バス憧れの大地へ

世界への旅(旅行記)

ラダック、北インド(2011年)

ダラムサラ」の記事

ダラムサラ―デリー

2011年10月16日

ダラムサラから夜を徹してインドの首都デリーへと向かうバスは、VOLVOバスとデラックスバスの2種類があった。私はエアコンが無く、リクライニングも並であるランクが下のデラックスバスを選んだが、これで十分。この時期はエアコン無しでも車内の室温はちょうどよく、リクライニングも浅すぎることなくちょうどいい塩梅だった。尻だけはちょっと痛くなったが、そんなにクッションが利いていない訳でもない。

午前6時すぎ。バスはデリーのチベット難民キャンプがあるマジュヌカティラに到着。他の外国人3人でメインバザールまでオートリキシャを相乗りする。しかし、インドのリキシャワラーはタチが悪い。メインバザール手前の場所にある、つるんでいると思われるホテルの前に泊まって、「さあ、こちらのホテルにどうぞ」とくる。しかし、甘く見てはいけない。私と更にもう1人、既にメインバザールを知っている乗客がいたのである。
「ここメインバザールちゃうやろ!」(勿論英語で言ったのだが、なぜかここでは関西弁で書いてみた)
と言うと、リキシャワラーは笑ってごまかしながら、最終的にはメインバザールまできちんと行った。

リキシャが停まった所のちょうど近くに、宿の候補と考えていたAjay Guest Houseがあったのでまずは行ってみたが、エアコン無しでも500ルピーと少々高い。向かいのHare Rama Guest Houseのフロントを覗いてみると「エアコン無し300ルピー」となっている。部屋もそんなに悪くなかったので、こちらに泊まることにした。

さて、帰国の途に就く前に、もう1か所、今回行っておきたい場所があった。ブッダ入滅の地・クシナガルである。前回のインド・ネパール訪問で、生誕の地・ルンビニ、苦行の地・ラージギル、悟りの地・ブッダガヤ、初説法の地・サールナートには既に行っていたのだが、どういう訳か入滅の地だけ行きそびれていた。今回のインド訪問でどうしてもその穴を埋めたかったのである。
列車でゴラクプルまで行ってそこからバスでアクセスするのが便利そうだったので、ニューデリー駅に行って切符を買いに行くか。と、それよりも、予想通りの展開ではあったが、日本でとった復路の日付が変更可能な航空券の予定日よりもやはり早めの帰国となりそうだ。こちらの変更手続きを先にやっておくか。

そこで、コンノート・プレイスにあるジェットエアウェイズのオフィスに向かったが、どうやら元あった場所から移転した模様。同じコンノートプレイスのGブロックに移ったと聞いたのでGブロックに行ってみたが――はてどこだろう。
あ、「ツーリストインフォメーション」の看板がある。あそこで聞いてみよう。

ところが、場所を聞くつもりだっただけのそのツーリストインフォメーション――ではなく、DELHI TOURSという旅行社だった――で、結局日付変更の手続きをすることになった。よく考えたらこの日は日曜日。航空会社のオフィスも今日はCloseなのだ。それならここでやってしまった方がいいだろう。
ところで、私がとった航空券は純然たるオープンチケットではなく、「復路のみ、空席があれば、目的地以降1回のみ無料で変更可。経路変更は不可。 *現地で変更事務手数料が別途かかる場合があります。」というものだった。その「現地で変更事務手数料」というのが曲者で、これに結構な値段がかかってしまった。

そして、クシナガル行きも、ニューデリー駅の外国人専用チケットオフィスが日曜で閉まっているらしいこと、現在インド全体でフェスティバルが行われていて列車のチケットが手に入りにくいとのこと、ゴラクプルからラージギルのバスが予想以上に少ないようであることなどから、こちらでお世話になる流れになってしまった。
最初は行きも帰りもゴラクプル経由で行く方向で話を進めていたのだが、
「クシナガルなら、バラナシから車でアクセスする方がいいですよ。途中に他の仏教遺跡もありますし」
と、日本語の達者なベテラン職員が横から入ってきた。
そういうことなら、デリーから夜行列車でバラナシに行って、翌朝到着したら車でクシナガルへ・・・

待て待て待て。
バラナシに行くなら、素通りはしたくないぞ!

ということで、
 1日目 デリー―(夜行列車)→
 2日目 →バラナシ(1泊)
 3日目 バラナシ→クシナガル(1泊)
 4日目 クシナガル→ゴラクプル―(夜行列車)→
 5日目 →デリー、市内観光
という日程になった。

さて、お値段は・・・
先程のベテラン職員が電卓をたたく。
「3万5000」
「え!? 3万5000ルピー?」
「違う違う。3万5千円」
何だ、日本円か。それにしても高いな・・・
どうやら、バラナシ→クシナガル→ゴラクプルの車代が高くつくらしい。

その後、車や列車をエアコン無しにしたり、5日目の市内観光を無しにしたりで「ラストプライス」2万円まで引き下がった。

どうしようか・・・

2万円でも、自力で行くことを想定して考えていた値段よりも高い。しかし、ここまで引き下げることができたのだし、やはりクシナガルには行きたい。列車の切符の取りにくさを考えると・・・

よし。
これで行こう!

帰国日こそ日曜が明けた翌日にならないと決まらないが、これで取りあえず今回の旅の最終段階の日程が固まった。

ダラムサラ最後の日

2011年10月15日

昨日のマーチを見てチベット人の自由を希求する強い意志を垣間見たことで、ダラムサラでの見聞にひとまず区切りがついたと感じた。1週間の予定が9日間となり、まだ滞在したい気持ちは強いがこのへんが潮時だろう。
今日でダラムサラを後にし、旅の終わりのカウントダウンを始めることにした。

2度目のダラムサラは、初回に見過ごした(と言うか、初回は見過ごしだらけのスカスカの訪問だった)場所も訪れることができ、実りある訪問だったように思う。

コルラ道(リンコル)
マクロードガンジの街中に仏教色が少ない分、ここを毎朝巡礼することで存分に仏教に触れることができた。

チベット子供村(TCV)
上から眺めることしかできなかったが、明るく元気に活動する子どもたちの姿に彼らの未来に一筋の光を感じると同時に、彼らが抱える「悲しみ」を直感的にではあるが心の底から悲しいと初めて感じることができた。

ノルブリンカ
こちらでも、チベット文化の継承に光を見ることができた一方で、こうした文化継承の活動は彼らの故郷で行われてこそ意味があるのだということをあらためて痛感した。

タンカ購入
仏教についてはまだまだ初心者ではあるが、タンカを購入したということ自体が仏教に対する関心が強まっていることの証拠ではないかという気がする。タンカ絵師の女性に絵の解説をしてもらったことも、仏教の知識を積み上げることの一助になったことは間違いない。

