バス憧れの大地へ

世界への旅(旅行記)

アジア周遊第5部 北インド、パキスタン

アムリトサル-デリー ~イスラム濃厚 オールドデリー

2007年8月20日

列車チケットの購入が不首尾に終わったこともあって、アムリトサルからデリーにはバスで移動することにした。
乗り込んだバスは結構なオンボロで、座席も硬く座り心地が悪い。しかも鈍行の乗合バスで、停車しては地元の人々が乗降する、ということが度々繰り返された。
それでも、悪い旅ではなかった。別に急ぐ必要も無いし、地元の人々の視線で車窓の風景やバスの中の空間を眺められるのもいい。沢木耕太郎氏が「深夜特急」の旅で乗り継いだのも、きっとこんなバスだったのだろう ―― そう思うとむしろ、このオンボロでの旅を楽しむことすらできた。

アムリトサル-デリー間は450kmもあり、途中客の乗り降りや昼休みもあった。それでもデリーには10時間で到着。思ったよりも短く済んだ。

オールドデリーのISBT(長距離バスターミナル)から、改札口でのセキュリティーチェックが厳重な地下鉄に乗ってニューデリー駅へ。12日ぶりにメイン・バザールに戻ってきた。

2007年8月21日

到着1日目はHOTEL NAVRANGという1泊100Rsの安宿に泊まったが、室内にコンセントが無くカメラのバッテリー等の充電に不便だったので、朝から別の宿を探す。
2、3軒回ったところで、道端にいた爺さんが「150か200Rsで部屋があるよ」と言われ、見せてもらうことにする。 オールドデリーの路地
オールドデリーの路地
パハール・ガンジ(メイン・バザールの目抜き通り)から少し奥に入ったところにあるHOTEL BAJRANGはそこそこきれいで、シャワー・トイレ付きでも190Rsで泊まることができる。NAVRANGと比べると倍近いがそれでも安い。私はデリーの残り数日の拠点をここに決めることにした。

宿を移って一息ついたところで、オールドデリーに出かける。
以前にも書いたように、デリー英領インドの首都として造られたニューデリーは、イギリス侵略以前のムガル帝国の都だったオールドデリーとは元々少し離れていたが、都市が拡張されるにつれてオールドデリーと一体化するようになった。ニューデリー駅からほんの少し歩くと、デリーは近代的な大都会からあっという間に古い時代の名残りを残した、近世の薫り漂う町並みに姿を変えていた。
インドはいわずと知れたヒンドゥー教の国であり、デリーにも勿論、ヒンドゥー教の寺院は多くある。しかし、かつてこのオールドデリーを首都としたのがムスリム王朝だったことから、このエリアは大きなドームを有するモスク等の建物、イスラム服をまとった人々など、イスラムの色が濃厚である。前回、デリーを初めて訪れた時は都会的なニューデリーだけ見て「もの足りない」などと感じてしまっていたが、その時の第一印象はこの界隈を歩いているうちに吹き飛んでしまっていた。
そして、私がこの時目指していたのは、そうしたデリーのイスラムを象徴する場所だった。
ジャマー・マスジット
ジャマー・マスジット

それは、ジャマー・マスジット。17世紀にムガル皇帝シャー・ジャハンによるインド最大のモスクである。
規模や構造、ドームと尖塔の組み合わせやシンメトリー(左右対称)を特徴とする均整の取れたアウトラインはパキスタン・ラホールのバードシャーヒ・モスクと極めてよく似ている。これがムガル建築の様式ということなのだろう。
一つ残念だったのは、バードシャーヒ・モスクの時と同じ悶着が繰り返されたことである。ここでも土足は厳禁で靴を預けてきたのだが(付け加えると、半ズボンをはいていてむき出しになっていた脚を隠すため腰巻を巻かされたりもした)、ここでも掲示の無い靴預かり代を要求された。私は前回同様、「どこにも書いていない!」と要求を突っぱねた。どうやらやはり、この辺りではこういうことがまかり通っているらしい。

ジャマー・マスジットからほど近い所に、同じくシャー・ジャハンによるラール・キラーがある。こちらはムガル帝国の城であり宮殿であった遺跡だ。

ラール・キラー外観
重厚なラール・キラー外観
ラール・キラー内部
散漫な感じが否めないラール・キラー内部

レッド・フォートとも呼ばれるこの城は、その名の通り赤茶けた重厚な城壁に取り囲まれている。
重厚なラホール門から内部に入る。 内部の建築物も赤系の色のものが少なくなかったが、白亜の建築も目立つ。赤ばかりでは単調になっていただろうが、赤と白が混在することでめりはりが効いていた印象だった。白亜の建築内部に入ってみると、壁一面に立派な装飾が施されている。ムガル帝国の繁栄を象徴するものだろう。
立派な装飾
立派な装飾が施されている
広大な敷地もムガル皇帝の権威・権力が強大なものだったことを物語っている。しかし一方で、広場が多いためか何か散漫でスカスカしている印象も受けた。そのもう一つの理由は、中へ進めば進むほど、内装の立派さとは裏腹に建物の外観はどんどん貧弱になっていくように見えたことにあった。
実は、ムガル帝国を滅亡に追いやった1857年インド独立戦争(いわゆるセポイの反乱)の際に、ここに建っていた宮殿はイギリス軍と独立を目指すインド人の争いに巻き込まれて破壊され、現在はその時の戦火を免れたものが残っているにすぎないのである。
即ちこの城は、外から見た重厚さがムガル帝国の繁栄を、中から見た散漫さが同帝国の衰退と滅亡を同時に物語っているということになる。「盛者必衰の理」とは仏教色の強い『平家物語』冒頭に出てくる言葉だが、イスラムの薫りの濃厚なこの場所でそれがひしひしと感じられた。
先ほど訪れたジャマー・マスジットも、上記の独立戦争の際にインドの民衆たちの血で染まったらしい。
先日訪れたアムリトサルといい、近代インドの歴史はどこか血塗られている印象があって、やり切れない。

コメント(0)

コメントする

<新着記事>

Google

WWWを検索a-daichi.comを検索
お勧めメディア(Amazon)
チベットの大地へ