08憲章の考察
内容
現代の日本その他の民主主義を知る人にとっては「何を今更」というような内容ばかりです。しかし、中国のこれまでの歴史は、帝政時代、中華民国時代、中華人民共和国時代全てを通じて「支配者層が愚民どもを纏める」という権威主義的な支配が続いていました。憲章によれば、人々の間にも"臣民意識"が根強くあることが覗われます。こうした社会において、民主主義に触れたことのない人々にとって、同憲章の内容は大なり小なりインパクトを持つものといえるでしょう。
ただ、私が受けた印象は、理念はよく表現されているが、全体的に抽象的で、具体的にどのような政体、どのような政治運営を目指しているかが見えてこない、ということです。
例えば、「立法・司法・行政の三権分立を保障する」「各級立法機構は直接選挙によって生み出され」などと書かれていますが、具体的に大統領制を目指すのか、議院内閣制を目指すのかも見えてきません(『議会』『総統[大統領]』などのキーワードが一度も出てこないのもそれが見えてこない一因)。
新しい政治体系をつくりたいという理想は感じられますが、本気で自ら新しい政権を実現させようという意気込みがあるのなら、もう少し突っ込んで具体的な将来像を見せてほしかったです。
チベット問題との関わり
さて、このコンテンツでこの憲章をとり上げるのですから、チベット問題とどう関わってくるかがここでの最重要ポイントとなります。
人権、宗教、自治などの問題が絡み合うチベット問題と関わる部分で主なものは、以下となるでしょう。
<人権について>
6. 人権の保障:人権を切実に保障し、人としての尊厳を維持・保護する。最高民意機関に対し責任を負う人権委員会を設立し、政府による公権濫用・人権侵犯を防止し、とりわけ公民の人身の自由を保障しなければならず、いかなる人も不法な逮捕、拘禁、召喚、審問、処罰を受けず、労働教養制度を撤廃する。
19. 正義の転換:歴代の政治運動において政治的迫害を受けた人士及びその家族に対し、名誉を回復し、国家賠償を行う。全ての政治犯と良心の囚人を釈放し、信仰を理由に罪を着せられた全ての人員を釈放する。真相調査委員会を設立し、歴代の事件の真相を明らかにし、責任を整理し、正義を伸張させる。この基礎の上に、社会の和解を追求する。
<宗教について>
12. 宗教の自由:宗教の自由と信仰の自由を保障し、政教分離を実行し、宗教・信仰の活動は政府の介入を受けない。公民の宗教の自由を制限若しくは剥奪する行政法規、行政定款、地方条例を審査並びに撤廃し、行政立法によって宗教活動を管理することを禁止する。宗教団体(宗教活動の場を含む)が登記を経て初めて合法的な地位を獲得する従前の許可制度を廃止し、いかなる審査も伴わない届出制に代える。
以上については、ダライ・ラマ法王及びチベット亡命政府の立場と完全に一致し、歓迎すべき方針と言えるでしょう。
問題は次です。
<自治について>
18. 連邦共和:平等・公正の態度を以て地区の平和と発展の維持に参与し、一個の責任ある大国イメージを創り出す。香港・マカオの自由制度を維持する。自由・民主の前提の下、平等な談判と協力的な対話の方式を経て(台湾)海峡両岸の和解計画を追求する。大いなる智慧を以て各民族共同繁栄の可能な道筋と制度設計を探索し、民主・憲政のシステムの下、中華連邦共和国を建立する。
「連邦共和」という言葉は一見、ダライ・ラマ法王及びチベット亡命政府が現状目指している「中国の枠内での高度な自治」と一致しているようにも見えますが、実はここではっきりと言及されているのは香港・マカオと台湾のみで、チベット、東トルキスタン、南モンゴルなど自治区の扱いについては「各民族共同繁栄の可能な道筋と制度設計を模索」という極めて抽象的な書き方がされている部分があるぐらいで、"共存"の方向性は見えるものの、"自治"については明確に書かれてはおらず、「制度設計を模索」というどの方向へ向かおうしているのかが不明確な書き方がされているだけです。
「連邦」との言葉が使われていますが、地方にどの程度の自治権が与えられるか、この条文からだけでは極めて不透明です。
また、以下の言葉も気になるところです。
(中国語の"一個"は英語の"a/an"と同程度に扱われがちですが、この場所で殊更に使われていることが私には少々気になります)
「中華連邦共和国」
それから、「結び」の部分で使われている、
「中国は世界の大国として」
「中華民族」
結局のところ、08憲章派も「中華思想」からは一歩も抜け出せてはいないのではないでしょうか。「民族」という言葉も、上記の「18. 連邦共和」条文の「大いなる智慧を以て各民族共同繁栄の可能な道筋と制度設計探索し」という部分と「結び」の「中華民族」の2箇所でしか使われておらず、民族問題がどのように考えられているか全く見えてきません。「各民族共同繁栄」という言葉にも、私には辛亥革命当時の「五族共和」というまやかしと同じにおいが感じられてなりません。