チベット人との会話
少しは話ができたが、TCVの時と同様、彼らの背景の深い所にまで立ち入ることにはまだ抵抗感を拭い去ることはできなかった。「ここ(ダラムサラ)で生まれたのですか? チベットから来たのですか?」ということを尋ねて彼らの背景を想像するにとどまった。
「なぜチベットからここへ?」――「自由を求めて」
「チベットからここにはどうやって?」――「ヒマラヤを越えて」
聞くまでもないことだったので敢えて尋ねなかったということもある。しかし、私にはまだそこから先の深い所に踏み入る覚悟と図太さができていなかったようだ。
新しく知ったことといえば、タンカ絵師の話からチベット難民の生活の厳しさ、亡命先で働くことの難しさ、ということだろうか。彼女が口癖のように繰り返す「大変なのよね」というフレーズが、チベット難民の置かれている困難な状況を物語っていたような気がする。

自由への意志
最初に書いたように、初めてチベット人によるチベット人の抗議デモを目にしたことで、主催団体がチベット難民社会で“熱い”部類であることを差し引いても、チベット人の自由・人権を求める強い意志を肌で感じることができたのも大きな経験だった。


一つだけ、前回の訪問でなし得て、今回の訪問でなし得なかったことがあった。
ダライ・ラマ法王のご尊顔を拝することができなかったことである。
しかし、前回はティーチングに参加したものの今回はタイミング的に参加は難しいであろうことは最初から分かっていた。ご多忙の身なので余程の幸運でもない限りそれ以外の機会を得るのは難しいだろう。
まあ、帰国後に日本での講演に駆けつける予定でいるので、それだけで十分としよう。


午後6時には、ここを出発することになる。
最後に、もう一度ダラムサラの街中を散歩してみた。
ツクラカンでは、僧侶たちが手を打ち鳴らしながら問答をする中、人々が穏やかに巡礼し、マクロードガンジでは車やバイクの音はやかましいものの、人々の息づかいはゆったりとしている。

またいつか、来ることはあるだろう。
前回立ち去る時と同じ願いになってしまうのが悲しいが、その時には、チベットの状況が改善されて、人々に本当の笑顔が戻りますように・・・

タンカのその後

2011年10月14日

ダラムサラの露店で買ったタンカ(仏画)の件だが、知人からこのブログのコメントで表装を進められた。
どうしようかと考えた挙句・・・

2つあるうちの片方だけ表装してもらった。
値段は400ルピーと、日本でやった場合を考えると恐ろしいほど安く済んだのだが、バックパックの容量が限界に近く、これ以上荷物を増やしたくなかったので小さい方の片方だけにした。

こうして、サキャムニ・ブッダのタンカが鮮やかに彩られた。
表装したタンカ

うん。ありがたさ倍増だ。

ダラムサラ(21)~デモ行進

2011年10月14日

午前10時すぎ。中心寺院のツクラカンの入り口に大勢のチベット人たちが集まってきた。ある者はチベット国旗を手にし、ある者は顔写真が印刷されたプラカードを首にぶら下げている。そして、拡声器とチベット国旗を設置したジープが待機している。
ツクラカンの入り口に集まったデモ参加者
プラカードの写真の主は、チベット本土で抗議の焼身自殺をした7人。ここに集まった人々は、その犠牲者の追悼と中国共産党のチベット支配・弾圧への抗議のデモの参加者たちだ。

10時半前、参加者たちが歩き出す。ロウアー・ダラムサラに至る2時間(最後の集会を含む)のデモ行進が始まった。>
抗議デモ

下り道とはいえ、狭く、埃の立ちやすい悪路もある厳しい道程だ。日射しも強く暑さとの闘いともなった。
抗議デモ

僧侶や若者たちだけではない。女性たちも凛とした声で気勢を上げる。
抗議デモ

インド人ギャラリーの多いロウアー・ダラムサラに近づき、シュプレヒコールは更にヒートアップする。

今回のデモの主催者は、チベット難民コミュニティの中でも先鋭的といわれるチベット青年会議(TYC)。シュプレヒコールを上げる気勢も熱い。

11時45分、デモの終着点であるロウアー・ダラムサラの中でも下の方にある広場に到着。その人数は数百人にも上った。
その後も広場で、集会が12時半まで続く。
抗議デモ

中には政治犯の扮装をして抗議に参加する人も。
抗議デモ

参加者の大部分がチベット人ということもあり、チベット青年会議主催ということもあってか、日本で経験したどんなFree Tibetデモよりも熱かった。これが、チベットの人々の自由を求める熱い思いなのだ。
ただ、余り熱すぎるのもどうかと思う場面も少々あったが・・・

夜には、マクロードガンジでキャンドルを灯してのマーチが行われた。こちらは外国人の参加者も多く、国境を越えて焼身自殺者への哀悼とFree Tibetへの願いをこめて比較的粛々と更新が行われた。
キャンドルマーチ

最後はツクラカンに集結。哀悼と自由への希求の炎が幾つも揺らめく中、チベット国歌が歌われた。
キャンドルマーチ

ダラムサラ(20)~マクロードガンジ中心部の寺院

2011年10月13日

またしてもマクロードガンジ広場近くの話だが、南へ延びる2つの道に挟まれて、規模は小さいが金色のまばゆい存在感のある寺院が建っている。
マクロードガンジ中心部の寺院
私はいつもこの寺院の東側の道を歩くことが多いのだが、この日西側の道を歩いていたら・・・

扉が開いている。

これまで全く気づかなかった。この扉、開いていたのか・・・
中には誰もいないが、どうやら入っても構わないようだったので入ってみた。

――知らなかった。

この寺院の内部にこんな立派なチョルテン(仏塔)があったなんて・・・
マクロードガンジ中心部の寺院内部のチョルテン

最上階にこんなに立派な仏像があったなんて・・・
マクロードガンジ中心部の寺院の仏像

ちょっと1階に戻るが、大マニ車が設置されている部屋の壁には無数の小仏像が安置されている。
無数の小仏像

再び最上階。マクロードガンジを見下ろしてみる。
中心部の寺院から見下ろしたマクロードガンジ

前回も含めて滞在期間はそう長くないので当たり前のことだが、まだまだダラムサラには「初めて知った」がたくさんありそうである。

ダラムサラ(19)~モモカフェでツァンパ粥

2011年10月13日

マクロードガンジの広場から東へ入り、左側の坂を上ってすぐの所に、モモカフェという小さなチベット料理レストランがある。壁に描かれている招き猫の絵と「おいしいモモを召しあがれ」という日本語が日本人にはいい目印。誰が作ったのか、メニューにも丁寧な日本語が書かれている。
モモカフェ

昼前に近くで用事があった帰りに、食事をしようと寄ってみた。中にはちょうど食事を済ませた顔見知りの日本人もいる。やはり壁やメニューの日本語効果か、日本人にも人気がある。

