山形・新潟100名城(2)―山形城、鶴ヶ岡城
2025年8月9日
山形城(日本100名城 No.10)すぐ近くの宿で一夜を明かし、朝食を終わらせると即、行動。朝の7時すぎから、前日はジョギングがてら少し見ただけの最上氏の拠点だった城へ向かう。
とはいえ、100名城のスタンプを頂ける場所は9時開場で、また次の城へ向かう列車は11時半発と、時間は大いに余裕がある。二の丸の水堀を渡り、南大手門から登城して、じっくりと城巡りを楽しむ。
山形城 南大手門跡
山形城を囲む石垣・土塁の上を巡るまずは南大手門から石垣の上に上がり、山形城を囲む石垣・土塁の上を歩いて辿る。
西門で石垣が途切れたので、そこで内側に下りる。下りた先はまだ二の丸であり、本丸は更にその内側、深さ約7mという見事な空堀に囲まれたエリアになる。本丸の入城時間になるまで、まずは周囲を回って外観を眺めたり、周囲に設置された石垣の解説や石垣の石を見学して楽しむ。
山形城 本丸跡
そして、本丸の東側には二の丸東大手門があり、門内の広場では、前足を蹴り上げる馬上で槍を構える「最上義光公之像」が凛々しく躍動している。
山形城 二の丸東大手門(内側)と「最上義光公之像」本丸の門が開くのも9時ということだったが、8時45分あたりには既に門が開かれていた。ありがたく早めに内部を参観させて頂いた。
山形城 本丸内部。目下発掘調査中山形城は、最上氏が既に去った後の江戸中期以降は維持が困難になり、幕末には御殿は二の丸に置かれ、本丸は更地になっていた。1996年から本丸の発掘調査が進められ、2003年に本丸一文字門の石垣が復元され、2005年に本丸一文字門大橋が完成、2014年には本丸一文字門の高麗門・土塀が完成する。
徐々に復興は進んでいるが、更地になった本丸内部はまだまだ発掘調査の真っ最中。いつか御殿などが再現される日が来るだろうか。
本丸内部を巡っている間に、9時近くになっていた。そろそろ100名城スタンプ設置場所が営業を開始するので足を向ける。
途中、二の丸東大手門を抜ける。3つの櫓に守られた桝形を有する高麗門で、これを表から見た光景もまた山形城のシンボル的景観の一つになっている。
山形城 二の丸東大手門(外側)二の丸東大手門の外にある最上義光歴史館で、昨日の米沢城同様、7年越しで100名城スタンプを頂く。
こちらを参観して、同じく9時から営業開始の二ノ丸東大手門櫓、山形市郷土館(旧済生館本館)(いずれも100名城スタンプ設置場所)を訪れた後、もう一度本丸の内外を一巡りして、山形城の参観は終了。次なる城を目指して11時27分、山形駅を出発する。
最上義光歴史館
山形市郷土館(旧済生館本館)
山形から次の城へはJR山形線で新庄まで、陸羽西線で余目まで、羽越本線で鶴岡まで、という乗り継ぎだが、この当時はトンネル工事の影響で新庄~余目間で鉄道の運行は休止していて、この区間は代行バスでの移動となったが、そこはJR線の代行バスなので、青春18きっぷをしっかり使うことができた。
14時42分、鶴岡駅に到着。ここからバスに乗って市役所前バス停で下車すると、目の前に江戸時代の庄内藩藩校・致道館がある。
庄内藩校 致道館
鶴ヶ岡城の堀と大寶館そのすぐ近くには、明らかに城の堀とみられる水辺のほとりに白亜の建築物・大寶館が建っているが、これは大正時代の建物で城とは全く関係ない。
堀の主は、鶴ヶ岡城(続日本100名城 No.108)。戦国時代に越後揚北衆の本庄氏により築城された城だ。1568年には本庄繁長が上杉謙信に反旗を翻し、1年に亘り籠城を行っている。1598年に本庄氏が会津に転封された後は村上氏、次いで堀氏が城主となって、堀氏の時代には3重の天守が建てられ、更に松平直矩により天守・櫓等が造り直される。しかし1667年、落雷により天守等を焼失して以降は天守が再建されることはなかった。1720年以後は内藤氏が代々城主を務める。明治に入り、城下の諸門や石垣は解体・売却されるが、城跡一帯には竪堀・虎口などの遺構と、江戸時代の石垣の遺構が混在して残る。
鶴ヶ岡城 本丸御隅櫓跡本丸跡内で続100名城のスタンプを頂くが、中心部に城の面影はほぼ無い。堀のほかは、内堀内側の北西隅に残る本丸御隅櫓跡や、内堀と外堀の間に残る土塁などが、ここがかつて城であったことを語るばかりだ。
堀の向こうから望む鶴ヶ岡城 本丸御隅櫓跡
鶴ヶ岡城の土塁
鶴ヶ岡城の登城が予定よりも早めに終わったので、予定より早い、指定席券を別途購入すれば青春18きっぷでも乗ることができる夏の快速列車「海里」で山形県を後にして、一気に新潟の新発田へ。
明日はこのエリアにある2つの名城を訪れる予定だ。
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