村落もあるようだが、道端の祠などはむしろヒンドゥー教のものが目立つ。
ここで進路を南西から東へと大きく変える。40kmほど走ったところでコクサルに到着。ここで3度のパスポートチェックを受ける。
そして、ここでまたしても足止め。せっかくなので茶屋でチャイを飲んだ後、周りの景色に目を配ってみた。
すると、川の向こうにある村落のそのまた向こうの山肌に、ぽつんと1軒、ゴンパが建っているのが見えるではないか。村落の中にも、チョルテンが建っているのが見える。
チベット人の多いマナーリーに近づいている証拠だろう。
午後4時。足止めが解除され、ラストスパートへと走り出す。この先には最後の峠となるロータン・ラが待ち受けているが、標高3978mとこれまでのものよりも1000mも低い。
しかし、このラストスパートが過酷なものとなった。
峠を登る車窓の外には、山々が連なっている。そして、その山々の頂に雲がかなり厚くかかっているのが分かる。
そして、車がにわかに霧に包まれた。
いや、と言うより・・・
車が雲の中に突っ込んだのである。
勿論、空は全く見えなくなった。青い空がかけらも見えなくなるなんて、何日ぶりだろう・・・
見通しが悪くなった上に、これまでの舗装状態が嘘のように、道が土むき出しの悪路になった。今回の行程最大の難所に突入である。
峠はすぐに越えることができた。しかし、マナーリーはここよりも1000mも下である。ここから先はひたすら下りだ。
下りとなるとどうしてもスピードが出てしまうので、谷側に落っこちないように細心の注意が必要となる。時には対向車も来るので、すれ違う時にも細心の注意と譲り合いの精神が必要だ。
霧(と言うより雲)は谷の底までかかっている。谷底が遥か下に見えるケースも恐ろしいが、こういう時は谷底がどうなっているか分からない方がむしろ恐ろしい。
無事谷に降り、道路のアスファルトも復活した。これで終わりかと思いきや、車は更に緩い下り坂をダラダラと走っていく。
賑やかな街に到着し、いよいよゴールかと思いきや、単なるマナーリーの衛星都市(衛星街?)にすぎず、本当のゴールは更に先だ。
そして、マナーリーに入る車、マナーリーを出る車が細い両側通行の道にあふれ、渋滞が始まる。結局この渋滞はマナーリーの街中に入っても続き、更には放牧から帰ってきたとみられる牛や羊の群れがその渋滞に拍車を掛ける。
この渋滞、どう考えても道路ができた当初よりも街の規模や人口が拡大し、その発展に道路の整備が追いついていないとしか思えない。
そして、夜7時前。私たちのジープはマナーリーの街中に到着した。
19時間にも及ぶ、文字通り山あり谷ありの移動に、今ようやくピリオドが打たれた。
※ 「ラ」とは「峠」のこと。
レー―マナーリー(1)
2011年10月 4日
前日の10月3日夜11時半すぎ。レーのジョカン前でマナーリー行きの車を待つ。
他に誰もいない道端に立って、犬たちがそう遠くない場所で激しく吠え出したのに少々びびっていたところに、車がやって来た。10人以上乗ることのできる大型のジープである。
準備が整ったところで、いざマナーリーまでの485kmの旅路に繰り出した。
まずは上ラダックの街道を走るが、何度も通った場所だというのに、真っ暗だといつもと違う場所のようにも感じられる。
ジープはティクセを、カルを通過し、ウプシで右に曲がって南へ進路を変える。ここから舗装道路が無くなり、車は砂煙を巻き上げながら走る。揺れも多少あり、車酔いを殆どしたことがない私も、少し気持ち悪くなった。
しかし、最大の敵は揺れではなかった。
異様なほどの寒さである。
これまで夜の時間帯は、例外なく宿の室内でぬくぬくと過ごしていた。そのため、ラダックの夜の気温がどのようなものか、まるで知らなかったのだ。
寒い。
この車にはエアコンなどという気の利いたものが付いていなかったので、風こそしのげるものの外の寒さが殆ど緩和されることなく伝わってくる。
私も勿論、できるだけの装備をして臨んだのだが、それでも寒い。もしかしたら0度を下回っていたのではないだろうか。
これが、「1日の間に夏と冬がある」とも言われるラダックの夜の寒さか・・・
寒さに耐えつつ何とか軽く睡眠をとっていたところを、起こされた。レーから184km地点のパンで、パスポートチェックがあったのだ。
パスポートチェックを終わらせて暫くして、再び走り出したが、パンのテント村前で再び停車。見ると、ここに来た全ての車が停められているようである。
東の空が白み出してくるが、寒さは全く変わらない。テント村で焚かれている火に当たってみたりするものの、余り効果は無い。
