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世界への旅(旅行記)

モロッコ

マラケシュ-2 ~史跡地区を歩く

2013年10月27日

ひっそりとした朝のジャマ・エル・フナ広場
ひっそりとした朝のジャマ・エル・フナ広場
モロッコでの最初の一夜が明けて、まず変わったこと――それは、月の最終日までまだ数日あるのに、前日でサマータイムが終了し、この日から通常時間に戻ったことだ。即ち、前日までは日本との時差が-8時間だったところが、この日からは-9時間になることになる。
そして朝一番で表に出ると、そこにはもう一つ、大きく変化したものがあった。それは、昨夜の喧騒が嘘のように人けが無く、ひっそりと、だだっ広く地面に横たわるジャマ・エル・フナ広場だった。ほんの数時間前にはこの広場に生命が宿っているとすら思えたものだが――間違いなく、この広場は夜行性である。

広場すみのカフェで朝食をとった後、この日はまず、メディナ(旧市街)南部の史跡地区を訪れた。

アグノウ門
史跡地区の入り口・アグノウ門
アル・マンスール・モスク
アル・マンスール・モスク

ジャマ・エル・フナ広場から南へ約1km歩いた場所にある、いかにも歴史のありそうな重厚なアグノウ門が、史跡地区巡りのスタート地点だ。
門をくぐるとまず、アル・マンスール・モスクの立派なモスクが出迎えてくれる。そのモスクに隣接する奥まった場所にひっそりとたたずんでいるのが、サアード朝の墳墓群である。
サアード朝の墳墓群
サアード朝の墳墓群のアル・マンスール王の墓
敷地内では、建物の内外に幾つもの細長い墓石が横たわっているが、いずれも鮮やかなタイル張りの床の上に横たえられている。身分によって墓石の大きさにも差がつけられているようで、モスクの名前にもなっているアル・マンスール王の墓は他の墓に比べて一際大きい。その他は、それより1回りも2回りも小さく、中には棺の場所を示すと思われるタイルが貼られているだけで墓石の無いものもあった。
この墓地は後の王朝が建てた壁に囲まれてしまったために空から見えるようになるまで忘れられた存在になっていたという。ようやく日の目を見るようになってよかったと思うべきなのか、ここに葬られた人々も安らかに眠りたいだろうに、大勢の観光客に静けさを破られてしまって少々気の毒だ、と思うべきなのか…。

そして、サアード朝の墳墓群のある城壁内には近くにもう一つ、歴史遺産があるが、そこに至る唯一の道が一度城壁の外に出て大回りして行かなければならず、私は先ほど通ったジャマ・エル・フナ広場から続いている道が城壁に突き当たる交差点に戻り、そこからまた城壁に入ってその場所を目指した。

エル・バディ宮殿
広大なエル・バディ宮殿
エル・バディ宮殿
現在では廃墟になっている

エル・バディ宮殿は15世紀に、先ほどから名前が出ているサアード朝のアル・マンスール王によって造られた宮殿だ。その広大な敷地に当時のサアード朝の権勢を窺い知ることができるが、その後アラウィー朝によって破壊されてしまい、現在では屋根の上にコウノトリが巣を作る(上の写真にちょっとだけ写っているが、お分かり頂けるだろうか?)廃墟となってしまっている。
バヒア宮殿
バヒア宮殿中庭
バヒア宮殿
バヒア宮殿内部

そのアラウィー朝の統治下で19世紀に新たに建てられたのが、バヒア宮殿だ。城壁で隔てられてはいるが、エル・バディ宮殿跡とは目と鼻の先にある。
こちらは現王朝の手によるものだけあって、極めてしっかりと保存されてる(前年に改修工事が行われていたこともあるのだろうが)。外から建物の全体像を窺うことこそできなかったものの、中に入って目に飛び込んでくる華やかさは目を見張るばかりだ。白、青、オレンジのタイルで幾何学模様が床に描かれた部屋、細やかな絵で彩られている天井とそこから1本の長い鎖で吊るされたシャンデリア、白を基調とした明るく洗練された中庭…。
イスラム建築ではあるがステンドグラスなどに西洋的な趣も感じられるのは、この国が狭いジブラルタル海峡を隔てただけでヨーロッパに接しているからなのだろう。

取りあえずは今回の旅で初めて、本格的なアラブの芸術と建築美に触れることができ、非常に満ち足りた気持ちで史跡地区巡りを締めくくることができた。

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