インド巡り総括 ~「人が生きる」ことそのものについて
チベットに続き、ここで今回のインド巡りを総括したいと思う。
「インドに来ると人生観が変わる」とよく言われる。
私の場合、今回の旅の中で仏教の影響を強く受け始め、人生について ―― いかによりよく生きるか、ということを考え始めるようになった。仏教の影響を受けるようになる直接の契機はチベットでだったが、インドでもダラムサラでダライ・ラマ14世のティーチングを拝聴したことが大きかった。
しかし、一番大きく影響を受けたのは、自分自身の人生をどう生きていくか、ということよりも、「人が生きる」ことそのものに対する考え方だ。
インドには貧しい人々が大勢居る。
彼らを見ていて思ったことは、彼らは私たちよりもはるかに"生きることに必死"であるということだった。
生きるために物乞いをする人…
生きるために人を騙したり、ぼったくりを働いたりする人…
多かったのは、そうした人々だった。
必死になって生きている人には、エールを送りたくなるものである。
しかしインドには、素直にエールを送ることができない人々が余りに多い。
ダラムサラでのダライ・ラマ14世の法話の中で、仏教の"五戒"に関する話があった。
"五戒"というのは、
(1)殺生をしない(2)邪淫をしない(3)盗みをしない(4)嘘をつかない(5)アルコールを飲まない
というものである。
(5)の「アルコールを飲まない」はともかくとして(私には守れそうにない)、他の4つに関しては、仏教に限らず、全ての人々が守るべき戒めであろう。
しかし現実には、強盗殺人、売春、泥棒、詐欺 ―― 生きるためにこれらのことすらする者もいる。
インドには、詐欺或いは詐欺まがいの者が特に多かった。
その他、他人の迷惑を省みずにしつこく勧誘してくる者もいた。一番許せないのは、違法ドラッグや麻薬を外国人に売りつけて一儲けしようとする輩である(買う馬鹿がいるから売る馬鹿がいる、という見方もできるが…)。
生きるために必死になることは、人として当然の権利である。
しかし、そのために道を誤ったり、“良く生きること”を放棄したりした人生に、どれだけの価値があるというのだろう。
―― “人生”とは、ただ単に“人が生きる”ということではない。
―― “人として”或いは“人らしく”生きるということではないのか。
それから、バラナシで火葬の様子を見たこと、コルカタのマザー・ハウスでの奉仕活動で死と隣り合わせで生きている人々の姿を見たことで、人の“生”と“死”についても考えさせられた。
自らの死をリアルに感じるようになった人が、自分が“良く生きること"ができたか否かを走馬灯の如く考えた時、“良く生きること”を放棄した人はそこで大いに苦しむことになるだろう。いやあるいは、そんなことすら考えるに至らないほど倫理観が失われてしまっているかもしれない。その場合には、(天国と地獄というものがあるとして)気づいたら地獄行き、ということになるだろう。
今回のインドの旅で、私はある意味確かに、"人生"というものを今まで以上に真剣に考えるようになった。
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