空が明るくなった朝6時すぎ、ようやく通行許可が出て、待たされていた車が続々と発車していく。
太陽が山陰から出て車の中にまで陽光が射すようになって、ようやく凍りつきそうになっていた体が解凍されていった。
そこから先は、アップダウンが激しいものの、道路はおおむね舗装整備されていて、実に快適な道中となった。
しかし、そこは峠道。注意して走らないと↓のようなことになるので、ご用心。
そんな過酷な道を走り続けるのだから、車も大変。道中、こんな場面も。
タイヤ交換
11時ごろ、バラトプルの茶屋で休憩。インスタントラーメンの簡単な昼食をとる。
明るくなってからというもの、このコース沿いにはゴンパ(僧院)は勿論、チョルテン(仏塔)もタルチョ(五色の祈祷旗)も見ることができず、仏教圏を外れた印象が強かった。しかしこの茶屋では、ここまで出張してきている人の信仰を反映してか、タルチョがはためき、テント内にはダライ・ラマ14世の写真も飾られていた。
ここからマナーリーまで約200km。中間地点は既に過ぎていたが、区切り的にここから先が後半戦だと言っていいだろう。
※ 「ラ」とは「峠」のこと。
カルギル―レー
2011年10月 1日
カルギルからレーへのバスは定刻通り、5時に発車した。
インドの大型バスは一般的に、乗客の座席部分と運転席を含めた前部が壁とドアで仕切られているのだが、私と田辺さんは予約するのが遅かったためか、運転席側に割り振られた。
しかし、この席が割と面白かった。バスの行く手が他の客席よりも一目瞭然だし、バスを動かすルールが垣間見えたりもする。例えば、
・途中下車する乗客がいたら、車掌が運転席のドアをノックして知らせる。
・後ろの車に抜かれそうになったら、相手に「どうぞお先に」と手で合図する。
等々。
また、前日のパドゥム~カルギル間の時もそうだったが、行く時とは逆方向を走っているがために見え方が違ってくること、見えていなかったものが見えることもある。
前者の例は、
違う角度から見下ろすラマユル・ゴンパ
後者の例は、
バスコ(レーとアルチの間の街)のゴンパや城跡
同じ場所を通っても、角度・時間(タイミング)・天気等によって変化するから風景というのは面白い。
ところで、先述のバスコのゴンパ等を通過した直後のことだった。
ラダックには、かつて国境紛争の舞台になったという背景から、街道沿いにも軍事施設が多く見られるが、バスコにもそれはあった。そこの軍事施設にはこともあろうに、チョルテン(仏塔)やマニ車が設置されていたのである。
[マニ車を回しながら、チョルテンをコルラしながら、戦争の備えか?]
悲しい、やり切れない、腹立たしい思いで胸がつかえた。
さて、出発前にはカルギル~レーの所要時間は7~8時間ぐらいと聞いていたが、来る時の時間のかかり方を考えてみるとそんなに早く着けるとは思えない。しかし、来る時に大渋滞が発生していた終盤の区間を今回は車の殆ど無い早朝の時間に駆け抜けることができた時は、あるいはもしかすると、と期待させられた。
しかし、やはりそうはうまくいかなかった。
昼を過ぎると、車の通行量が増えたり工事が行われたりで、通行が妨げられる場面が何度か発生した。それでも出発から9時間半後の午後2時半にはレーに着くことができたのは、褒めてやってもいいかもしれない。
1週間ぶりに戻って来たレー――何か懐かしいような、ほっとしたような気分になった。
以前、このブログで「メイン・バザールが騒がしい」「癒しにならない」などと散々書いてしまったレーだが、こうして戻ってくるとその喧騒にまでも懐かしさを覚える。
バスを下り立った私の第一声は、こうだった。
「俺、やっぱりこの街が好きだ」
ザンスカール―カルギル(2)
2011年9月30日
カルギルへの車は、7時すぎになってようやくパドゥムを出発した。
来た時と同じ道ではあるが、進行方向が逆だと見える景色も違う。また、何度見てもいい景色というものもある。特にドゥルン・ドゥン氷河では、私も田辺さんもテンションを上げて、埃っぽい荒野を走っているにもかかわらず車の窓を全開にして写真を撮り続けていた。
今回特に印象に残ったのは、道と川の方向が西向きから東向きへと変わった後のスル谷の景色だった。山と山との間に、スル川が切り開いた広大な谷が横たわっているのである。
[これこそ、『風の谷』だ・・・]
私は名作アニメ『風の谷のナウシカ』の情景を思い浮かべていた。
4年前、私は『風の谷』のモデルではないかといわれる同じくカシミール地方の、現在はパキスタンの実効支配下にあるフンザを訪れて、その清らかで幻想的な谷の風景に、なるほどこれは『風の谷』のモデルかもしれないな、と感じたものだった。ただ一つ、あの名作の谷に比べて狭いかな、という違和感だけがぬぐえなかった。
