バス憧れの大地へ

雑記ブログ

バンコク 乗り継ぎ待機中

現在、ネパールのカトマンズに向かっています。
今回の訪問は、『100人100旅』第5弾の印税をネパール・パタンの孤児院ハッピーホームに寄付することが目的。約10人の参加者が現地集合で集います。

本格的な報告は帰国してからになるかと思いますが、現地からもその様子を(Facebookやmixiも含めて)できる限り送信したいと思います。

現在は、タイのバンコクにて乗り継ぎ待ち。カトマンズ行きは10時15分発。バンコクに着いたのが4時過ぎで、待ち時間6時間…
現在6時15分。まだ4時間ある。

長い…

旅の詳細はこちらから

100人100旅第6弾『100色で描いた世界地図』出版記念パーティー

100人100旅第6弾「100色で描いた世界地図」徹夜明けでまだ軽く頭痛がしつつも、昨日の「100人100旅第6弾 出版記念パーティー」の余韻にまだ酔いしれている。

第2弾、第5弾の出版記念パーティーに参加してからというもの、パーティー企画部スタッフはやりたくてたまらない念願だった。第6弾に参加して、真っ先にしたことはパーティー企画部に名乗りを上げたこと。オープニング動画の原案作成、エンディング動画作成担当となり、そしてパーティー途中のゲーム(クイズ)のチーフとなった。

オープニング動画は、動画作りの名手・若杉君が見事な手腕を発揮してくれた。「無茶な注文をして申し訳ない」とお願いする側が恐縮する一方で、彼は逆に「もっと写真はありませんか?」「直前だったけどクオリティにちょっと不満があったので手直ししました」と超ノリ気で素晴らしい作品を作り上げてくれた。パーティーの最初に流されたその動画を目の当たりに、私は潤む涙腺に「始まったばかりだぞ。まだ早い!」と言い聞かせるばかりだった。
100人100旅第6弾出版記念パーティー オープニング動画
ゲームは机上の計画通りにはなかなか進まず、司会をやってて途中でテンパってしまったり、時間が押して8問中6問しか出題できなかったりと残念な分も出てしまったが、「いい企画だったよ」「盛り上がったよ」とのお言葉を頂いた時には「やってよかった」と心の底から思った。本を作り上げることが100人の協力が無ければなし得なかったのと同様、今回の企画もサポートスタッフの協力がなければ成立しえなっかった。彼らと、ゲームを楽しんでくれた参加者の皆様にはどれだけ感謝しても足りないくらいだ。
エンディング動画では参加した筆者全員の名前がロールで流され、最後は「企画 100人100旅プロジェクト」で締め。「みんなで作った本」を強調するためにさまざまな意見が出された甲斐があって「あれに感動しました」との声を幾つも頂いた。

運営のために奔走して食事も、会話も、サイン交換も殆どできなかったが、そうした声を頂いていると、そんな小さなことはどうでもよくなり、参加者みなさんの笑顔が充実感だけを心にもたらしてくれる。

これで「100人100旅第6弾」の活動は一通り終わったが、使い古された言葉で恐縮ではあるが、「終わりは始まり」。ここで出会った旅人たちの縁と絆は、ここから始まるのだ。

100人100旅第6弾 出版記念パーティー

皆さん、ありがとう…
皆さん、宜しくお願いします…

(Facebookより転載)

糸満-2(2012年5月4日)

説明文が詳細だったこともあって、ひめゆりの塔で思いの外時間を費やしてしまった。近くの食堂で「ひめゆりそば」と名づけられた沖縄そばを昼食にして、次の場所へと向かう。

次の場所は、ひめゆりの塔から東へ4kmほど行った所にある平和祈念公園。ひめゆりの塔と同様、先の沖縄戦による戦没者たちを悼むことを目的とした施設だが、ピクニックやバーベキューを楽しむ人々もいて憩いの場所にもなっているようだ。
まずは、この公園で一際目に付く平和祈念堂に入る。奥に進むと巨大な仏像が安置されていて、台座の下には各都道府県や世界各国から寄せられた平和を願う石が展示されていた。しかし、それらの石の贈り元となった国の中には、未だ他国と戦闘状態にある国もある。平和を唱えることと平和を維持することの違い、平和を維持することの難しさがそこに暗示されているようにも思われた。
平和祈念堂
平和祈念堂

海へ向かって足を運ぶと、無数の黒い石の壁が地面から生えるようにして並んでいる。「平和の礎(いしじ)」と呼ばれるこの石の壁には、1つ1つにおびただしい数の人名が刻まれている。ここに刻まれている名前の持ち主は全て、国籍・軍人・非軍人の別を問わず沖縄戦などで亡くなっていった人々だ。即ち、これらの黒い石の壁が林立する光景こそが、沖縄戦がいかに惨憺たるものだったかを象徴しているのだ。
そしてその先にあるのが、この公園の象徴的な場所である、平和の火だ。この火が海に面する断崖絶壁の上に灯されているということは、沖縄発の平和の願いが「世界」へ向けられているということに他ならない。
平和の火
平和の火。後ろに見えるのが平和の礎