「何を食べようかな?」
とメニューを見ると、「ツァンパ粥」(メニューの日本語は別の書き方がされていた)あるではないか。
ツァンパとは、炒った大麦を粉にしたもので、チベットの代表的な主食だ。きな粉やはったい粉をイメージしてもらえればいいかと思う。
今回ラダック、ダラムサラとチベット文化圏を回りながらなぜかこの主食・オブ・チベットのツァンパを食する機会には恵まれていなかった。レストランのメニューとしてツァンパを出している所が無かったのである。

[決 ま り だ]

私は迷わず、牛乳とバターを使ったツァンパ粥を注文した。

で、出てきたのが↓これ↓
ツァンパ粥
どんぶりから溢れんばかりのツァンパ粥。表面には黄色いバターが泳いでいる。

では、いただきます。

ツァンパはよくバター茶と混ぜてこねてペースト状にして食べられる。やはりツァンパにはバターとの組み合わせがベストマッチ。今回食べた粥もバター入りで、ツァンパの甘さとバターの塩辛さが絶妙だ。

しかし・・・
食べたことのある人ならお分かりかと思うが、

ツァンパは異様なくらい腹がふくれるのだ。

どんぶり一杯のツァンパ粥――1人で完食できる代物ではない。
大勢で行った時にサイドメニューとして1杯だけ注文するというのがちょうどいいかもしれない。

ダラムサラ(18)~ルンタ・プロジェクトの写真展示

2011年10月13日

私が泊まっているルンタ・ハウスには政治犯(とは言っても『Free Tibet』をちょっと唱えただけでも政治犯として獄に繋がれているのがチベット本土の現状で、実際は“犯罪者”とは程遠い)などのチベット難民支援を行っているルンタ・プロジェクトのオフィスが入っている。廊下や階段にはチベット問題を訴える写真の数々が展示されているが、3階にある会議室には、それらより遥かに生々しい写真が展示されている。(いずれも写真撮影禁止)

 拷問によって見るに堪えないほどの傷を全身に負ったチベット人
 中国共産党の侵略・支配に抗議するデモ行進
 機関銃を構えた中国共産党軍の兵士

古いところではチベット侵略前のものから、新しいところでは2008年の騒乱の時のものまで展示されている。
中には、1947年にインドで開かれた独立国の会議にチベットが出席している写真もあり、この時点でチベットが独立を維持していた事実をしっかりと示している。

「チベットが悲惨な状況にある」――言葉でそう言ってもなかなかピンとこないこともあるだろうが、これらの写真はその悲惨な状況を言葉以上に雄弁に伝えている。

実際のところ、チベット問題を知らずに来ている外国人もいる(4年前にここに来た時の私も殆どよく知らない状況だった)。そんな方は、ルンタ・ハウスに立ち寄ってこれらの写真をぜひ見て頂ければと思う。

ダラムサラ(17)~ノルブリンカ

2011年10月12日

ガンチェン・キションに続いて、次はノルブリンカを目指す。ノルブリンカと言ってもチベット本土のラサにあるようなダライ・ラマ法王の離宮ではなく、チベット芸術の未来を担う若者らが修業・創作にいそしんでいる施設である。

ルンタ・レストランの貸本の中にあったガイド本の地図によると「ロウアー・ダラムサラから2km」と書いてあるので、それなら下りの行きだけでも徒歩で行けるかな、と考え、引き続きガンチェン・キションから歩いて取りあえずはチベットの雰囲気のかけらもないインド一色のロウアー・ダラムサラまで下った。
ところが、そのガイド本の地図がノルブリンカまでは載っておらず、バスターミナルを下った先の分かれ道で「はて、どちらの道か?」と方向が分からなくなってしまった。ここで歩いて行くのは諦め、渋々タクシー(180ルピーかかった。マナーリー~ダラムサラのバス運賃が280ルピーだったことを考えると余りに高すぎる)で目的地まで向かった。
――歩くのを諦めて正解だった。
何が「ロウアー・ダラムサラから2km」だ。タクシーでも軽く10分はかかる距離だった。

幹線道路からも外れ、細道を奥まで延々と進み、やっとのことで目的地に到着。入り口をくぐると、係員がガイドを申し出てきた。ガイドは無料なので、必ず案内してもらうこと。

門の先にはまず、中庭が広がっていた。タルチョ(五色の祈祷旗)あり、チョルテンあり、清流あり、竹の整った植え込みありで、実にさわやかな印象を受ける。
ノルブリンカの中庭
「ここは、日本人が設計したのです。Mr.Nakahara・・・」
何と、ルンタ・プロジェクトの中原一博氏の手によるものだった。

そして、ここに来た一番の目的である工房へと案内してもらう。

ジャンル別に分かれた幾つもの工房で、若者たちが真剣な目で創作に挑んでいる。

タンカを描く者
タンカを描く者

パッチワークのような布タンカを制作する者
パッチワークのような布タンカを制作する者

木彫をする者
木彫をする者

金細工を作る者
金細工を作る者

チベットの先人たちが積み上げてきた伝統に傷をつけないように継承するため、皆精進に励んでいる。

一番奥にはゴンパもあり(但し、僧侶はいない)、中には金色の大仏が安置されている。
ノルブリンカのゴンパ
「こちらで瞑想をしていってください」
と、ガイド氏から座布団を手渡された。瞑想のために座布団となれば、日本人としては当然、

――座禅

暫くの間、座禅で心を穏やかにした。

工房のほか、人形博物館もあり、チベットの文化などを人形を使ったジオラマ(と言ったら大げさかもしれないが)で表現している。こちらだけ有料で、参観料20ルピー。

最後はショップに案内されて参観終了。そのショップの方は家具やら高級そうな衣服やらで私には無縁の世界。すぐに外に出て、再び中庭の風景を楽しみながら退場する。

帰り道は、行きにタクシーで180ルピーも使ってしまったことが悔しくてならず、幹線道路まで歩いてバスを拾い、ロウアー・ダラムサラのバスターミナル手前で乗り合いジープに乗り換えてマクロードガンジに戻る。帰りのマクロードガンジまでの交通費は15ルピー。行きのロウアー・ダラムサラ~ノルブリンカ間の僅か12分の1の料金でほぼ全行程を行くことができたのだ。

ノルブリンカは、今回のダラムサラ訪問で一番見応えがあり、印象に残る場所だった。
これだけ多くの人々が、これだけ真剣に伝統芸に打ち込んでいるのであれば、チベット芸術の継承は今後も安泰だろう。
しかし――それが彼らの故郷ではなく、亡命先でないと実現できないというのが、やはり悲しい。チベット文化は、故郷であるチベットで継承されてこそ初めて、チベット文化たり得るのだから・・・

ダラムサラ(16)~チベット亡命政府、図書館

2011年10月12日

マクロードガンジ南側からロウアー・ダラムサラに下る道の途中に、チベット亡命政府の各官庁が集まるガンチェン・キションチベット図書館がある。日本で言えば霞が関に相当する場所と言えるが、各官庁の建物はアパートと見まがうほど小さく、霞が関とは随分雰囲気が違う。
チベット亡命政府は、公式には国際社会に認められていないものの、今のところチベット人による唯一の正統な政府機関である。ここで、先日首相に選任されたセンゲ氏を中心に役人たちがチベット難民のために、そして世界に「Free Tibet」を訴えるために日夜働いているのである。
ガンチェン・キションの広場
ガンチェン・キションの広場