今眼下に見える風景はどうだろう。山と山に挟まれた広大な谷の中に、川が流れ、小さな家屋が点在し、収穫後ではあるが田園風景が広がり、緑の木々が林を形成している。
『風の谷』のモデルは実は、フンザよりもむしろその上流にあるラダックではあるまいか――そんな気がしてならなかった。
さて車は、なぜか途中で発電用のタービンをピックアップしつつ、スル川に並行する道を下っていく。行きと同じ3箇所のチェックポイントでパスポートチェックを受ける毎に、ザンスカールから遠ざかっているのだな、ということを感じる。
スタートで出遅れたため明るいうちに到着できるがどうかやや不安だったが、車は出発から10時間強の午後5時半、カルギルのメイン・バススタンドに到着した。その10時間の間トラックの荷台に置かれていたバックパックは、荒野の風に吹きさらされて埃まみれになっていた。
到着して真っ先に行ったのが、メイン・バススタンドでレー行きのバスを探すことだった。これが見つからないと騒がしいだけで何の面白みも無いカルギルで余分な長居を強いられることになる。
ところが探し始めて1分とたたないうちに、至極きれいなレー行きのバスが見つかる。運賃は1人300ルピーと、思っていたよりも安い。私と田辺さんは即そのバスのチケットを購入し、出発時間である翌午前4時半まで近くのゲストハウスで一息ついた。
ザンスカール―カルギル(1)
2011年9月30日
早朝5時。カルギルに向かうべく宿を出た。まだ暗い東の空には、雪を冠したザンスカールの山の頂が白く輝いている。
5時すぎになったら泊まっていた宿の前で私を拾ってくれるはずのカルギルへの車がなかなか来てくれない。待っているうちに6時になってしまった。業を煮やして、車が出発するパドゥム・ゴンパ近くのゲストハウスにこちらから出向いてみると、何やら準備中の様子の小型トラック車が停まっていた。
前日その車の件で声をかけてくれた田辺さんによると、
「運転手が寝坊したらしいです」
とのこと。あり得ない・・・
ようやく運転手が準備を終え、そのゲストハウスを出発する頃には7時前になっていた。乗客は私と田辺さんのほか、インド人が3人だった。
ところが、出発したかと思うとすぐ、私が泊まっていたゲストハウスの手前にあるレストランで停まって朝食&モーニングチャイ。
私が宿を出てから2時間経過して、宿からカルギルまでの移動距離、-100m・・・
カルギルへの交通手段決定
2011年9月29日
宿に戻り、夕食でもとろうかと表に出たところ、ザンスカールへ向けて出発しようとしていたレーのバスターミナルで少し言葉を交わした日本人男性・田辺さんに出くわした。一緒に夕食をとりつつ、レーへの交通手段について話をする。
「取りあえずカルギルまでの車を宿で安く(500ルピー)手配できそうなのですけれど――空きがあったら一緒にどうですか?」
と、田辺さんが言う。
願ってもない話だ。私もちょうど、ザンスカールを離れようかと思っていたところである。
夕食を終えて、宿で冷水浴を終わらせたところ、ドアをノックする音がする。田辺さんだった。
「車の席に余裕があるので、明日の朝5時出発で行きましょう」
これで、ひとまずカルギルまでの足は決まった。後はカルギルでレー行きの足を確保するばかりだ。
サニ―パドゥム
2011年9月29日
さて、サニからの帰りだが、このあたりにはバスという交通手段がまず無い。乗り合いタクシーやジープ、トラックなどが来るのを待って乗せてもらうしかない。
しかし、その車がなかなかやって来ないのがザンスカールである。
暫くは地元の「Photo!」などとまとわりついてくる可愛い地元の子どもたちを相手にしながらサニの道端で車が来るのを待っていた。
しかし、このままじっとしていて車が来ない場合を考えると、少しでもパドゥムに向けて前に進んだ方がいいだろう、と思い立ち、私は昨日に続いてウォーキングに踏み切った。
幸い、道は大した上り坂も無くほぼ平坦で、途中には道としてまずまず整備された近道もあった。道のりも7km程度と昨日ほどではない。むしろ、途中の風景を楽しみながらパドゥムへの道を歩いた。
途中で渡った鉄橋
途中で通りかかったチョルテンとマニ壇
途中で写真を撮ったりしていたのでペースは遅くなったが、約1時間40分でパドゥムに到着した。
そして、その1時間40分の間に私を追い越した車両は――僅かに5、6台だった(前半は停めようとして手を挙げても停まってくれなかったが、後半は「最後まで歩いてやれ」という気持ちになって手すら挙げなかった)。
これが、ザンスカールの交通事情の実態である。
売店が無い!
