ダラムサラ(21)~デモ行進
2011年10月14日
午前10時すぎ。中心寺院のツクラカンの入り口に大勢のチベット人たちが集まってきた。ある者はチベット国旗を手にし、ある者は顔写真が印刷されたプラカードを首にぶら下げている。そして、拡声器とチベット国旗を設置したジープが待機している。
プラカードの写真の主は、チベット本土で抗議の焼身自殺をした7人。ここに集まった人々は、その犠牲者の追悼と中国共産党のチベット支配・弾圧への抗議のデモの参加者たちだ。
10時半前、参加者たちが歩き出す。ロウアー・ダラムサラに至る2時間(最後の集会を含む)のデモ行進が始まった。>
下り道とはいえ、狭く、埃の立ちやすい悪路もある厳しい道程だ。日射しも強く暑さとの闘いともなった。
僧侶や若者たちだけではない。女性たちも凛とした声で気勢を上げる。
インド人ギャラリーの多いロウアー・ダラムサラに近づき、シュプレヒコールは更にヒートアップする。
今回のデモの主催者は、チベット難民コミュニティの中でも先鋭的といわれるチベット青年会議(TYC)。シュプレヒコールを上げる気勢も熱い。
11時45分、デモの終着点であるロウアー・ダラムサラの中でも下の方にある広場に到着。その人数は数百人にも上った。
その後も広場で、集会が12時半まで続く。
中には政治犯の扮装をして抗議に参加する人も。
参加者の大部分がチベット人ということもあり、チベット青年会議主催ということもあってか、日本で経験したどんなFree Tibetデモよりも熱かった。これが、チベットの人々の自由を求める熱い思いなのだ。
ただ、余り熱すぎるのもどうかと思う場面も少々あったが・・・
夜には、マクロードガンジでキャンドルを灯してのマーチが行われた。こちらは外国人の参加者も多く、国境を越えて焼身自殺者への哀悼とFree Tibetへの願いをこめて比較的粛々と更新が行われた。
最後はツクラカンに集結。哀悼と自由への希求の炎が幾つも揺らめく中、チベット国歌が歌われた。
ダラムサラ(18)~ルンタ・プロジェクトの写真展示
2011年10月13日
私が泊まっているルンタ・ハウスには政治犯(とは言っても『Free Tibet』をちょっと唱えただけでも政治犯として獄に繋がれているのがチベット本土の現状で、実際は“犯罪者”とは程遠い)などのチベット難民支援を行っているルンタ・プロジェクトのオフィスが入っている。廊下や階段にはチベット問題を訴える写真の数々が展示されているが、3階にある会議室には、それらより遥かに生々しい写真が展示されている。(いずれも写真撮影禁止)
拷問によって見るに堪えないほどの傷を全身に負ったチベット人
中国共産党の侵略・支配に抗議するデモ行進
機関銃を構えた中国共産党軍の兵士
古いところではチベット侵略前のものから、新しいところでは2008年の騒乱の時のものまで展示されている。
中には、1947年にインドで開かれた独立国の会議にチベットが出席している写真もあり、この時点でチベットが独立を維持していた事実をしっかりと示している。
「チベットが悲惨な状況にある」――言葉でそう言ってもなかなかピンとこないこともあるだろうが、これらの写真はその悲惨な状況を言葉以上に雄弁に伝えている。
実際のところ、チベット問題を知らずに来ている外国人もいる(4年前にここに来た時の私も殆どよく知らない状況だった)。そんな方は、ルンタ・ハウスに立ち寄ってこれらの写真をぜひ見て頂ければと思う。
ダラムサラ(8)~祈り
2011年10月 9日
最近、チベット本土で中国共産党の支配・弾圧に対して抗議の焼身自殺をするケースが増えている。自殺はチベット仏教でご法度とされているにもかかわらず、である。ルンタ・プロジェクトの中原氏によると、「チベット人的に言えば『自らの体を灯心にして抗議の火を灯して』いる」とのことらしい。
痛ましい・・・
悲しい・・・
悔しい・・・
抗議するにしても、自らの死を以って行う以外に方法は無いのか?
生き永らえて別の形で抗議を続ける方が或いはより良い方法ではないのか?