ダライ・ラマ公邸や中心寺院のツクラカンのあるマクロードガンジからこんなに離れた場所に官庁を建てるというのは、「政教分離」を考えてのことなのかもしれない。

その一角にあるチベット図書館は、蔵書を管理すると同時に、世界各地から留学生らが集まってチベット文化を学ぶ場にもなっている。
チベット図書館
チベット仏教の文物も一部管理しているようで、館内の一角には博物館もあって公開されている。スペースは狭いが、仏像やタンカ(仏画)など優れた文物が展示されている。中でも、展示室中央に展示されている2つの立体曼荼羅は必見。

この一帯で活動する人々の祈りの場として建てられたのか、近くにはネチュン・ゴンパという僧院もある。昨日訪れたチェチョリン・ゴンパなどと同様、赤・白・黄を基調とした伝統的な薫りのある正統派?ゴンパである。
ネチュン・ゴンパ

更に、ガンチェン・キションから幹線道路を少し下った所には、チベット医学の中心地であるメンツィカンもある。
メンツィカン

これらの施設で活動している人々の努力が、チベット難民の生活の改善、チベット文化の継承、ひいてはチベットの自由化という形で結実することを切に願う。


ちなみに、私はネチュン・ゴンパの屋根が見えた時点で斜面の細道を歩いて下ったのだが・・・
もう少し幹線道路を先に進んでいれば、こんな立派な入り口があり、整備された道を辿って行くことができたのだった。
ガンチェン・キション入り口

ダラムサラ(15)~マクロードガンジを一望

2011年10月11日

チベット子供村(TCV)への道の途中で、マクロードガンジを一望することができた。
マクロードガンジを一望
・左端(北側)に見えるのがマクロードガンジのバスステーション
・下に見えるのが、本日訪れたチェチョリン・ゴンパ
・右端(南側)に見える4つの三角屋根がツクラカン

町並みは、手前に見えるのと同じ位の幅のものが山の向こうにもあるだけ。
こうして見ると、かなり南北に細長い街であることが分かる。

4年前にも感じたことだが、このように山のてっぺんに造られた街を見ていると、チベット難民が“僻地に追いやられた”といううがった印象をどうしても受けてしまう。

ダラムサラ(14)~チベット子供村(TCV)

2011年10月11日

今回のダラムサラ訪問で、一番訪れたいと思っていた場所がチベット子供村TCV)だった。チベット難民の子どもたちが学ぶ寄宿制の学校である。

マクロードガンジの広場からタクシースタンドの先に続く割と平坦な道を(私の歩く速度で)30分ほど歩いたところで分かれ道を右に曲がって更に10分ほど進むと、ダリ湖という小さくて汚い池に突き当たる。そこを右に曲がってすぐの場所に、TCVの入り口はある。
「事前の許可なき者の訪問を禁ず」という、この日別の場所で見たようないかめしい看板がまたしてもあったが、「撮影は許可がいるけれど、ふらりと行っても中には入れる」という話を事前に聞いていた通り、特に守衛や門番がいる訳でもなく、すんなりと中に入ることができた。

寄宿舎の間を抜けると高台があり、そこからは校舎と校庭を見渡すことができた。

私がTCVを訪れたのは、30分間。その30分の間――私はただ、その高台からの眺めを見渡すことしかしなかった。否、そうすることしかできなかったのである。
そこから先に深入りすることがはばかられるような気がしたのだ。

校庭では、男女とも青いズボン、青の細かいチェックのシャツに緑のベストという制服を着た子どもたちが、普通に活動をしていた。
しかし、普通に見えるその子どもたちは、故郷であるチベット本土からヒマラヤを越えるという過酷な旅を経てここまで来た、もしくは故郷であるチベット本土を知らない、そんな背景を持った子どもたちばかりなのである。

そんなことは、既によく知っていた。

しかし、こうして実際にTCVにいる子どもたちを見ていると、そうした背景を初めて心の底から「悲しいこと」と感じるに至った。

そんな気持ちになってしまっては、ずかずかと土足で入り込む気持ちにはとてもなれない。
先生の笛に促されて子どもたちが校庭を後にする。授業は終わっている時間だったので、寄宿舎に戻って行ったのだろう。
その様子を見届けた後、私もTCVを後にした。

ただ「眺めるだけ」の訪問になってしまったが、子どもたちが背負っているものが「悲しいもの」であることが本当に分かっただけでも、来た価値はあったと言っていいだろう。

※撮影許可を頂いて行った訳ではないので、当然写真は無し。

ダラムサラ(13)~ダラムサラのゴンパ

2011年10月11日

ダラムサラの寺院は、中心寺院であるツクラカンも含め、ラダックで見てきたような伝統的なチベット建築ではなく、どちらかと言えば現代的な様式で色合いも黄色もしくは金色と白を基調としていて、少し違和感を抱いていた。しかし、ダラムサラにも赤・白・金色を基調とした伝統的な色彩の強いゴンパがあった。

一つは、チェチョリン・ゴンパ。マクロードガンジ西側の斜面にへばりつくように建っていて、広場から一番西側の細い道を下った先にある急な階段を下りてアクセスすることになる。
チェチョリン・ゴンパ
配布されていたパンフレットによると、元々はチベット本土のラサ南にあるディップという村にあったゴンパだが、中国共産党の大弾圧で破壊の憂き目に遭う。しかし、生き延びた僧侶の教えを受けた弟子が亡命に成功し、1984~1986年にかけてこの地に同名のゴンパを建てたという。
ゴンパの入り口には「僧侶の許可なき訪問を禁ず」などと書いたいかめしい看板が掲げられていたが、通りかかった僧侶がまず「どうぞご自由にお歩きください」とにこやかに言ってくれ、更に門前では管理者の?インド人が「どうぞお中へ。建物も、中も撮影してくださって結構です」とまで言ってくれた。看板とは裏腹に、結構オープンなゴンパだった。
内部はラダックで見てきたゴンパと違わぬ雰囲気で、薄暗い中に幾つもの像やダライ・ラマ14世のお写真が安置され、僧侶たちが読経に勤しんでいた。
チェチョリン・ゴンパ内部
許可を頂いたので心置きなく撮影

もう一つは、パグスの滝に向かう道の最初の左カーブの丘の上のにあるジルノン・カギェリン・ゴンパ(Zilnon Kagyeling Nyingmapa Gompa)だ。
ジルノン・カビェリン・ゴンパ
こちらは資料不足で詳しいことが分からないのだが、どうやらニンマ派のゴンパらしい。

いずれも新しいゴンパではあるが、ダラムサラで伝統的な様式のゴンパを見たい方は、これらを訪れてみてはいかが?

