沼田城
ぬまたじょう
続日本100名城 No.116
- 場所
- 群馬県沼田市西倉内町(地図)
- 築城時期
- 戦国時代(1532年)
- 築城主
- 沼田顕泰
- 主な城主
- 沼田氏、本庄秀綱、猪俣邦憲、真田氏
- 分類
- 丘城
- 遺構
- 土塁、堀、石垣、城門(移築)
- 概要
-
利根川と薄根川の合流点東の台地上に1532年、沼田顕泰により沼田氏の拠点として築城された丘城。
1560年、長尾景虎(上杉謙信)に落とされ、以後軍事上の重要拠点として上杉氏・後北条氏・武田氏の間で争奪戦が行われる。1580年、沼田城は武田方の真田昌幸によって攻められて無血開城。1582年に武田氏が滅亡すると沼田は織田家臣・滝川氏の支配下となるが、本能寺の変で信長が討たれた後の「天正壬午の乱」で沼田城は再び真田昌幸の支配下となり、以後、後北条氏などの度重なる侵攻に耐える。1587年、豊臣秀吉の仲裁で利根川を挟んだ沼田城を含む2/3を北条が、名胡桃城を含む1/3を真田が治めることになるが、北条が名胡桃城までもを奪ったことから1590年、秀吉の小田原征伐が行われ北条氏は滅亡。真田氏は全沼田領を領し、沼田城も返還されて昌幸の長男・真田信幸(信之)の居城となる。関ヶ原の戦いで昌幸と信之が西軍・東軍の敵味方に分かれた際、昌幸が孫に会うという口実で沼田城を訪れるも、信之の妻・小松姫(徳川家臣・本多忠勝の娘)が、敵方となった義父に対し開門を拒み、近くの寺で昌幸と孫たちを引き合わせ、女丈夫と謳われるという逸話が残る。西軍が関ヶ原で敗戦し、昌幸が改易されると昌幸の所領であった上田が沼田に合併されて上田藩となる。1681年、4代目真田信利が改易となり、翌1682年、沼田城は廃城となる。
1976年、沼田市指定史跡に指定される。
- 公共交通機関による
アクセス - JR上越線 沼田駅から
・中山本宿線・猿ヶ京線バスで沼田局前下車、徒歩8分。
・鎌田線・南郷線・佐山線・川場循環線・迦葉山線バスでテラスぬまた・市役所前下車、徒歩10分。
・徒歩20分(1㎞で80m上る。『団子坂(トンネル坂)』という近道の階段あり)。
- 100名城スタンプ
-
沼田市観光案内所(地図)
- 探訪記の該当部分
- 北関東100名城(3)―名胡桃城、沼田城
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