東北・西北海道100名城(3)―盛岡城、九戸城
2023年5月1日
岩手県盛岡市の盛岡駅前で一夜を明かし、早朝から早速、盛岡城(100名城 No.6)を目指す。随分前に訪れたことがある城だが、100名城スタンプはまだだ。
途中、北上川に架かる開運橋を渡る。ここからは天気がよければ岩手山を見渡すことができるのだが、残念ながら山の頂は雲に覆われていた。
盛岡城へは盛岡駅からバスで県庁市役所バス停下車で行くのが便利だが、西側の入り口まで徒歩でも20分程度で着くことができた。
盛岡城址公園入り口
盛岡城唯一の現存建築物・彦御蔵盛岡城は、16世紀末、南部氏が福岡城(九戸城)からこの地に拠点を移して築き、江戸時代には盛岡藩の藩庁となった城だ。石垣や堀跡しか残っておらず、建築物は西側入り口近くの片隅にある唯一の現存物である彦御蔵(移転)という土蔵以外、再建もされていないが、高さ10m以上になる石垣の存在感が圧巻。東北地方でこれだけの規模の石垣は類を見ないという。
盛岡城の石垣屹立する石垣の上「腰曲輪」に上がると、更に本丸の石垣が屹立している。その先には二の丸の石垣もあり、本丸と二の丸の間の空堀に渡された赤い橋が印象的だ。
盛岡城の本丸石垣(左)と二の丸石垣(右)本丸の上からは、まだ頂に雲が少しかかっているものの、岩手山を望むことができた。南部の殿様も櫓の上からこの眺望を楽しんでいたことだろう。
盛岡城本丸
盛岡城本丸から望む岩手山盛岡城の100名城スタンプは盛岡城址公園北東隅のもりおか歴史文化館で頂くことができる。城跡や近くの岩手銀行赤レンガ館を楽しみつつ時間を潰し、午前9時の開館時間を待って押させて頂いた。
岩手銀行赤レンガ館
北上川の向こうに見える岩手山盛岡城散策を終え、盛岡駅前に戻る。この頃には、先程まで岩手山の頂を覆っていた雲がすっきりと晴れ、開運橋から北上川の向こうにその雄姿をはっきりと拝むことができた。
10時13分、かつてはJR東北本線の一部だった、現在は第3セクター営業のいわて銀河鉄道に乗車し、盛岡駅を出発。先程からよく見えている岩手山を車窓に見ながら岩手県を北上する。
下りたのは、東北新幹線の停車駅にもなっている、二戸市の二戸駅。ここで買った駅弁で昼食をしている間に、ちょうど次の目的城・九戸城(続100名城 No.104)へ向かうバスの時間になった。
呑香稲荷バス停で下車して暫く歩いて、九戸城跡西側にある九戸城跡ガイドハウスに到着。ここで続100名城のスタンプと案内マップを頂いて、いざ、九戸城巡りに繰り出す。
九戸城は、戦国時代に南部氏の一族である九戸氏が築城し居城とした、総面積34haの広大な城だ。「豊臣秀吉による天下統一の総仕上げ」とされる九戸政実の乱の舞台となり、その鎮圧後は蒲生氏郷によって改修され、南部宗家の本城となるも、先述したように南部氏は16世紀末に本拠を盛岡城に移し、その暫くの後、九戸城は廃城となった。
大手門跡をくぐると二の丸広場が目の前に横たわり、その向こうに堀に囲まれた本丸が見える。
九戸城二の丸広場
石垣が残る九戸城の堀跡本丸入り口の本丸虎口横の堀には当時の石垣を見ることができ、その横の土塁に上がると、左に堀跡、真ん中に石垣、右に本丸跡と、九戸城の名物を3つ一度に眺めることができる。特に堀は、切り立った側面に深い底と再現状態がよく、往時の様子を彷彿とさせられる。
九戸城の(左から)堀、石垣、本丸跡1haの広さがある本丸跡には建物の柱跡が残り、一部建物の土台などが再現されている。虎口から入ってすぐの角には石垣跡が四角く出張っているが、ここは隅櫓跡だという。
九戸城の本丸跡
九戸城本丸の隅櫓跡九戸城は上記の九戸政実の乱鎮圧後、「福岡城」と呼ばれるようになったが、領民たちには「九戸城」の名で呼ばれ続けたという。九戸氏はそれだけ領民に慕われた名君だったということなのだろうか。
九戸城の散策を終え、次の城を目指して、再びいわて銀河鉄道で北上。程なくして到着した目時駅で、列車はそのまま青い森鉄道へと乗り入れる。
そう。列車は岩手を抜けて、青森に入っていたのである。岩手の100名城、続100名城は盛岡城と九戸城の2つで終わりで、次に目指す城は、青森の城だ。
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