ダラムサラ(12)~新しい靴

2011年10月11日

日本から履いてきた古いスニーカーが、とうとう限界に来てしまった。あちこち破れているのはバックパッカーの旅をしている限りにおいては全く構わないのだが、つま先の底がかなり磨り減って岩場などでたまに足を滑らせそうになることが増えてきたのである。
実は、元々旅先で買い換えるつもりでわざわざ古い靴を履いてきたのだ。日本で買えば1万円前後する同じクラスのスニーカーが、例えばここダラムサラでは大体1500ルピー(約3000円)で買うことができる。買い物をするなら、物価の安い国に限る、という訳だ。(ここでは単純に日本円に換算して思考)

ということで、買ったのが、↓コレ↓。
新しい靴
品揃えが決して多くないダラムサラで、色、デザイン、軽さ、サイズ、全て申し分の無いものを買うことができた。これで値段は1500ルピーなのだから、かなりのお買い得だ。

一つ残念だったのが、条件を満たす靴がインド人経営の店でしか見つからず、本当はチベット難民のやっている店で買いたかったのにそれができなかったことだ。

<教訓>
旅に出る時、殊に身に着けるものは新品を持って行ってはいけない。
使い古したものを持って行って、使えなくなったら現地で安く買い換えよう。

ダラムサラ(11)~不殺生

2011年10月11日

すっかり毎日の日課になった朝のコルラ道巡礼。この日はいつもよりほんの少しだけ早めに出かけたのだが、その分いつもより多くの巡礼者を目にすることができた。

前々から、路上の何かを拾って道端に移すような動作をしている巡礼者が時折いるのが目に付いていて「ごみ拾いをしているのかな?」などと考えていた。
しかし、この日よく見てみると、拾っているのはごみではない。

ミミズだった。

巡礼者に踏みつけられて死んでしまわないように、人が通らない道端に移しているに相違ない。チベット仏教の根底に流れる「不殺生」の精神とはそういうものである。
ミミズを助ける僧侶
少し分かりにくいが、僧侶が指を延ばしている先に丸まった小さなミミズがいる

道端に移す時も、放り投げるのではく、いたわるようにしてそっと置いている。

映画『Seven Years in Tibet』の中に、建築現場の土の中からミミズが出てきて「このミミズの前世は私の母親かもしれない」などと言ってチベット人の作業の手が止まってしまうシーンがあった。初めて見た時には「そんな大袈裟な」と思ったものだが、こうして実際にミミズを助ける現場を見ると、あながち大袈裟な話でもないのかもしれない。

ダラムサラ(10)~タンカを描く人-2

2011年10月10日

昨日購入を見送ったタンカ(仏画)・・・

買いました。

しかも2枚
1枚は500ルピー、もう1枚は800ルピーのところを700ルピーにしてもらって。
「1ルピー=10円という感覚」と考えてしまうと確かに高いが、日本円にして約2500円と考えると決してびっくりするほど高い買い物ではなかったのだ。

昨日と同じ露店で、最初に選んだのは、サキャムニ・ブッダを描いたもので、次に選んだのはカーラクチャ・曼荼羅を描いたもの。いずれも緻密な描画で、技術の高さと集中力と根気が必要なものだということが一目で分かる。
(写真でお見せしたいところだが、せっかく型崩れしないようにビニールパイプで厳重にパッケージしてもらったので今は開ける気にならない)

品定めの最中、絵師のミチュさん(女性、恐らく20代後半ぐらいのの奥様)は熱心に絵の解説をしてくれる。ビジュアル的に分かり易いものは理解できたが、仏教の深い話になってくると、日本語でも理解できるかどうか怪しいのに英語となると尚更、だった。

買い物が終わった後も、明るくておしゃべり好きなミチュさんとの会話が弾む。
彼女はネパール生まれの難民三世。夫婦そろってタンカ絵師で、この道18年と若いながらもかなりのキャリアを積んでいる。親戚がチベット本土のラサにいるらしいが、彼女自身はラサは勿論、チベットそのものを見たことがない。
「じゃ、以前行ったときに撮ったラサの写真を送りましょうか?」
そう言うと、彼女は嬉しそうに目を輝かせていた。

生まれたネパールのこと、絵の勉強のことなど色々話したが、最後の方になるとちょっと経済面での愚痴がこぼれてきた。

「露店を開くにしても、警察に場所代を払わなきゃならないの。警察キライ」
「お店(露店とは別の、6畳程度の小さな小屋)の家賃は月5800ルピーもするし、その他にも、電気代に、水道代に、牛乳代に、テレビの受信料に、子どもの教育費に、絵の勉強に必要なお金に――お金は必要なのに、ここ(ダラムサラ)にはビジネスが無いのよね」
「このショール、ネパール産なんだけど、ここで買うとネパールで買う値段の倍以上するの。だから、時々ネパールに行って買い物をするのよ」

チベット難民の生活は、思っていた以上に経済面のやりくりが大変なようだ。ほんのちょっと無理してでもタンカを買ってよかったな、と思った。

旦那さんが作業しているお店にお邪魔してチャイをごちそうになり、そろそろ街に戻ろうか、という時、ミチュさんが尋ねてきた。
「ダラムサラには、いつまで?」
「うーん、あと3日、4日、いや5日ぐらいはいるかな?」
「明日は来れます?」
「何とも言えないけど――時間があれば」
「じゃ、時間があったらまた来てください。またおしゃべりしましょ」

ダラムサラに、素敵な友達ができたようである。
ミチュさんの露店

ダラムサラ(9)~日本人長期滞在者

2011年10月10日

ルンタGHの屋上で洗濯物の乾き具合を見ていると、下のレストランのオープンスペースに先日知り合った日本人夫婦の姿を発見。下りて合流した。
その後も、1人、また1人と日本人がやって来て、気がつけば6人。これだけ多くの日本人と話をするのは今回の旅で初めてだ。

その中には、月単位で滞在している人もいた。ダラムサラをテーマに映像を撮ろうとしているフリーの映像関係者、タンカを学ぼうとしている人と、その目的はさまざまだ。
今回集まった者以外にも、ダラムサラに長期滞在している日本人は少なくない。現地のNGOを運営して難民をサポートしている人、現地の人と結婚して店を切り盛りしている人、チベット文化やチベット語を学んでいる人、僧侶として仏教に帰依している人――本当に、色々な目的で現地の人々と苦楽を共にしている。

こうした人々の努力が、チベット文化を、チベット難民を支えていると考えると、日本人として誇らしくも思えてくる。彼らの努力がチベットにとって、チベット難民の人々にとって、良い方向に結実することを願ってやまない。


話はそれるが、この時会話をした日本人女性たちによると、チベット人の男性は女性に対してすぐ口説いたりと結構手が早いそうな。何と、お坊さんでも油断は禁物だという。
チベット人はシャイにも見えるので少々意外にも思えるが――ダラムサラに来る女性の皆さん、一応は注意しておいた方がいいかもしれない。

ダラムサラ(8)~祈り

2011年10月 9日

最近、チベット本土で中国共産党の支配・弾圧に対して抗議の焼身自殺をするケースが増えている。自殺はチベット仏教でご法度とされているにもかかわらず、である。ルンタ・プロジェクトの中原氏によると、「チベット人的に言えば『自らの体を灯心にして抗議の火を灯して』いる」とのことらしい。

痛ましい・・・
悲しい・・・
悔しい・・・

抗議するにしても、自らの死を以って行う以外に方法は無いのか?
生き永らえて別の形で抗議を続ける方が或いはより良い方法ではないのか?