2011年9月28日
カルシャ・ゴンパ、チューチグザル・ゴンパのほか、もう少し歩いた場所にあるゴンパにも訪れようと思っていたのだが、そうもいかない状況になってきた。
まずは、脚が張ってきたことである。
普段の私なら、1日20km程度歩いたところで全く平気なのだが、ゴンパの階段を計算に入れるのを忘れていたのだ。
脚ばかりではない。背中や肩まで張ってきた。こんなことは、これまで何度も長距離ウォークをしてきたが未だかつて無い。
これは恐らく、パドゥムに着くまでの3日間連続で、バスやトラックやジープで悪路を延々と移動したことの疲れが知らず知らずのうちに溜まっていたのだろう。たった一夜明かしただけでこの歩きは余りに無謀すぎた。
そして最悪だったのは、水が尽きたことである。
カルシャ・ゴンパ麓に売店があるという情報があったので、水はそこで買い足せばいいと思っていた。
確かに、売店は2件あった。
しかし、1軒目では、
「Finished(売り切れたよ)」
2件目では、
「ここには無い。あっちの店(『Finished』と言われた1件目)に行ってくれ」
と言われる始末である。
単に水というだけならそのへんに幾らでも流れている。しかし、インドで恐らくLocal Waterを飲んだせいで激しい下痢に見舞われたトラウマを持つ私には、どうしても川の水を飲む気にはなれなかった。小川の水はきれいでも、その水が流れ込む大きな川の水は白濁した奇妙な色になっているので、成分として何が含まれているか分かったものではない。
次の目的地では、売店など到底望めそうにもない――ザンスカールとはそういう所なのである。
水さえ補給できれば何とかできたかもしれないが、このまま余計に歩き続けるのは無理である。パドゥムに帰り着くのが限界だろう――残念だが、ここで引き返さざるを得なかった。
売店はおろか、家屋一つ見当たらない荒野である。
左側の雪山の下に小さく見えるのがパドゥムの街
売店の他に、もう一つ「無い」ものがあった。パドゥム方面に向かう車である。これではヒッチハイクも無理である。
どうせ車が来ないなら・・・と、私は道なりに歩かず、荒野の中の最短距離を歩き出した。
渇く・・・
疲れる・・・
唯一の癒しは、目の前に連なる雪山の涼しげな景色だった。
カルシャ・ゴンパ麓から歩くこと2時間(どう考えても、6kmというのは直線距離としか思えない)――ようやくパドゥムに到着。そして、ここでようやく、ミネラルウォーターを売っている売店を見つけることができた。
繰り返しになるが、ザンスカールではパドゥムやカルシャ等を除き、売店と言うものの存在を期待してはいけない。ついでに言うと、売店があったとしても、ソフトドリンクの類は殆ど全く売っていない。
それでも現地の人々は、きちんと暮らしているのである。
ザンスカールへ(3)
2011年9月27日
ペンジ・ラ峠を越えて10分ほど、白い雪を頂いた山の景色に見とれていると、雪山と雪山の間に白い帯が横たわっているのが見えた。
[もしかしたら・・・]
予感はしたが、その正体はすぐにはっきりと分かった。
氷河(ドゥルン・ドゥン氷河)だった。
先程から車の窓を開けて写真撮影をしていて、どうも冷え込んできたな、と思っていたら、ついに氷河がすぐそこに見える所まで来ていたのである。
ここは標高4000mの地である。雪山のすぐわきに川があるのだからその水源となる氷河があることは容易に予想できるが、これほど立派なものをみることができるとは――4年前、チベット・デチェン地区のカワ・カルポ峰(漢字名『梅里雪山』)に端を発するム・ロン(漢字名『明永』)氷河やパキスタン・フンザの氷河を訪れて以来の本格的な氷河を目の当たりにして、私のテンションのゲージは一気に上がった。
その他にも、ザンスカールは様々な自然の姿を見せつけてくる。
雪山をバックに、荒野の中を川と川が一つになる瞬間・・・
川が大地を大きくえぐり、鋭い谷を形成している場面・・・
ザンスカールは、高地における自然の姿の宝庫と言っていいだろう。
そして、カルギル以来希薄になっていたチベット色も再び濃厚になってきた。
チベット様式の家屋、タルチョ(五色の祈祷旗)、チョルテン(仏塔)・・・
チベット的な顔立ちとチベットの民族衣装・・・
今回の旅で究極の目的だったザンスカールに、今私はいるのだ。その中心都市まで、もうあと少しである。
ジープは途中で大きな荷物を持った地元の人を乗せつつ走る。アブラン手前の最後のチェックポイントを過ぎる頃には、乗客は5人にもなり、後部トランクと屋根の上は荷物で一杯になっていた。
やがて悪路は終わり、ジープは舗装道路に入り、ラストスパートをかける。
そして、やはり出発から11時間以上となった午後6時前、ジープはついに、パドゥムに到着した。