逆に言えば、彼らはもうそうでもしなければどうにもならない所まで追い詰められている、ということにもなるのかもしれない。
しかし、“命を懸ける”気持ちは尊重したとしても、私は彼らに死という選択肢を選んでほしくない。
生きて、チベットが自由を勝ち取る瞬間を見届けてほしい。
この日夕方前、2度目のツクラカン参拝に出かけた私は、命を散らせたチベット人たちの冥福と、そんなことが繰り返されなくて済むようなチベットの実現を祈り、静かに仏に祈りを捧げ、マニ車を回すのだった。
ダラムサラ(3)~コルラ道
2011年10月 7日
昼食時、「ルンタ・プロジェクト」の中原一博氏にお会いする。最近チベット本土で続いているチベット人の抗議の焼身自殺という悲しい出来事の話、新たに亡命してくるチベット人の動向、チベット子供村(TCV)のこと、ダラムサラのことなど、貴重なお話を聞かせて頂いた。
その後、中原氏に行き方を教えて頂いたダラムサラの「コルラ道」を歩いてみた。
コルラとは、仏教の聖地を時計回りに巡礼することで、ダラムサラでは中心寺院のツクラカン周りにコルラ道が設けられている。
実は、2007年に旅の途中の予定外の思い付きから予備知識ゼロの状態でダラムサラを訪れた時、私はこのコルラ道の存在を知らずに過ごしてしまっていた。
それから3年経ったある日のことである。
ダラムサラを訪れたばかりの知人にその時の写真を見せてもらった中に、無数のタルチョがたなびく風景を撮ったものがあった。
「これ、どこですか?」
「え、(ダラムサラに行ったことがあるのに)知らないんですか!? コルラ道ですよ!」
――非常に恥ずかしい思いをした。肝心な場所を訪れていなかったようである。
[次にダラムサラを訪れた時には行かないと・・・]
その埋め合わせの時が来たということだ。
ルンタGHから中心街とは逆の方向に急な坂を下り、三叉路のカーブを通過して今度は急な坂を上り、そのまま真っ直ぐ行くとツクラカンに行き着くのだが、その途中にある細道の入り口を進むと、そこがコルラ道だ。
道中には、無数のタルチョ(五色の祈祷旗)と、タルチョ色に文字が色分けされたマニ石(経文や真言等が刻まれた石)を見ることができる。
街中では見られない大型マニ車やチョルテン(仏塔)もある。
そして、その大型マニ車やチョルテンのある場所を過ぎた後のことだった。
タルチョの“海”と言っていいだろう。その“海”に埋め尽くされるように、廟とその左右にチョルテンが建っているではないか。
――出るのは、溜め息ばかりだった。
これでもかと押し寄せてくるチベット仏教の薫りに、私は祈りを捧げずにはいられなかった。
この時、気づいたことがあった。
ダラムサラに“チベットの空気”が希薄であると感じたのは、「借り物の地」「バターの匂いがしない」ということばかりが理由ではなかったのだ。
寺院を除いて、大型マニ車、チョルテンなどといったチベット仏教の施設が街の中心に見当たらないことも大きな原因の一つだったのだ。(タルチョは街中にあることはあるが、そんなに多くもない)
その証拠に、
ここには間違いなく、“チベットの空気”が漂っていた。
ほんの少し、心に少しあいていた穴が埋められた思いだった。
それにしても、前回の訪問でこんな重大な場所を見落としていたとは、恥ずかしい。
もはや、「ダラムサラは2度目」などと大きな顔をして言えない・・・
コルラ道のゴール地点は、朝にも訪れたツクラカンである。
ツクラカンに近づくと、問答をやっている熱気を帯びた声が聞こえてきた。これだけはラダックでもお目にかかることができていなかったので、急いで中に入ろうとしたが、
「ここは出口です」
と門番に押し留められ、入り口に回ってセキュリティチェックを受けてから入場する頃には、問答は終わっていた。
とはいえ、その後のお経の合唱だけは拝見することができた。僧侶だけではなく、俗人、しかも女性も交じって行っているのが他では見たことのない光景だった。
――決めた。
コルラ道とツクラカンは、毎日巡礼しよう。
その後、街中に戻るが、先程のコルラ道で心に飛び込んできたものの余韻が残ったのか、前にダラムサラに対して感じた違和感は少し緩和されたようだった。
※一部写真を後日撮影したものに差し替えています。
ダラムサラ(2)~ダラムサラの“空気”
2011年10月 7日
長距離移動から一夜明けた朝だったが、調子は悪くない。朝一番でダラムサラの中心寺院・ツクラカンを巡礼する。寺院正面には、4年前には無かった屋根が設置されていて、何か圧迫感があって狭苦しくなったように感じられた。
朝の体操?をする僧侶たち
そして、ツクラカン正面に建つ、ダライ・ラマ法王公邸――外遊はまだ先のようなので、今この中に、法皇様がいらっしゃるはずである。