逆に言えば、彼らはもうそうでもしなければどうにもならない所まで追い詰められている、ということにもなるのかもしれない。

しかし、“命を懸ける”気持ちは尊重したとしても、私は彼らに死という選択肢を選んでほしくない。
生きて、チベットが自由を勝ち取る瞬間を見届けてほしい。

この日夕方前、2度目のツクラカン参拝に出かけた私は、命を散らせたチベット人たちの冥福と、そんなことが繰り返されなくて済むようなチベットの実現を祈り、静かに仏に祈りを捧げ、マニ車を回すのだった。
ダラムサラ・ツクラカンのご本尊

ダラムサラ(7)~パグスの滝

2011年10月 9日

さて、目標のパグスの滝に近づき、遠目に滝も見えてきた。しかし、その手前のエリアが4年前に訪れた時と何か様子が違う。
恐ろしいほどに観光地化が進められていたのだ。以前には無かったホテル、レストラン、土産屋がずらりと軒を並べるようになっていた。
観光地化が進んだパグスの滝手前のエリア

滝の手前にあるヒンドゥー寺院が観光スポットになってダラムサラに来るインド人観光客が増えた、とは聞いていた。しかし、ここまで様子が一変していたとは・・・
そのヒンドゥー寺院の前にあるプールも、4年前に見た時には“沐浴場”のイメージが強かったのだが、今目の前にある同じ場所は、完全に“遊泳場”と化していた。
ヒンドゥー寺院前のプール

さて、パグスの滝がいよいよ近づいてきた。緑の森の下に、細いながらも谷が形成されていて、心地のよい自然の景観が目の前に広がる。
以前と比べて遊歩道もしっかりと整備されている。とはいえ、滝の手前ではほんの少しばかり岩をよじ登る必要があった。
パグスの滝
手前の方ではあれだけヒンドゥー色が強かったのに、滝の上にはしっかりとチベット仏教のタルチョ(五色の祈祷旗)が張られている。仏教とヒンドゥー教のちょっとした共存ということができるかもしれない。

水しぶきがかからない程度まで滝壺に近づいてみた。この日は陽射しが強いだけに、高い所から水が落ちてくる清涼感が心地よい。
しかし――その落ちてくる水に騒いだのは、自然を楽しむ心よりも写真マニア魂だった。シャッタースピードを思い切り速くして、次に思い切り遅くして撮り分けてみる。
パグスの滝
こんな感じで。
(左:シャッタースピード1/4000秒、右:同1/15秒)

ダラムサラ(6)~タンカを描く人

2011年10月 9日

未明。この日は流星群を見ることができるというので夜遅くまで頑張ったのだが、夜空には分厚い雲。辛うじて見えていた月もやがて雲にのみこまれ、「星にFree Tibetの願いを」とはいかなかった。

夜が明けて目が覚め、昨夜のことを思い、「今日も曇りかな」と思いつつ宿の屋上に上がってみたら・・・
青空広がるダラムサラの朝
ダラムサラに来て一番の青空。

雲よ、なぜもう6時間早く晴れてくれなかったのだ・・・

恒例となった朝のコルラ道・ツクラカン巡礼中も汗ばむほどの陽気となった。

昼前、その陽気に誘われるようにして、マクロードガンジから更に山奥に入った所にあるパグスの滝へふらりと出かける。

パグスへの途中、タンカ(仏画)を売る露店が開かれていた。露天の横では、チベット人の女性が今まさにタンカを描いている。
タンカを描く女性
「(露店に並ぶタンカを指差しながら)これ、全部あなたが?」
「はい」
優しそうな若いタンカ絵師が笑顔で答える。
「これが仏陀、これが曼荼羅、これがグル・リンポチェ、これが医学・・・」
並んでるタンカを指しながら一つ一つ解説してくれる。
値段と大きさによっては買ってもいいかな?とふと思った。
「小さいのがいいな」
「じゃ、これはどうですか?」
「うーん、ちょっと大きくて、このバッグに入らないかも」
「大丈夫。巻けば入りますよ」
どうやら、紙ではなく絹の布に描かれているらしい。それなら折れ曲がってしまう心配も無い。
「じゃ、これ幾らになります?」
一番肝心な話に入る。
「えーと――800ルピーになります」
げっ、思っていたよりもはるかに高い。
「これは本物の金を使っているので」
見ると、確かに金粉が使われている。
「こちらなら金粉を使っていないので、500ルピーになります」
どちらにしても、個人的に1ルピー=10円という感覚でやっているので、衝動買いするにはちょっと厳しい。申し訳ないが、もう一度よく考えてからにすることにした。

いずれにせよ、こうしてチベット文化が脈々と受け継がれていくのだな、と実感できた。
そして、こうして絵を売ることで、彼女は今後の鍛錬、材料購入、生活の費用を得て、その文化の継承の役割を担っていくことになる訳だ。
そう考えると――やっぱり買ってあげたいな。財布と相談・・・

ダラムサラ(5)~コスプレ?

2011年10月 8日

ダラムサラに来たら、チベットの伝統衣装を買いたいと考えていた。別にチベット人になり切りたいという訳ではなく、日本で何かの折にコスプレ的感覚で着る機会もあるかな?という軽いノリである。

ツクラカンで問答を見た帰り道、幾つかの店でそれらしいものを見かけた。正装ではなく、カジュアル感覚の伝統衣装だが、まあこれでいいだろう。
そのうちの1件で、上着1着、ズボン1着をそれぞれ買った。合計金額650ルピー。意外と安く買うことができた。

その1セットが、↓これ↓。
チベットの伝統衣装

上着は、球状のボタンで右脇を留める方式。このボタンがなかなかうまく留まらない。店のお姉さん曰く「新品は留めにくい」とのことで、慣れないうちは苦労しそうだ。
ズボンは、股の下がえらくゆったりとしていて、脚が短くなったような気分・・・
(ちなみに、数珠は元から持っていたもの――4年前にラオスのルアンパバーンで買ったものである)

もう一つ、この日買った身に着けるものがあった。ターコイズ(トルコ石)のブレスレットである。
ターコイズ(トルコ石)のブレスレット
最初にチベット本土に行った2001年に同じようなものを買ってかなり気に入ったのだが、その時買ったものは旅が終わった直後に留学先の宿舎でバックパックごと盗難に遭ってしまった。2度目のチベット本土訪問(2007年)で再度購入。今度はなくさずに、御守り的な存在としてほぼ肌身離さず着けていたのだが、今回の旅の直前、今度は糸が切れてバラバラになってしまった。
今回のものは3代目ということになる。今度こそ、大事に使って死ぬまで長持ちさせたい。

