カンボジア
- 概要
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北西でタイと、北東でラオスと、東でベトナムと国境を接し、南はタイランド湾に面した、メコン川下流域に位置する東南アジアの国。
古くはフナン(扶南)という王国が栄え、7世紀にはその配下にあった北方クメール人のチェンラ(真臘)がフナンを滅ぼして栄えるが、8世紀、ジャワ王国のシャイレンドラ朝支配下に入る。
9世紀、ジャワ王国から独立してアンコール王朝(クメール王朝)が始まり、12世紀にはクメール美術が栄えてアンコール・ワットやヒンドゥー教の名刹が建設され、ジャヤーヴァルマン7世の時代には都城アンコール・トムを中心に全盛期を迎える。
13世紀に入るとモンゴル元朝、次いでシャムの侵攻を受け、1432年にはシャムに首都アンコールを占領される。その後もシャムやベトナムの侵略・干渉が続く。 19世紀に入るとフランス領インドシナの一部としてフランスの保護国となりプノンペンに遷都。シャムからアンコールの地を取り戻す。
20世紀、日本軍がインドシナ半島に侵攻した際、シハヌーク国王によって1945年3月に独立が宣言。日本の敗戦で再びフランスの保護領に戻るが、1953年までに完全独立を果たす。
しかしベトナム戦争で国内は不安定になり、1970年、親米のロン・ノルがクーデターを行いシハヌーク派を追放。クメール共和国が樹立される。内戦は激化して全土が空襲に曝され、数十万人が犠牲になった。そうした中、ポル・ポトらが率いる毛沢東主義極左勢力クメール・ルージュが台頭し、1975年、ポル・ポト政権が成立。同政権下では大量の虐殺と大干ばつによる飢餓で100万人もの死者が出る。1979年にベトナムに亡命したヘン・サムリンを擁立したベトナム軍が侵攻しポル・ポト政権を打倒。その後ベトナム三派(ポル・ポト、シハヌーク、ソン・サン)とベトナム、ヘン・サムリン派との間で内戦が続く。
1989年、ベトナム軍が撤退。1990年の東京会議、1991年のパリ協定を経て1992年、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による平和維持活動が開始される。1993年5月には民主選挙が実施され、同9月、新憲法が発布され、シハヌークを国王とする立憲君主制のカンボジア王国が誕生した。こうして内戦は終結したが、内戦当時に仕掛けられた地雷は今なお残り、日本などの支援で除去作業が進行されている。農業が主産業で人口の3分の1を占め、その他漁業、林業、縫製産業、アンコール遺跡群を中心とした観光業が盛ん。
熱帯モンスーン型気候に属し、雨期(6月~11月)と乾期(12月~5月)に分かれる。
民族は9割がクメール人で、その他ベトナム人、漢人など。
9割以上が上座部仏教を信仰している。人口約1480万人、面積18万1000平方km、首都はプノンペン。通貨はリエルだが一部で米ドルも通用する。公用語はクメール語。日本との時差は-2時間。
コンセントの形状はA 、C
- ビザ(日本人の場合)
- 期間の長短に関わらずビザが必要。国境でアライバルビザ取得可能。観光ビザの期限は30日で、個人での延長申請は難しい。
- 日本からのアクセス
- 日本からの直行便はなし。ベトナム、タイなどで乗り継ぎを。ベトナム、タイからは陸路でもアクセスできる。
- 主な都市・観光地(青字は到達済み)
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プノンペン、キエンスヴァイ、ウドン、バベット、シアヌークビル、コッコン、ケップ、コンポントラチュ、コンポンチュレイ、コンポンチャム、クラチェ、ストゥントレン、ブンカム
シェムリアップ(アンコール遺跡群)、バッタンバン、ポイペト
- 当旅行記の該当部分
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アジア周遊第8部 カンボジア、ベトナム、ラオス
・ポイペト-シェムリアップ~カンボジア入り直後の悪路
・アンコール・ワット-1~夢の遺跡に到達
・アンコール・ワット-2~美しきレリーフ
・アンコール・トム~レリーフに彩られた城塞
・ベンメリア~“天空の城”のモデル
・アンコール遺跡東部-1~密林を抜けてプレ・ループまで
・アンコール遺跡東部-2~タ・プロームの不気味な夕刻
・アンコール・ワット-3~サンライズ
・アンコール遺跡北東郊外~バンテアイ・スレイとクバール・スピアン
・地雷博物館、キリング・フィールド~内戦繰り返すまじ
・プノンペン-1~首都の活気
・プノンペン-2~内戦繰り返すまじ(2)
・プノンペン-3~ワット・プノンと影絵芝居
・キエンスヴァイ、チョロイ・アンピル~メコンとシルク織り
・プノンペン―ホーチミン~ベトナム入り