その他、この公園内にある摩文仁の丘には、各都道府県が建立した慰霊碑が建ち並んでおり、平和への祈りが全国規模で行われている。

平和への思いを新たにして、那覇への帰路に就く。

途中、喜屋武岬へちょっと寄り道。本島最南端に果てしなく近い場所にあるこの岬もまた、沖縄戦で多数の自決者を出した悲劇の場所であり、「平和之塔」が建てられている。
喜屋武岬
喜屋武岬。左に見えるのが今回の“足”となった自転車
喜屋武岬の平和之塔
喜屋武岬の平和之塔

更にその近くにある具志川城を訪れているうちに16時半になってしまった。自転車を貸してくれたNPOは18時までしか営業していない。あと1時間半で那覇に戻らなければ…
もはや脚はパンパンになっていたが、とにかく必死になって自転車のペダルをこいだ。そして17時50分――ぎりぎりで自転車を返すことができた。

糸満-1(2012年5月4日)

本日は那覇から南へ自転車で向かう。ゆいレール美栄橋駅近くにあるNPO法人「しまづくりネット」さんでマウンテンバイクを借りて、AM9時40分、いざ出発。

目指す場所は、糸満。目的地までは20kmほどなので、信号待ちなどを考えたとしても大体2時間弱で着くことができるだろう。
往路は主に国道331号の路肩を走って行った。ちょっと怖いのは確かだが、歩道を走るのに比べ凹凸が少ないので、車道の方が遥かに走りやすい。しかし、途中で間違って高架の車道に入ってしまった時はさすがにおっかなびっくりになった。

出発から約1時間15分後のAM11時前、沖縄本島南西端に近い琉球ガラス村に到着。予定には無かったがせっかくだから寄ってみた。
ここでは琉球ガラスの製品を作る匠の技を直接見ることができ、且つその作業を体験することもできる。私も体験してみたかったが、待ち時間が長そうだったのでそれはやめておいて、ガラスの器作りの作業を見るだけにとどめて次の場所へと向かった。
琉球ガラス村
琉球ガラス村の匠の作業

次に向かったのは、琉球ガラス村から程近い場所にある、ひめゆりの塔。日本人なら誰もがその名を知っているであろうこの場所こそが、この日最大の目当てだった。
第2次大戦終戦直前、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女生徒たちが看護師として駆り出され、米軍の南進に伴い沖縄本島の南端まで逃れることを余儀なくされる。そして1945年6月18日、突然の「解散命令」で行き場をなくした彼女たちは戦場を逃げ惑い、ある者は米兵に殺され、ある者は自決していく。ひめゆりの塔は彼女たちの魂を鎮めるため、87名という最も多くの犠牲者を出した沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の上に建てられた慰霊碑である。
入り口では、献花が1束200円で売られていた。私はそれを1束買って、ひめゆりの塔の前に供えて深々と祈りを捧げた。
ひめゆりの塔
ひめゆりの塔

塔の近くにはひめゆり平和祈念資料館が建てられている。入場するとまず、“ひめゆり”の生き残りたちの生々しい証言を綴った映像が上映されていた。
展示では、彼女たちが戦争に巻き込まれていく様子や、米軍が沖縄本島の北から攻めてきて彼女たちが南へと追い詰められていく様子が描かれている。展示終盤では、彼女たちの生々しい証言が特大の本にされてそれが閲覧できるようになっている。
ひめゆり平和祈念資料館
ひめゆり平和祈念資料館

まだ人生これからという少女たちが戦争に巻き込まれていき、そして死んでいくことだけでも十分すぎる位の悲劇だ。しかし、よしんば生き残ったとしても、教師を目指していたはずの女学生たちが看護士として戦場に駆り出され、負傷兵の痛々しい傷口を目の当たりにし、そして目の前で同級生たちが、恩師たちが死んでいくのを目の当たりにしたことは、青春真っ盛りの少女たちの心にどれほどのトラウマを残したか計り知れない。
資料館では生き残りのひめゆりが語り部として、来館者に自らの体験談を涙ながらに語っていた。思い出したくもないことだろうに…彼女たちに敬意を抱かずにはいられない。