ここまでの行程で既に自然の景色を存分に満喫したが、ザンスカール巡りはまだまだこれからである。
ザンスカールへ(2)
2011年9月27日
サンク―テシェル間にて
9時10分、テシェルに到着。ここで最初のパスポートチェックを受ける。何か、4年前に訪れた同じくカシミール地方のインダス川流域のパキスタン・フンザに行った時のことを思い出す。
その後、山道に差し掛かって川を遥か下に見下ろす位置にまで上がり、進路を南から東へと変える。するとその先は、舗装された箇所が全く無い悪路の連続となり、ジープの速度は自然と遅くなっていった。
上がったり下がったりを繰り返しながら、12時半、ランドゥムに到着。このあたりが大体中間点だ。ここで昼食をとり、2度目のパスポートチェックを受ける。
ここでようやく、ゴンパが見えてきた。ランドゥム・ゴンパである。
イスラムの街カルギルからここまで、仏教的な要素はチョルテン(仏塔)を一回見た以外全く見られなかったのだが、どうやらここから再び仏教圏に入るようである。
そして午後2時20分、標高4400mのペンジ・ラ峠を越える。
ここから先が、いよいよザンスカールだ。
ザンスカールへ(1)
2011年9月27日
夜が明けたらバススタンドへ行こうと考えていたが、5時半に起きてみるとまだ辺りは真っ暗だった。6時。ようやく東の空が明るくなり始めた。
[これ以上は、待てないな・・・]
できれば明るいうちに次の目的地・ザンスカールのパドゥムに着いていたかった。前日宿の主人が話していたところによると、パドゥムまでの所要時間は12時間。今出発しないと到着が夜になってしまう。
私は、日の出を待たずにバススタンドへと向かった――とはいえ、バススタンドは宿のすぐ隣である。着くのに3分とかからなかった。
ジープもバススタンドで探すことになるのだが、さすがに朝一番だと待ち構えている運転手も殆どいない。
そこへ、ちょっと西洋人っぽいインド人が尋ねてきた。
「ザンスカールへ?」
「そうです」
「あそこに運転手がいるんだけれど、どうも渋っていて・・・」
彼に連れられてその運転手のところに行ってみた。どうやら、乗客が少ないことを理由に渋っているようである。
西洋人っぽいインド人が運転手と話し合った結果、こうなった。
「今回は人が少ないので、本来1500ルピーのところを2000ルピーなら行くと言っていますが、どうしますか?」
頭の計算機を働かせてみた――この騒がしいだけで何も無い街でもう一日待ったとすると、差額の500ルピーは飛んでいってしまうだろう。それなら、ジープに500ルピー余分に払って1日早くパドゥムに到着した方がいいに決まっているではないか。
決まりだ。私はその話に乗って、そのジープでザンスカールへ向かうことに決めた。
パドゥムへのジープ。サンクにて
カルギルから約40kmのサンクには7時50分ごろに到着した。ここで朝食をとって再出発である。
ここで全行程の約5分の1まで来たことになる。この調子で行けば、12時間もかからないのではないか ―― 一瞬、そんな考えが頭をよぎった。
しかし、そう甘くは行かなかった。
サンクまではきれいに舗装されていたからそのペースで来ることができた。しかし、サンクから先は舗装道路あれば悪路あり、と言うより、悪路の方が多い行程が待っていたのである。
カルギルへ
2011年9月26日
ラマユルの宿で朝食を頂いた後、ザンスカールへの中継地点・カルギルに向けて出発。バスが9時半から10時の間に来るとのことだったが、結局来たのは10時半ぐらいになった。
カルギルへは再び峠を越える道となった。アルチからラマユルへの道同様、整備された道あれば悪路あり、車がすれ違えるかすれ違えないかやっとの道、車が1台しか通れないような橋があったことも同じだった。
午後3時ぐらいには着けると思っていたのだが、途中何度か車が全く動かなくなるような渋滞があり、そのうち1度は動き出せるようになるまで1時間半ほどかかってしまい、カルギルにようやく着くころには午後5時半になっていた。
宿を決めて早速、ザンスカールのパドゥムへの行き方を宿の主人に聞いてみたところ、
「バスは、レーからのバスが来て空きがあれば乗れるけど、いつ来るか分からないし、空席があるかも分からない。ジープの相乗りの方が確実ですよ」
「ジープは幾らかかりますか?」
「1500ルピーです」
「高いな・・・」
「遠いし(12時間ぐらいかかるとのこと)道も悪いので、それくらいかかってしまいます。運転手しだいで1000ルピーだったり1500ルピーだったりしますけど(笑)」
どうしようかと考えつつ、夕食をとりに街に出た。
カルギルは、インド・パキスタンの国境紛争の舞台となった場で、新しいところで1999年に爆撃を受けたことすらあった。今では落ち着いているが、パキスタンとの停戦ラインは街から僅か4km。いつまた国境紛争が起こるか分からない火種は残っているだろう。
