バス憧れの大地へ

世界への旅(旅行記)

韓国、モンゴル

ウランバートル-5 ~日本人霊堂とマンホールチルドレン

午後の時間がまるまる残っていたので、ゲストハウス近くの民族歴史博物館、自然史博物館、チョイジンラマ寺院と渡り歩いてみたが、元日のためどこも閉館。そこで翌日目指そうと考えていた郊外の日本人霊堂日本人墓地跡を訪れることにした。
まず目指すは日本人霊堂のあるダンバダルジャー寺院だが、アクセスについて手元のガイド本にはこう書かれていた。

スフバートル広場より20番バスか、フラワーセンター前より3番バスに乗る。終点ひとつ手前のゾーンユスドゥゲール・ツェツェルレク(第109幼稚園)で下車。

そこで私は20番のバスでまず終点まで行き、そこからバス停ひとつ歩いて戻るという方法を採った。
ところが、バス停ひとつ歩いてみても、寺院らしきものは全く見当たらない。試しにもうひとつ歩いてみたが、それでも見つからない。地元の人に尋ねてみても要領を得ない。
[これはだめだ。今日は宿に戻って、情報を集め直してから明日もう一度探そう]
私は終点ふたつ前から3番のバスに乗り、ウランバートル中心へと引き返し始めた。
と、乗車してから2つ目のバス停を過ぎたところで、右手に立派な寺院が見える。もしや、と思った私は、次のバス停で下車して引き返してみた。

果たしてその敷地内には白壁の堂が建っており、看板にはこう書かれていた。

ダンバダルジヤ寺院
(もと・日本人収容アムラルト病院あと)
モンゴル殉難日本人霊堂
入口
モンゴル革命.日の丸団隊49柱、ノモンハン事件(バルハ河戦)9471柱、
モンゴル抑留1687柱の霊譜はじめ「日モ関係資料」 (春日行雄提供)

日本人霊堂
日本人霊堂
やはり、この寺だった。何が「終点ひとつ手前」だ。4つも手前ではないか。
まあ、それは置いておくとして、肝心なのはこの霊堂のことである。
看板からもある程度読み取れるように、ここには第2次大戦中に満州でソ連軍に捕らえられ、モンゴルで強制労働に従事させられて死んでいった、或いはノモンハン事件で死んでいった、或いはモンゴル革命に巻き込まれて死んでいった旧日本軍の兵士たちの霊が祀られている。
アジアにおける旧日本軍の侵略行為を容認することはできないが、ここに祀られている旧日本兵たちは加害者であると同時に被害者でもあるのだ。中には入れなかったものの、私は霊堂の前に立って、彼らの鎮魂を祈念した。

霊堂の背後には、チベット式の堂が建っている。私はそちらにも赴き、正面から祈りを捧げた後、マニ車を回しながら堂の周りをコルラした。
ダンバダルジャー寺院の堂
ダンバダルジャー寺院の堂。
子どもたちがたむろしている
コルラを終えたところで、堂の近くにたむろしていた子どもたちが寄ってきた。
"Hello !"
"Where are you from ?"
などと、英語で話しかけてくる。その人懐っこさに気分を良くして二言三言と話しているうちに、子どもたちの様子が変わってきた。
"Give me money !"
"I'm hungry !"

マンホールチルドレン・・・

モンゴルでは社会主義体制終了後、貧富の差が拡大して大量の浮浪児が発生した。寒さの厳しい冬には外で寝られないのでマンホールに住みついていることから「マンホールチルドレン」と呼ばれている。
この子どもたちはそのマンホールチルドレンに相違なかった。(後から知ったのだが、この寺ではマンホールチルドレン支援の拠点でもあった)
彼らの声は悲痛であり、その姿は哀れであった。しかし、支援するなら真っ当な方法で食べていけるよう導くものでなければならない。個人的にお金や食べ物を恵むことは、「たかりの構造」を助長し彼らに「金は恵んでもらうもの」という意識を植え付けるだけである  ――  幾ら冷徹と思われようと、やはり個人的に恵むことはできなかった。
私は心を鬼にして、彼らを振り切って次の目的地へと向かった。
しかし、やはり心は痛かった。

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