それにしても文字による説明が多いな、と思っていたところ、最後の展示室でその謎が解けた。生き残りの語り部もいつまでも生きていられる訳でもないので、彼女たちが他界した後のことを考え、来訪者の方々がより詳細にひめゆりたちの悲劇を理解できるよう、2004年のリニューアルでこのような形になったとのことだ。
確かに、その時はいつか間違いなくくる。しかし、語り部として1日でも長く生き抜いていただきたいということ以上に、戦争という悲劇に青春を奪われた分、そして非業の死を遂げていった学友たちの分、彼女たちには長生きしてほしいと切実に思う。(もしかして彼女たちにとっては『生き残ってしまったこと』自体が辛い、という側面があるかもしれないが、それでも私は敢えてそう言いたい)

那覇-2(2012年5月3日)

宿を出て真っ先に向かったのは、食事処。
実は、日本の国内線に乗るのが15年ぐらいぶりだった私は、日本の国内線で機内食サービスが無くなっていたことを知らず、搭乗前に食事をすることも準備をすることもせずに那覇まで昼食抜きで来てしまったのだ。
近所の商店街に入って、沖縄の昼食はこれ!と決めていた沖縄そばを頂く。今回注文したのは、スペアリブのような肉が乗ったソーキそば。肉はボリュームがあるが、麺とだしはあっさりとしていて食べやすい。
ソーキそば

この日は時間が無かったので、訪れたのは那覇歴史博物館ぐらい。尚氏王朝の簡単な展示があったほか、終戦~返還に至るまでの那覇の歴史が写真を中心に展示されていた。
30年近くアメリカ政府の統治下で、米ドルが通貨として使われ、車が右車線を走っていた時代が、沖縄にはあった。その間、大規模なデモが何度も行われていて、「返還」の悲願は私が想像していた以上に強いものだったことが窺い知れる。
ふと、同じように異国に支配されている我が愛しきチベットのことが頭をよぎった。米政府はまだまともだったが、それでも沖縄にはこれだけの苦悩があったのだ。今チベットを支配しているのは完全に頭のイカれたカルト集団であり、激しく弾圧されているチベット人の苦悩は想像を絶するものがある。

その他は、国際通りやその近くの土産物屋などが軒を並べる商店街をぶらぶら散策するだけで、この日は終わった。
那覇の国際通り
国際通り
那覇の商店街
賑わう那覇の商店街

本格的な沖縄巡りは、明日からだ。

那覇-1(2012年5月3日)

正午すぎ、雨に濡れた羽田空港の滑走路をANA1407便が飛び立つ。臨時便とのことだったが、ゴールデンウィーク(GW)の後半4連休の初日とあって席は全て埋め尽くされていた。
2時間45分のフライトの後、東京の悪天候が嘘のようなすっきりとした天気の中、真っ青な海を眼下に機体が降下していく。目的地の空港はその真っ青な海のすぐ側にあった。

到着した場所は…

那覇!

那覇空港
那覇空港

はい、すみません。今回は4連休しか取れなかったので、国内旅行です。まあ、国内の中でも最果ての地ではあるが。
実は、私にとって沖縄は今回が初の訪問となる。

空港から街へはモノレールの「ゆいレール」で移動。
ゆいレール

今回お世話になる宿は、目抜き通りの国際通りから平和通りの商店街を抜けた場所にあるステラリゾート。名前だけ聞くと豪華なリゾートホテルを思い浮かべるかもしれないが、実は格安のゲストハウス(私がそんな所に泊まる訳が無いw)。ドミトリー(壁とカーテンで仕切られていて限りなく個室に近い)なら1500円の格安宿だ。
ステラリゾート
ステラリゾート内部
ステラリゾートのドミトリー
ステラリゾート内部のドミトリー

ここを拠点に、いざ沖縄巡り開始だ。

100人100旅・「旅PHOTO」写真展@東京・新宿タリーズコーヒー

私も参加している『100人100旅第5弾 旅PHOTO―旅人からの贈り物』参加者が作品を持ち寄った写真展が東京・代々木、函館、名古屋を巡回して再び東京に戻って来て2012年4月1日~30日の間、新宿御苑近くのタリーズコーヒー新宿二丁目店にて開催されています。

100人100旅写真展@タリーズコーヒー新宿二丁目店

100人100旅写真展@タリーズコーヒー新宿二丁目店

100人100旅写真展@タリーズコーヒー新宿二丁目店
※写真はいずれも3月31日深夜の設営作業時のもの

約40人の旅人たちが世界各地で撮ってきた自然・街・世界遺産・人の素敵な写真を一杯のコーヒー代を支払うだけで楽しむことができます。

新宿までお越しの際はぜひお立ち寄りを。コーヒー片手に世界旅行の気分はいかが?