そういう場所柄からか、これまでのラダックの街とは違って、仏教色は全く無くイスラムの色が濃厚だ。バススタンドに近い通りには、タルチョではなくインド国旗と同じ配色で中央に手のひらが描かれた旗が幾つもはためいている。
そして何より、騒がしい。
ラダックにチベット文化と癒しを求めてきた私にとって、ここは長居する意味が全く無い。と言うより、すぐにでも離れたい街である。
――決まった、
いつ来るか当ての無いバスを待つより、少々金がかかっても、すぐに出発できるジープ相乗りで、さっさと出発しよう。
アルチ~ラマユル ―トラック・ヒッチ
2011年9月25日
朝7時30分発、と言いながら8時すぎにようやくやって来たレー行きのバスに乗るが、客席は既に一杯だったので、屋根の上に乗って出発する。途中、木の枝が伸びている部分があったりヘアピンカーブがあったりのスリルもあったが、風を切って進む気分は爽快だ。
インダス川に架かる鉄橋を超えて最初に停車した場所で、私はバスを降りた。そして、用意していたスケッチブックを広げる。
I want to go to LAMAYURU
いざ開始。次の目的地・ラマユルに向けてヒッチハイクだ。
初めのうちは、車そのものが殆ど通らず、通ったとしても満員の乗用車ばかりで少し心配になったが、程なくしてトラックが通りかかったので、スケッチブックを大きく広げると停まってくれた。車の中の2人は殆ど英語を話さなかったが、
「LAMAYURU,OK?」
「OK!」
殆どノリと勢いでトラック・ヒッチが実現した。運転手と助手の間に挟まれて、インダスわきの道を下流へ走り始める。
しかし、レー~アルチ間の道がほぼ整備され終わっていたのに対し、アルチ~ラマユル間の道は悪路が多かった。
時には、車1台がようやく通れる程度の橋を渡ることもあり、
時には、すれ違いが無理な場所で前後にうまく退避できる場所を見つけて何とかすれ違う。
道がきちんと整備されていたのは、ヌルラ~カルシ間ぐらいだったのでないか。
カルシから先はインダス川の支流を上る道となり、目もくらむような絶壁の上を走ることになった。
途中、前輪を絶壁の淵から外してしまったトラックや、悲惨なことに谷底に転落してしまった大型車(恐らくトラック)が見える現場も目にした。
さて、私が乗ったトラックだが、次々と他の車に追い抜かれるスローペースぶりだった(トラックだから仕方がないが)。しかもかなりオンボロで、アスファルトで舗装されている道でもガタガタ揺れる程である。しかし、運転手の腕は確かで、道中危なげなく難所も切り抜けてくれた。
そして、11時20分、右手の山の上にに大きなゴンパが見えてきた。ラマユルに到着である。
「Thank you!」
「200ルピーね」
しっかりと請求されたが、ここまで難しい道を乗せてきてくれたので、まあいいだろう。
ところで、実は筆者、ヒッチハイクはこれが初めての体験だった。
車が停まってくれるか不安だったり、道中の悪路にかなりスリリングな思いをさせらられたりもしたが、その不安やスリリングさも含めて実に楽しい経験だった。
レー → アルチ
2011年9月24日
前日、「夜10時まで開いています」と言っていた洗濯屋に9時すぎに行ってみたら、既に閉まっているではないか
[おいおい、出していた洗濯物を受け取らないとレーを離れられないぞ]
一時はこの日朝8時の出発が危ぶまれたが、7時にその洗濯屋がシャッターを開けてくれ、洗濯物を受け取ってどうにか余裕を持ってレーのバスターミナルに行くことができた。
バスターミナルで1人の日本人男性を見かけて声をかけてみたところ、寄り道はしないものの私同様ザンスカールを目指しているという。
「レーからの直行バスが見当たらなくて
」
「カルギルからパドゥム(ザンスカールの中心都市)へのバスも少ないみたいですよ」
カルギルを経由してパドゥムを目指す私にとって、少し不安材料が発生してしまった。
8時発のアルチ行きのミニバスの屋根にしっかりとバックパックを固定して席に着き、午前8時、レーを出発する。
ミニバスの車内
実は、アルチ訪問は2日前に急遽決めたことだった。
事は、パンゴン・ツォからの帰り道の途中で「にゃむしゃんの館」に立ち寄った時の会話に始まる。
「え? まだアルチに行ってないんですか? あそこには絶対行かないと!」
ラダックに来るに当たって殆ど全くと言っていいほど予習をしていなかった私が「アルチってどこ?」的な発言をするや否や、「にゃむしゃんの館」の女主人エツコさんとパンゴン・ツォへ一緒に行った吉田さんが一斉にそう言った。何でも、仏教美術の素晴らしいゴンパがあるという。
