山陽・山陰西部100名城(1)―吉田郡山城
2025年5月2日
羽田発の早朝便で、広島へ。2025年のゴールデンウィーク(GW)は広島を起点に、山陽から山陰にかけての名城を巡る。
広島県東部の福山城、三原城、新高山城は以前、岡山の名城と同じタイミングで訪れていたので、今回は残る広島西部の名城2つを目指した。まずは広島駅からJR可部線とバスを乗り継いで(広島バスセンターから直行でも行けるが、こうした方が時間的にも交通費的にもパフォーマンスが良かった)、郡山城(100名城No.72)へと向かう。
郡山城は安芸の国人から勢力を伸ばし、西国一の戦国大名となった毛利氏拠点の山城だ。奈良などの「郡山城」と区別するために「吉田郡山城」とも呼ばれる。1540年の尼子氏による侵攻を阻んだ(吉田郡山城の戦い)難攻不落の城で、毛利元就の代に勢力を拡大するに従って城も巨大化したという。
吉田郡山城を頂く郡山と安芸高田市歴史民俗博物館の毛利元就像郡山城を頂く郡山(標高390m)麓の安芸高田市歴史民俗博物館で100名城スタンプと地図を頂き、近くのお好み焼き屋でエネルギーをチャージして、13時40分、いざ登城開始。
帰りのバスは15時42分。2時間もあれば余裕を持って回れるだろう、というのが当初の目算だった。
ところが、歴史民俗博物館で頂いた地図を見ると、思いの外見どころがあり、登山道をそのまま直登すると多くを見逃してしまう。まず麓部分で、山頂の本郭への道から大きくそれた場所に、築城時の中心だった「本城」がある。
吉田郡山城 本城
吉田郡山城 尾崎丸本城から登山道へと戻るが、道に出る直前から上に延びている曲輪がある。元就の息子・毛利隆元の居所だったとみられる尾崎丸だ。山登りではなく城巡りをするのであれば、登山道ではなくこちらを辿って本郭を目指すべきである。この尾崎丸を上がった先にも満願寺跡などの「寄り道スポット」がある。
吉田郡山城 二の丸から望む本丸勢溜の壇という曲輪を上った先が、いよいよ郡山城の核心部だ。御蔵屋敷、二の丸と上がると更にその上に、本丸がある。
本丸は更に2段になっている。手前の下段が毛利の殿様の館があったとされる場所で、奥の上段は櫓台だ。
吉田郡山城 本丸櫓台毛利氏はその後山上から平地へと拠点を移して郡山城は廃城となり、1615年の一国一城令で破却され、のち石垣や堀なども破却・撤去されることになる。以後建物は再建されていないが、ここに御殿、ここに櫓、ここに蔵――と想像力を働かせてみると、当時の毛利氏の繁栄ぶりや勢いが脳裏に鮮明に浮かぶ。
石垣が破却・撤去された、と書いたが、一部痕跡が残っている。1つは、毛利輝元の時代のものとされる麓の西谷地点石垣跡、そして山頂の本郭部分にも、二の丸の一段下にある三の丸に見ることができる。
吉田郡山城 三の丸石塁
吉田郡山城 三の丸石垣まず三の丸の上。ここには「石垣」とは少し違うが「石塁」の跡が残っている。次に一段下に行って三の丸の側面を見ると、破壊されてはいるが明らかにそれと分かる「三の丸石垣」を見て取ることができる。
それにしてもこの城、本郭周辺も「寄り道スポット」に事欠かない。やはり石垣の痕跡が残る御蔵屋敷跡から時計回りに本郭を回ると、釣井の壇、姫の丸、釜屋の壇と、曲輪や井戸の跡などが続いている。
吉田郡山城 御蔵屋敷跡
吉田郡山城 釣井の壇本郭を巡り終わったところで下山、ということになるが、上りは東回りのルートを辿ったが、下りは西回りのコースを取る――こちらにも訪れるべき重要スポットがあったのだ。
山頂から120m程下った山あいにある洞春寺跡――ここは毛利一族墓所になっていて、階段を上がった一段高い場所にあるのが毛利元就墓所である。この近辺には元就の息子・毛利隆元の墓所や元就火葬の地などもあり、地域一帯で毛利氏を偲んでいる格好だ。
毛利元就墓所
百万一心碑毛利元就墓所の傍らには「百万一心」と刻まれた石碑がある。これは元就が郡山城を拡張した際に人柱の代わりに使用した礎石を再現したもので、「百万一心」は「一日一力一心」と分解でき、一日一日を、一人一人が力を合せて、心を一つにして事を行うことを教えたものといわれる。毛利氏が「人」を大事にして結束していたことを思わせるエピソードだ。
15時20分、下山終了。計画していた時は、登城を終えた後に歴史民俗博物館を見学する余裕ぐらいはあるだろうと思っていたが、思いの外大規模で見どころも多く、下山時はトレイルランで駆け下りたにもかかわらず1時間40分もかかってしまった。山登りに慣れていない人なら2時間以上見ておいた方がいいだろう。
予定のバスの時間まで20分しかなく、博物館を見学する余裕は無くなってしまっていた。残念ながらそのままバス停に向かって広島市への帰途に就く。
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