人権・宗教問題の面では見るべきところがありますが、自治・民族問題に関しては「連邦共和」の言葉に踊らされて安易に期待を寄せるのは禁物でしょう。彼らがこれらの面についてどう考えているのか、表明を待つべきかと思います。
そもそも、「08憲章」は中国の市民たちにどれだけの影響力を及ぼし得るのでしょうか。
中国国内での広まりはインターネットだけが頼りですが、中共当局のインターネット規制はご存知の通り徹底的で、またインターネットと縁が無い最下層の人々に対してどうアピールするかという問題もあります。
憲章がどこまで影響力を発揮できるか、また不足している内容の補足があるか、チベットの味方となり得るのか ―― 今後も注目と見極めが必要となるでしょう。
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ご意見はわかりますが、まず最初に大枠を立て、仲間を募るという点で緩やかなラインが必要と思われます。
求めすぎることは却って運動を失敗させます。
また清朝は中国ではないという注1もやや疑問です。
支配民族ではありましたが、漢民族の民衆はその30倍くらいいたのではないでしょうか。
チベット問題が最重要課題ではありません。
「大国」は私は方法として使ってもいいと思います。
もう大人なんだから、しっかりしなさい、という論法です。
「中華」は私たちも「中華料理」と一般名詞で使っています。
言語習慣として見てもいいと思います。
民主主義が真の意味で根付けば、少数民族問題も見えてくるでしょう。
政府の逆鱗に触れる問題はあえて言及しないのが政治的方法です。
もちろん地下資源の問題などもあります。
やや難点もあるかもしれませんが、完璧を求めるべきではないでしょう。
彼も歴史的限界の中にある存在です。
藤重様
コメントありがとうございます。
まずはっきりさせたいは、私がこのサイトで08憲章を取り扱っているのは、同憲章がチベット問題解決のなり得るか、という観点からであるということです。
拙速や求めすぎは禁物なのは分かりますが、チベットはもはや、中国の民主化を待っていられない、というところまで追い詰められているのです。では民主化されればチベット問題は解決されるのか、ということもこの憲章からは楽観的なビューは見えにくいです。
「チベット問題が最重要課題ではない」というのは、一般的には勿論そうでしょう。しかし、私にとって一番重要なのはチベット問題ですので、このような書き方となったことをご理解いただければと思います。
> また清朝は中国ではないという注1もやや疑問です。
もう一つはっきりさせたいのは、満洲・モンゴル・チベット・ウイグルを中華民族固有のものとする「中華思想」を私は真っ向から否定している、ということです。この考え方から、私は漢人の国である明国や中華民国と、満洲人の国である清国とを別物として扱っています。
満洲の地は歴史上、一時的に漢人の支配下に置かれたことはあるものの、後金そしてそれに続く清朝は漢人の国である明からは完全に独立した存在であり、現在の中国東北地方に満洲人の国家(清)があり、中原の地に漢人の国家(明)が別々に存在すると言う構造でした。そして、漢人の国家は満洲人の国家に滅ぼされ、世界地図から消えてなくなります。辛亥革命の結果、1912年1月に南京で漢人による中華民国臨時政府が発足した時にはまだ清王朝は存在し、翌月宣統帝が退位することで今度は逆に満洲人の国家が世界地図から消えてなくなります。中華民国の憲法は清国で制定された「欽定憲法大綱」とは別の流れで制定されます。
このように、清国は明国とは全く別の国として存在した国であり、中華民国は漢人が明国の失地を奪回したものである、と考えれば、清国はあくまで征服王朝であって明国や中華民国とは異なる流れのものである、という考え方は十分に成り立つかと思います。
同様の考え方から、私は元朝も中国とは思っていません。あれは間違いなく、中国ではなくモンゴルです。
(こうした考え方は、チベットを支援する人たちの間では結構されています)
「中華思想」は決して過去のものではありません。現在も漢人の間で根強い考え方です。私はどうしても「中華」という言葉という言葉と中華思想・華夷思想を切り離して考えることができません。
ついでに言えば「中国」という言葉も「中華明国」「中華人民共和国」の略であるので好きではないのですが、別の呼び方を使うと右翼と間違えられかねないので自粛し、嫌々ながら「中国」の呼び名を使っています。
> 「大国」は私は方法として使ってもいいと思います。
> もう大人なんだから、しっかりしなさい、という論法です。
あ、なるほど。そういう捉え方もありますね。
あの国の人が「大国」という言葉を使うとつい覇権主義と結び付けてしまいますが、その前の「責任ある」という言葉を考えると、ここではそう解釈した方がいいのかもしれません。