4年前に訪れた時も感じたことだが、ラサのポタラ宮やノルブリンカとは比べ物にならないほど小さく、質素な屋敷である。謙虚でつつましいダライ・ラマ14世でなければ、この格差には到底耐えることができないのではないだろうか。
公邸前には掲示板があり、法皇様のスケジュールが張り出されている。
10月30日 | 大阪 |
11月1~2日 | 高野山 |
11月3日 | 高野山大学 |
11月5日 | 仙台・孝勝寺 |
11月6日 | 仙台・聖和学園、郡山・日本大学 |
ツクラカン拝観の後、街の中心に出てみた。まだ閑散としているが、寺院の周りのマニ車を回す者、ぼちぼち店を開ける人、屋台を開く人、子どもを学校に送る母親などが、1日の営みを始めようとしていた。
開き始めている屋台の1つで、モモを売っていた。朝食にしようと1皿買い求め、お値段10ルピー。
そう言えば、宿の値段もかなり奇麗な部屋が1泊200ルピー、昨夜の夕食もドリンク付きで80ルピーのメニューで美味しく、しっかりと頂くことができた。全般的に、数日前までいたラダックと比べるとかなりコストパフォーマンスがいい。
薄々感じていたのだが、ラダックはやはり物価が高い傾向にあったようだ。
ほんの僅かな時間の散策だったが、私はその短い時間の間で十分に、ダラムサラの空気に妙な違和感を覚えていた。
チベット人が大勢いながら、“チベットの空気”が希薄なのである。
一つには、チベット本土やラダックで感じられた、チベット独特のバターの匂いがしない、ということもあるだろう。
しかし、根本的な原因はもっと深い所にあるように思われた。
ここには、チベット人の大きなコミュニティがある。
しかし、ここは、チベット人の土地なのか?
答えは、“No”である。
ラダックは、ラダッキというチベット人が生まれ育った土地だ。だから、ラダックには“チベットの空気”が感じられた。
チベット本土は、今でこそ中国共産党に侵されているとはいえ、チベット人が生まれ育った土地だ。(私が最後に訪れた2007年時点で)ラサのジョカン周辺あたりにはまだ“チベットの空気”が感じられた。
しかし、ダラムサラはそうではない。
借り物の地・・・
本来ならチベット人が住まなくても済んだはずの地・・・
故郷を離れることを余儀なくされた人々の悲哀が、ダラムサラの空気にはあった。
チベット難民マーケット
2011年9月23日
レーで買ったばかりのお気に入りの帽子を早々と無くしてしまった。日差しの強いラダックで帽子無しというのはかなりきついので、新しく買いに行くことにした。
最初に買った場所であるポログラウンド近くのマーケットに行こうと歩いていると、メイン・バザールの南端から西へ少し行った場所に別のマーケットを見つけた。入り口には
TIBETAN REFUGEE MARKET (チベット難民マーケット)
と書いてある。
よくよく見ると、このあたりにはチベット難民のハンディクラフト・ジュエリー売り場があちこちにある。
マーケットの中に入ってみると、特に変わったところは無い。さまざまな日用品が売られている普通の市場である。しかし、ここではチベット本土から難を逃れてきたチベット人が生計を立てるために働いているのだ。
[決めた、ここで買おう]
仮にもチベット支援を少しばかりやっている身である。自分が買い物をすることがチベット難民のためになるのであれば何よりだ。
その中の1件の店で品定めする。品揃えはそれ程ではないので、デザイン的にベストのものを求めることはせず、ベターなものを選んで購入した。
「お目が高いね。200ルピーだよ」
店の主人が言う。
前にポログラウンド近くのマーケットで買ったものが280ルピーだった。今回のものは200ルピー。同じ品物ではないにしても、80ルピーもお得な値段だ。
これとは別の時間に、手袋も買いに行ったのだが、このとき出された品物の一つが、何と中国製だったのである。チベット難民が中国製の品物を売るとは、何という皮肉だろうか
。
手袋を売ってくれたおばさんが、やたら「Tibet」という言葉を繰り返している。祖国が恋しいのだろうか。
ふと、私はカバンの中に忍ばせていた「Tibet will be Free !」と書かれたバッジのことを思い出し、それを出しておばさんに見せた。すると、おばさんはとても嬉しそうにそのバッジを手にしてしげしげと眺めていた。
「I also hope Tibet will be free !」
私はおばさんに、強い言葉でそう言った。
レーに来る皆さんにお願いがあります。
チベット難民の皆さんのために、レーで日用品を買う時はぜひ、チベット難民マーケットをご利用下さい。