肌の色もラダック焼けしてチベット人っぽくなったことだし、衣服も揃えて、これでチベット人コスプレの準備は万端。

――しかし・・・

ダラムサラでは今時、こんな格好をしている男性は見かけない。

女性はチュパという民族衣装を身に着けている人も多いが、男性は皆、洋服姿なのだ

やはり、日本に戻ってからシャレ程度の感覚で着るにとどまることになりそうだ。

ダラムサラ(4)~問答

2011年10月 8日

午後、昨日見逃した問答を見に再びツクラカンに赴く。
昨日のことから推察するに、3時前に行けば見ることができるだろうと思って行ってみると、案の定、やっていた。寺院前のスペースに僧侶たちが幾つかのグループに分かれて問答を展開している。中には、留学生か研究生だろうか、俗人の外国人の姿も見られる。
チベット仏教の問答
本土のセラ僧院などでは問い手と答え手が1人ずつのペアが基本だったが、ここでは2人1組とは限らず、複数対複数のケースも見られる。
問い手が問いを終えると手のひらを「パァン!」と打ち鳴らすのがチベット仏教の問答でおなじみの動作。ここでは割と控えめなアクションで打ち鳴らしている僧侶が多かったが、中には答え手を威嚇するかのように?大きな動作で打ち鳴らす僧侶もいる。

最後の方になると、皆で取り囲んでよってたかって?答え手を追及する場面も。
チベット仏教の問答

先述のセラ僧院で見た問答はショー的な色彩も見え隠れしていたが、ここでの問答は過剰なパフォーマンスは一切無く、チベット仏教の修行の本当の姿を垣間見た思いだった。

ダラムサラ(3)~コルラ道

2011年10月 7日

昼食時、「ルンタ・プロジェクト」の中原一博氏にお会いする。最近チベット本土で続いているチベット人の抗議の焼身自殺という悲しい出来事の話、新たに亡命してくるチベット人の動向、チベット子供村(TCV)のこと、ダラムサラのことなど、貴重なお話を聞かせて頂いた。

その後、中原氏に行き方を教えて頂いたダラムサラの「コルラ道」を歩いてみた。
コルラとは、仏教の聖地を時計回りに巡礼することで、ダラムサラでは中心寺院のツクラカン周りにコルラ道が設けられている。

実は、2007年に旅の途中の予定外の思い付きから予備知識ゼロの状態でダラムサラを訪れた時、私はこのコルラ道の存在を知らずに過ごしてしまっていた。
それから3年経ったある日のことである。
ダラムサラを訪れたばかりの知人にその時の写真を見せてもらった中に、無数のタルチョがたなびく風景を撮ったものがあった。
「これ、どこですか?」
「え、(ダラムサラに行ったことがあるのに)知らないんですか!? コルラ道ですよ!」

――非常に恥ずかしい思いをした。肝心な場所を訪れていなかったようである。

[次にダラムサラを訪れた時には行かないと・・・]

その埋め合わせの時が来たということだ。

ルンタGHから中心街とは逆の方向に急な坂を下り、三叉路のカーブを通過して今度は急な坂を上り、そのまま真っ直ぐ行くとツクラカンに行き着くのだが、その途中にある細道の入り口を進むと、そこがコルラ道だ。
コルラ道入り口

道中には、無数のタルチョ(五色の祈祷旗)と、タルチョ色に文字が色分けされたマニ石(経文や真言等が刻まれた石)を見ることができる。
マニ石とタルチョ

街中では見られない大型マニ車やチョルテン(仏塔)もある。
大型マニ車とチョルテン

そして、その大型マニ車やチョルテンのある場所を過ぎた後のことだった。

タルチョの“海”と言っていいだろう。その“海”に埋め尽くされるように、廟とその左右にチョルテンが建っているではないか。
タルチョの“海”とチョルテン

――出るのは、溜め息ばかりだった。
これでもかと押し寄せてくるチベット仏教の薫りに、私は祈りを捧げずにはいられなかった。

この時、気づいたことがあった。
ダラムサラに“チベットの空気”が希薄であると感じたのは、「借り物の地」「バターの匂いがしない」ということばかりが理由ではなかったのだ。
寺院を除いて、大型マニ車、チョルテンなどといったチベット仏教の施設が街の中心に見当たらないことも大きな原因の一つだったのだ。(タルチョは街中にあることはあるが、そんなに多くもない)

その証拠に、
ここには間違いなく、“チベットの空気”が漂っていた。

ほんの少し、心に少しあいていた穴が埋められた思いだった。

それにしても、前回の訪問でこんな重大な場所を見落としていたとは、恥ずかしい。
もはや、「ダラムサラは2度目」などと大きな顔をして言えない・・・

コルラ道のゴール地点は、朝にも訪れたツクラカンである。
ツクラカンに近づくと、問答をやっている熱気を帯びた声が聞こえてきた。これだけはラダックでもお目にかかることができていなかったので、急いで中に入ろうとしたが、
「ここは出口です」
と門番に押し留められ、入り口に回ってセキュリティチェックを受けてから入場する頃には、問答は終わっていた。
とはいえ、その後のお経の合唱だけは拝見することができた。僧侶だけではなく、俗人、しかも女性も交じって行っているのが他では見たことのない光景だった。
お経の合唱

――決めた。
コルラ道とツクラカンは、毎日巡礼しよう。

その後、街中に戻るが、先程のコルラ道で心に飛び込んできたものの余韻が残ったのか、前にダラムサラに対して感じた違和感は少し緩和されたようだった。

※一部写真を後日撮影したものに差し替えています。

ダラムサラ(2)~ダラムサラの“空気”

2011年10月 7日

長距離移動から一夜明けた朝だったが、調子は悪くない。朝一番でダラムサラの中心寺院・ツクラカンを巡礼する。寺院正面には、4年前には無かった屋根が設置されていて、何か圧迫感があって狭苦しくなったように感じられた。
ダラムサラのツクラカン

寺院では、本殿の仏像に祈りを捧げ、本殿の周りのマニ車を回しながらコルラ(時計回りに行われる巡礼)する巡礼者、問答の動作をゆったりとさせたような朝の体操?をする僧侶たち、隅の方にあるチョルテン(仏塔)の前で五体投地(地面にひれ伏しつつ行われる祈り)を行う者たちなど、朝の時間を仏に捧げる人々の信仰心がゆったりとした時間の中で漂っている。
朝の体操?をする僧侶たち
朝の体操?をする僧侶たち