そう言われると行かない訳にはいかない。アルチはちょうど、レーからザンスカールへ行く途上にあるのだから、その行程に組み込めばいいだけの話だ。
ということで、アルチに立ち寄ることにした次第である。
アルチは下ラダック、即ち、レーから見てインダス川の下流の地域に属する街だ。バスはインダス川を下っていくコースを取るのでほぼ下りばかりのコースになるかと思いきや、レー空港を離れて暫くするとどんどん砂漠の山を上って行く。やはりラダックほどの山がちな地域となると、コース取りもそう単純にはいかない。
そうこうしているうちに、山道は下りとなり、再びインダス川が見えてくる。幹線道路はそのままインダス川北岸を先の方へ伸びていくが、アルチ行きのバスはここで幹線道路を外れ、鉄橋を渡ってインダス川南岸へと進んでいく。
鉄橋を渡って10分後の10時半、アルチのバス終着点に到着。終着点とは言ってもバスの発着が1日計4回しかない街なのでバスターミナルと言うよりは単なる駐車場のような場所である。
宿は、手持ちのガイド本に「最も安い」と書かれていたLotsava Guesthouseにするが、それでも300ルピーかかった。今回の旅で初のバス・シャワー付きの部屋となったが、お湯はおろか水も殆ど出てこない。窓の外は農村風景だが、下手に窓を開けて外の空気を吸おうとするとハエが何匹も入り込んでくる。ちょっと失敗した。
周囲は前述の通り農村地帯で、牛や羊、ゾなどの家畜の姿が見られる。後でちょっと上手に上った時には、立派なヤクの姿も見ることができた。
「モー」や「メー」のほか、ロバがオットセイかチューバッカのような奇妙な声を上げるのが時折聞こえてくる。
さて、到着したばかりで少し気が早いが、次の目的地への移動方法を考えよう。レー方面なら直行バスが出ているが、私の進む逆方向にはバスが出ていない。どうすればいいのか、バスの終着点と宿で確認したところ、答えは一緒だった。
「鉄橋まで何とかして行って、そこからバスなりトラックなり拾ってください」
“何とかして”というのはつまり――最悪の場合、バスで10分かかった距離を「歩け」ということである。
パンゴン・ツォへの道
2011年9月21日
次の目的地は、パンゴン・ツォである。「ツォ」とはチベット語で「湖」という意味であり、パンゴン・ツォは東ラダックにある東西113kmの巨大な湖である。しかし、今回行けるのはその西の端の方にすぎない(その理由についてはまた別途記述する)。
ティクセから暫く南東に進み、カルという街で進路を北東へと変更する。ここで、1回目のチェックポイント。パスポートとILPと呼ばれるパーミットのコピーを提出する(察しのいい方ならこれだけで目的地がどういう場所だか、お分かりになることだろう)。
チェムレ・ゴンパを横目に通り過ぎ、8時45分ごろ、車は峠道に入る。つづら折の道をずんずん登っていくうちにこれまでは遠目に見上げていた雪山がどんどん間近に迫ってくる。しまいには道の脇に雪が積もるようになってきた。
9時30分。峠道のピークであるチャン・ラ峠に到着。海抜5360mというとてつもない高さの峠だが、こんな高い所でもバスが通っているという。
ここで無料の紅茶を頂いて体を温める。更に、峠に建てられた寺院にもお参りを――しようとしたのだが、参堂がタルチョで飾られていた割には祀られていたのはヒンドゥー教の神々だったので、お参りはやめて見るだけにとどめた。
峠を越えれば後は下るばかりだ。やがて峠道は終わり、その後はひたすら谷あいの道を進む。
暫くして、2回目のチェックポイント。ここではILPの提出のほか、台帳に氏名・国籍・パスポート番号・サインを記入させられる。こういうこと、以前にこの近辺のどこかでやった覚えがある・・・
更に、チェックポイントとは関係ない全く別の場所で通行料10ルピーを支払う。
そして、正午少し前、灰色の砂が川のように横たわる谷の向こうに、真っ青な湖が顔を見せた。
パンゴン・ツォ到着まであと少しである。
乗り合いタクシー
2011年9月17日
さて、チョグラムサルからレーに戻ることにしよう。
初めのうちは、バスで戻ろうとひたすら待っていたが、そのバスがなかなか来ないのである。
よく見ると、地元の人々はバスではなく、ワゴン車を停めては乗り込んでいく。
乗り合いタクシーだった。
彼らの様子を見ているうちに、私も大体要領が分かってきた。不特定多数の人が乗っているとみられるワゴン車に向かって手を挙げ、停まってくれたら乗り込めばいい。
しかも料金は、バスでチョグラムサル―レーを移動すれば20ルピーかかるところを、乗り合いタクシーなら10ルピーで済む。
教訓:
近距離移動なら、バスよりも乗り合いタクシーで
レーのバスターミナル
2011年9月15日
この日は朝から上ラダック(レーから見てインダス川上流域)のゴンパ巡りに出かける。