レー行き航空券確保

さて、昨日も書いたように、インド・ラダック行きに向けて必要なものを揃える以外にあとやらなければならないのが、海外旅行保険の申し込みと、ラダックの中心都市レーへの航空券を確保することだ。いつもなら陸路でチャレンジするところなのだが、今回は早めにラダック入りしたい事情があるし、デリーに夜中に到着するのであの悪名高いぼったくりタクシーの客引きを回避する意味でもそのまま空港に居座った方がよさそうだという思惑もある。

さて、海外の国内線のチケットを買うならやはりネットでEチケットを手配するのが一番いい。「Delhi Leh flight」で検索してみると、幾つかヒットした。大きく分けて、ドル建てで120ドル前後のサイトとルピー建てで3000ルピーちょいのサイトがある。Google検索で「120ドル」とか「300ルピー」とかを検索してみると自動的にレートを計算してくれるのでやってみると、
 120ドル≒9200円
 3000ルピー≒5000円
どう考えても後者の方がお得だ。

ということで、Cleartripというサイトで申し込むことにした。時刻は5:05、5:45、8:50などがあったが、値段の安さなら5:05か8:50のGoAir便(3083ルピー)だ。余りに早く行き過ぎて宿や店が閉まっていてもつまらないので、私は8:50のものを選んで予約した。

よし、これでレー行きの足は確保できた。

海外旅行保険は、先日ギリシャへ行った時の会社でリピーター割引を適用してもらう。帰国日が未定だが、オープンの航空券に一応付いている帰路の日付(帰りは前倒しになる予定)で申し込んだ。

ちなみに、東京←→デリーのチケットは既に確保済み。トラベルコちゃんで見つけた往復7万8800円(サーチャージ・諸費用込み)という大変お得なチケットである。

インドビザ受領(2011年)

昨日申請したビザの受け取り時間が、今日の夕方5時~5時半だった。近づく台風を少し恐れつつ、傘を手にして茗荷谷のインドビザ申請センターに赴く。

5時すぎに到着してみると、入り口に向かって長蛇の列――まあ、昨日あれだけ混んでいたのだから、このくらいの列はできるだろう。
しかし幸いなことに、回転は速かった。並び始めて10分そこそこで、インドビザが貼り付けられたパスポートを受け取ることができた。「過去10年間に訪れた国」の中にしっかり「Pakistan」と書いても全く問題なし。無事発給された。

この日一番心配だったのはむしろ、台風の影響だったのだが、念のため持って行った傘も全く出番無し。並んでいる間に大雨という最悪のケースも回避できた。この調子で、現地でも天気に恵まれてほしいものだ。

さあ、後は必要なものを買い揃えてパッキングするだけ――いや、他にもデリー→レーの航空券も予約しておかないと。

インドビザ申請(2011年)

いろいろ考えるところがあって・・・

少しの間、社会人をお休みすることにしました。

ちょっとリフレッシュしたい気持ちもあり、すぐに次の進路を決めるのではなく、

久々に、1か月以上の旅に出ることにしました。

(旅をするために辞めた訳ではありません。辞めたのを機に旅に出るのです、念のため)

そこで本日、東京・茗荷谷にある(当時)インドビザ申請センターに行ってきました。
そう。行先はインドです。

同センターに着いたのは午前11時前。しかし館内には想像以上に大勢の人が――観光、ビジネスと様々な目的があるでしょうが、インドは日本人にとってかなりメジャーな行先となっていることを物語っていた。
整理券番号は129。しかし、到着した時に呼び出されていたのは70番台――午前中に申請できれば翌営業日にはインドビザが貼り付けられたパスポートが戻ってくるのですが、これは午前中に申請できるかな・・・

しかし、途中からペースが上がってきたのか、午前11時50分すぎには110番台に入ってくれました。これは、ぎりぎり行けるかな、と思っていたところへ、インド人の職員が
「午前中は140番まで申請を受け付けます」
とアナウンスした。よし、これで週をまたがずにパスポートを受け取れる(本日は木曜日)。

正午直前、私の番が回って来た。窓口の職員に申請書を提出して、まず言われたのは
「インドだけの訪問ですね」
ということ。これには訳がある。最近になって、インドのマルチビザには一度インドを出たら2か月はインドに再入国できないという摩訶不思議な規定ができたのだ。一度インドを出て2か月以内に再入国したい者は別途旅行計画書を提出しなければならないので、上記の質問となったのだ。
「前にインドへ行かれたのはやはり観光ですか? でしたらここ(『過去のインド渡航歴』の欄)にも“Sightseeing”と書いて下さい」
――あ、記入例に書いていないから忘れていた。

こうして、無事インドビザ申請は終了。あとは明日の夕方にまた受け取りに出向くばかりだ。

それにしても、この申請センターの内部、人が多いからか節電でエアコンが効いていないからか、暑い。申請書を書いていてポタポタと玉の汗が出てきた。
まあ、インドへ行くならこの程度の暑さは耐えられないと――とはいえ、私は今回、デリーに到着したら空港施設を一歩も出ずに、涼しいと思われる場所へとそのまま飛んでしまうのだった。

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