そして、ツクラカン正面に建つ、ダライ・ラマ法王公邸――外遊はまだ先のようなので、今この中に、法皇様がいらっしゃるはずである。
4年前に訪れた時も感じたことだが、ラサのポタラ宮やノルブリンカとは比べ物にならないほど小さく、質素な屋敷である。謙虚でつつましいダライ・ラマ14世でなければ、この格差には到底耐えることができないのではないだろうか。
ダライ・ラマ法王公邸
公邸前には掲示板があり、法皇様のスケジュールが張り出されている。

 10月30日 大阪
 11月1~2日 高野山
 11月3日 高野山大学
 11月5日 仙台・孝勝寺
 11月6日 仙台・聖和学園、郡山・日本大学
殆どが来日スケジュールだ。震災があった関係なのだろうが、日本人として、ありがたいやら申し訳ないやらの気持ちで胸が一杯になった。

ツクラカン拝観の後、街の中心に出てみた。まだ閑散としているが、寺院の周りのマニ車を回す者、ぼちぼち店を開ける人、屋台を開く人、子どもを学校に送る母親などが、1日の営みを始めようとしていた。
ダラムサラ中心街
開き始めている屋台の1つで、モモを売っていた。朝食にしようと1皿買い求め、お値段10ルピー
そう言えば、宿の値段もかなり奇麗な部屋が1泊200ルピー、昨夜の夕食もドリンク付きで80ルピーのメニューで美味しく、しっかりと頂くことができた。全般的に、数日前までいたラダックと比べるとかなりコストパフォーマンスがいい。
薄々感じていたのだが、ラダックはやはり物価が高い傾向にあったようだ

ほんの僅かな時間の散策だったが、私はその短い時間の間で十分に、ダラムサラの空気に妙な違和感を覚えていた。

チベット人が大勢いながら、“チベットの空気”が希薄なのである
一つには、チベット本土やラダックで感じられた、チベット独特のバターの匂いがしない、ということもあるだろう。
しかし、根本的な原因はもっと深い所にあるように思われた。

ここには、チベット人の大きなコミュニティがある。
しかし、ここは、チベット人の土地なのか?

答えは、“No”である。

ラダックは、ラダッキというチベット人が生まれ育った土地だ。だから、ラダックには“チベットの空気”が感じられた。
チベット本土は、今でこそ中国共産党に侵されているとはいえ、チベット人が生まれ育った土地だ。(私が最後に訪れた2007年時点で)ラサのジョカン周辺あたりにはまだ“チベットの空気”が感じられた。

しかし、ダラムサラはそうではない。

借り物の地・・・
本来ならチベット人が住まなくても済んだはずの地・・・

故郷を離れることを余儀なくされた人々の悲哀が、ダラムサラの空気にはあった。

ダラムサラ(1)~マクロードガンジの電飾

2011年10月 6日

さて、マクロードガンジに到着したはいいが・・・

[どこだ? ここ・・・]

4年前に来た時には無かった、バス発着所ができている。
そして、出口はどこだ?
幸い、同じ車で来た乗客が階段を上がっていくのに着いて行き、地上の駐車場出ることはできた。しかし、それでもまだここがどこなのかが分からない。灯りが点いている方向に行けば街中に出られるだろうと、ゆったりとした坂道を上っていく。
その先にあったのは、見覚えのある、マクロードガンジ入り口の広場だった。
いや、確かにあの広場に間違いないのだが・・・
こんなにきらびやかだったか?
マクロードガンジの電飾
そこにあったのは、けばけばしい程の電飾だった。
よくよく考えると、私は4年前に来た時もこの時間にこの広場へ来たことはなかった。だから見覚えがなかったというだけのことかもしれない。
ただ、街の真ん中を歩いていると、やはり前よりも華やかな感じになった印象は否めない。

宿は4年前と同じ、ルンタ・ゲストハウスにした。街の中心から少し外れていて、閑静な場所にあるこのゲストハウスは、ツインルーム200ルピーで部屋もかなり奇麗。これまでのどの宿よりもコストパフォーマンスがいい。
宿の1階はレストラン。このルンタ・レストランはベジ日本料理を出してくれる店だが、日本人客ばかりでなく西洋人旅行客も多く、食事時にはかなり賑わっている。夕食はここで、かき揚げ丼を頂いた。ちょっと私にはつゆだく過ぎたが、それでも久々の日本の味に舌鼓を打つ。

休む前に、ちょっとインターネットカフェに行ってみた。ルンタGHから少し街の方に上った所にある2件に入ったが、いずれも速度・日本語環境とも申し分なかった。

とにかく、今日は(今日も)移動で疲れた。いつもより早めに就寝する。

マナーリー―ダラムサラ

2011年10月 6日

マナーリーで迎えた2日目の朝。宿に近いチベット寺院2つを参拝した後、いざ、今回の旅で第2の目的地であるダラムサラへと向かう。
ところが、マナーリーのバスターミナルで、前日に買ったチケットの車が無く、取りあえずクルまで行ってそこでダラムサラ行きに乗り換える、ということになる。

クルでの乗り継ぎは、最初のバスの車掌が案内してくれたお陰でスムーズにできた。と言うより、乗り継いだらすぐの発車でトイレに行く暇すら無かった。

乗ったバスは「Ordinary」、即ちごく普通の鈍行バスで、途中で何度も停まっては客を乗降させ、要所のバスターミナルではじっくり停まって客を集め、という実にゆったりとしたものだった。
バスは途中までは、おおむね山道を上るコースをたどる。しかし、後半になるとほぼ一貫して山道を下りる形となった。ダラムサラは山のてっぺんにあってその上にはもう街は無い、というイメージが前回の訪問であっただけに「おいおい、どこまで下りるんだ?」と少し不安を覚えた。しかし、よくよく外を見れば山を下っているというよりは山そのものがだんだん低くなっていて、それに沿うようにして走っていたのだった。
もう一つ違和感を覚えたのは、前回はチャッキバンクからアクセスして、ダラムサラに着くまでは人里離れた山奥の道をひたすた走ったような記憶があったのだが、今回は到着直前まで賑やかな街を幾つも通ったことだった。しかしこれも、コースが違えば車窓の外に見える風景も変わって当然のことだった。

午後6時すぎ、ダラムサラのバスターミナルに到着した。しかし、これで目的地に着いたと思ったら大間違い。ダラムサラには「ロウアーダラムサラ」と「アッパーダラムサラ(通称『マクロードガンジ』)」の2つの地域があり、旅行者にとって「ダラムサラ」と言えば後者なのだが一般的に「ダラムサラ」と言えば前者なのであるらしい。ここから更に、すし詰めのジープタクシーで10kmほど山道を上ることになる。(ちなみに、この時の私の隣席は、女性に抱えられた大きな犬だった)

午前8時20分にマナーリーを出発して約10時間30分後の午後7時前、ようやく目指すマクロードガンジに到着した。

 9月26日:7時間
 9月27日:11時間
 9月30日:10時間
 10月1日:9時間半
 10月4日:19時間
 10月6日:10時間半

これ全て、ここ最近車で移動した所要時間である。

――移動しすぎ。

ここでは暫く、ゆっくりすることにしよう。

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