バス憧れの大地へ

世界への旅(旅行記)

満洲(2002年)

瀋陽・1 ~後金と“九・一八”

2002年9月17日

瀋陽は遼寧省の中心地であり、歴史的には2つの意味で大きな顔を有する街である。
その一つが、清朝の前身である後金の都という顔である。 昭陵
ホンタイジの墓・昭陵
宝頂
ホンタイジの墓標・宝頂
市街の北にある北陵公園には、太宗ホンタイジ(皇太極)の墓・昭陵(北陵)があり、まずはそこに足を向けた。
いかにも中国の公園の朝という太極拳など、庶民の息遣いを感じながら北陵公園を奥へと歩くと、昭陵の門が見えてくる。
近世以降の中国の大人物の墓は、明の諸皇帝や孫文の墓に代表されるように、宮殿のような形態のものが多く、この昭陵もまた然りである。高い壁で囲まれたエリアの一番奥にメーンの“宮殿”(隆恩殿)があり、そこに到る道をはさむようにして、左右に建物が向き合っている。
ホンタイジとその皇后の遺体もこの宮殿の地下に葬られていると思いきや、大きなドーム型の彼らの墓標(宝頂)は、隆恩殿の背後に当たる、壁の外側にあった。
明の萬暦帝の陵墓・定陵などと比べると規模、豪華さともに引けを取るが、これは統一王朝の絶頂期の皇帝と、これから中国に進出せんとする王朝の皇帝との差なのであろう。地下宮殿まで造ってそこに自らを埋葬させた萬暦帝よりも、宮殿の外にややつつましく埋葬されたホンタイジの方が、好感を持てる。
後金ゆかりの場所は他にもあるのだが、そこへ向かう前に、私は瀋陽のもう一つの“顔”を見に行くことにした。もう一つの顔とは即ち、九・一八事変(いわゆる満州事変、狭義には柳条湖事件)の舞台という顔である。
1931年9月18日夜10時、瀋陽市内にある南満州鉄道の柳条湖区間の線路が爆破される。下手人は日本の関東軍だったが、当の関東軍はこれを中国側になすりつけ、その勢いで中国東北地方一帯を占拠し“満州国”を建国した。 九・一八事変博物館
九・一八事変博物館
柳条湖の爆破現場には現在、九・一八事変博物館が建てられている。
バスを降りて博物館に到着すると、そこには赤いジャージを着た中学生たち数百人、ずらりと並んでいた。愛国教育の一環で、社会見学に来たようである。その人数の多さに、私は焦った。
(いけない、この集団とかち合ってしまっては、自分のペースで参観できない)
私は慌ててその集団を追い越し、博物館に入場した。
この博物館の展示は、1928年6月4日、張作霖が爆殺された皇姑屯事件(いわゆる奉天事件。奉天とは満州国時代の瀋陽の呼称)に始まり、柳条湖事件およびその翌日の撫順・長春占拠から翌年3月の“建国宣言”に到る流れや、その後起きた平頂山事件、安東事件(いずれも関東軍による虐殺事件)などについて、写真や遺物を交えて詳細に説明している。中途半端な知識しか持ち合わせていなかった私にとってはいい復習・補填となった。
上に名前が出ている張作霖に関連して、瀋陽の中心部には張作霖と張学良がかつて暮らした宮邸・張氏帥府がある。時間の都合で中までは参観しなかったが、奉天軍閥のトップとして飛ぶ鳥を落とす勢いだった様子が、外からその宮邸の概観を見ているだけでも想像できる。
祖国が蹂躙されようとするのに立ち向かわんとする矢先の謀殺 ―― 張作霖の無念は計り知れない。
(蛇足だが、彼の息子・張学良は、私がこの地をおとずれた時のほぼ1年前・2001年10月15日、米国ハワイにて、73年ぶりに父と対面すべく旅立った。享年101歳。合掌)

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