ラダック内での移動及びマナーリーなど近隣地区への移動はバスが基本となる。レーのバスターミナルは街中から南へ少し外れた坂道の下にある※。バスターミナルと言っても行き先別の看板が出ている訳でもなく、自力で目的地へ向かうバスを探さなければならない。
今回は幸運にも、同じ方向に向かう日本人女性が先に乗っていて、
女性:「どちらへ行かれるのですか?」
私 :「ティクセです」
女性:「あ、このバスですよ!」
という具合にすんなりと見つかってくれた。
近郊へのバスはミニバスとなる。途中の街で客を乗降させながら、幹線道路を比較的ゆったりと進んでいった。
※ちなみにタクシースタンドは、バスターミナルへ向かう坂道を下る前の、大きなゲートとマニ車のある三叉路にある。
いざ ラダックへ
2011年9月11日
朝5時半前に自然と目が覚めたので、そのまま準備して空港へ向かうことにする。
空港へ向かう地下鉄の始発の時間が分からない。それに、まだ疲れが体に残っている。重いバックパックを背負って駅まで行って無駄足だったらまた疲れが増幅されそうに感じられたので、素直に宿の張り紙にあった空港タクシーを利用することにした。
ちなみにそのタクシー料金は、プリペイド(前払い)で250ルピー。昨夜空港で利用した350ルピーのプリペイドタクシーより100ルピーも安い。
――やはり、デリー空港のぼったくりスピリットは生きていた。
昨日のこともあってゆとりを持って出かけたところ、チェックインの時間開始の10分前に到着。ゆとりを持ってチェックインをし、ゆったりと食事をしてゆったりとパソコンを開いて――言うまでもないことだが、やはり時間に余裕があった方が心にも余裕ができる。
午前9時前、GoAir社のレー行きの便が離陸する。上昇していく機体の窓から下界を見ていると、タージ・マハルのようなモスク風の巨大な建造物が大きな川のほとりに見える――いやどう見てもタージなのだが、タージのあるアーグラーはデリーの南でレーはデリーの北である。まさかレー行きの便がアーグラーまで旋回したと言うのだろうか、それともタージとは別の何かだったのだろうか・・・
窓の下はすぐに緑深い山の景色へと変わっていった。と思うとやがて眼下には雪山が広がり、そして雪山の景色も間もなく終わり、眼下の山は土むき出しの褐色へと変わっていった。
間違いない――これが、ラダックの大地だ。
高ぶる気持ちが抑えきれなかった。
40分ほどの間でこうした目まぐるしい景色の変化が起きたかと思うと、9時30分すぎ、降下が始まった。機体が安定高度を保っていたのはコーヒー1杯を飲んでいる間だけだった(ちなみにこのGoAirの機内サービスで出たコーヒーはレギュラーコーヒーではなく、砂糖たっぷりのインスタントコーヒーだった。これが格安航空会社のサービスというものか)
降下は始まった。しかし、滑走路が全く見えてこない。実際のところは降下を始めた時には山陰の死角の先にあって見えなかったのだが、いくら旋廻をしても見えてこない。褐色の地面がどんどん近づいてくる。このまま褐色の地面に胴体着陸か?という冗談まで頭をよぎったが、着陸寸前になってようやくアスファルトで舗装された滑走路の端が窓の外に見え、そのまま無事着陸した。
タラップを降りてバスで到着口へ移動し、預けていたバックパックを受け取ってさあ、空港の外へ――とその前に、外国人はラダック入境手続きをしなければならない。とは言っても入境許可証を発行されるという訳ではなく、インドの入国審査で提出したような規定の用紙に必要事項とサインを記入して提出したらそれでOK、という簡単なものである。
これで空港から出ることができる訳だが、空港から街中へ向かうには迎えが来ているのでなければまたしてもプリペイドタクシーということになる。私は一人旅なので割高になってしまうが――そこは旅を繰り返して身に着いた図々しさを発揮する場面である。近くにいた外国人(オーストラリア人だった)2人組に「タクシーをシェアしませんか?」と申し出たところ、快く受け入れていただけた。街中まで1人だったら210ルピーかかったところを僅か70ルピーで行かせてもらった。
レーの中心街であるメイン・バザールに到着したところで私はタクシーを下りた。運転手に教えられた方向に歩くと、確かに目指すゲストハウスへの道標があった。現地の人にも尋ねながら、無事目指すゲストハウスに到着。一番安い250ルピーの部屋に案内してもらったが、同じ250ルピーでも、昨夜デリーで泊まった宿よりも広々としていて小ざっぱりとしている。それに、窓の外にレー王宮が見えるという景色のよさも私の心を惹き付けた。
決まりだ。
私のラダック巡りは、ここを拠点にいざ始まりだ。
インドへ――取りあえずはデリー着
2011年9月11日
香港発――大騒動の末
2011年9月10日