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チベットの歴史

チベットの歴史

■略史

7~9世紀にはソンツェン・ガムポを始祖とするチベット初の統一王朝王国が栄え、吐蕃の名で中国(唐)に恐れられる。この頃仏教が伝来して国教となり、インド系仏教を基にチベット仏教が発展し、824年頃までに大蔵経が編纂される。
その後は分裂状態となり、仏教も退廃するが11世紀に戒律復興運動が起こり、出家教団が再興される。13~14世紀にはモンゴル帝国の侵攻を受けるがサキャ派政権がチベットの自治支配権を得、フビライ・ハーンの時代にはパクパがフビライの師となる。チベットとモンゴルの関係は、チベットが寺、モンゴルが檀家のような関係(ユ・チュン)だったといわれる。
その後、パクモドゥ派政権を経てカルマ派・ゲルク派の覇権争いとなる。1642年、オイラート族(モンゴル系)のグシ・ハンによる青海ホショト部(グシ・ハン朝)の下、ゲルク派のダライ・ラマに寄進されたウ・ツァン地区にガンテンポタンというダライ・ラマを中心とする政府が成立。しかし内紛と、満洲清朝の介入で18世紀初頭、青海ホショト部は滅亡。その後、清がチベットに影響力を及ぼすようになり、ガンテンポタン側に駐蔵大使が送り込まれたりする。しかしそれでも、ダライ・ラマを中心とするガンテンポタン政権体制に変わりはなく、清朝がチベットを実効支配していたということは無い。
1910年、首都ラサを一時清軍に占拠されるが、清朝滅亡後の1912年、独立を宣言。しかし第2次大戦後、中国共産党による「中華人民共和国」が成立すると中国共産党軍の侵攻を受け、詐欺同然の「17か条協定」を突きつけられて1951年、中国共産党の占領下に置かれる。この頃から中国共産党当局はチベット寺院の破壊、中国共産党による支配に反発する者の弾圧・不当逮捕・拷問を既に開始していた。
1959年3月、ダライ・ラマ14世が観劇名目に中国共産党に捕われようとしていると考えたチベットの民衆が法王を守ろうとノルブリンカに集結。その集会が中国共産党に弾圧された際にダライ・ラマがインドに亡命するに至る。1960年代の文化大革命期、チベットにおける弾圧は苛烈を極める。1989年、パンチェン・ラマ10世の不自然な死を機に中国共産党への反発が高まる中、当時チベット自治区共産党書記長だった胡錦濤(のち中華人民共和国国家主席)により戒厳令が敷かれる。更に、中国共産党当局はダライ・ラマが認定したパンチェン・ラマ11世を拉致して傀儡のパンチェン・ラマ11世を立てるなどする。そして胡錦濤主席体制下の2008年、Free Tibetを訴えるチベット民衆のデモに対し中国共産党当局による弾圧が行われた。
現在、ダライ・ラマ14世を中心とするチベット亡命政府は独立を求めずに「高度な自治」を求めるという譲歩をしながら中国共産党当局との対話を求めているが、中国共産党当局は強硬な態度でこれをはねつけ、対話は平行線をたどっている。


チベットの歴史についてはまだまだ学習中です。
当面は簡単な歴史の記載のみとなりますが、私なりの認識・解釈が確立されたらより詳細なチベット史を記載していきたく思います。

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