漓江上り ~水墨画の世界
1991年3月22日
朝になると、幾分気分は良くなっていた。
まずホテルが用意したタクシーでバス停まで行き、そこからバスに乗り込み、船着場へ向かう。
客には日本人学生が何人かいて、体調を崩している私にとっては、少し心強かった。
いよいよ、漓江下りだ。
女性ガイドが同行したが、なかなかチャーミングで、たちまち人気者になった。今まで見てきた中国人とは、どこか顔立ちが違う。
考えてみると、桂林は広西壮(チワン)族自治区に属する都市だ。
もしかすると、彼女もチワン族だったのかもしれない。
(余談だが、桂林を発つ際、1人の青年から「少数民族体育大会」と書いたバッジをもらった。彼は間違いなく非漢民族だ)
それにしても、船着場への道のりが、異様に長い。到着した場所は、通常の川下りの終点の街・陽朔…。「漓江下り」ならぬ「漓江上り」だった。
それでも、川から奇岩の数々を望む水墨画の世界を十分に満喫することができた。
漓江から見た奇岩の光景
地面から生え出るようにそびえ立つ数々の岩と、空と、静かな川の流れ…。これらが三位一体となっているところが、漓江が名勝たるゆえんなのだろう。
同じように見えて、同じ光景は一つとして無い。
時折見られる現地の人の小船などが、その光景に素朴な雰囲気を醸し出している。
写真を撮りまくり、すれ違う遊覧船の人々と手を振り合う ―― これが、旅の醍醐味だ。
昼食は、船内で。
割合きちんとした料理が出てきたのだが、何分にも昨日の今日。その上食堂があまり清潔(中国でこれを求めるのが間違い)ではなかったので、いま一つ食欲が沸かなかった。
昼食後、再び景色を楽しむ。
甲板で、台湾から来たという老人と出会った。私を含む日本人学生らを相手に、流暢な日本語で話をしてくれた。
「日本語、お上手ですね」と、日本人の1人が言った。すると、老人は
「台湾は戦前、日本が支配してましたからね。支配下政策で、私の世代の台湾人は皆、日本語が話せますよ」
―― がく然とした。
戦前の日本が近隣諸国に多大な被害と苦痛を与えていたことは、知識としては知っていたが、実感したのはこれが初めてだった。
(中国旅行中、以後私はそれを何度も実感することになる)
「もはや戦後ではない」と高らかに言われたのは、私が生まれる前。
冗談じゃない。
“戦後”は、今なお、続いている…。
いろいろな意味で感銘を覚えた遊覧の旅だった。
1991年3月23日
夜8:30発の長沙へ行く列車の切符をホテルの関係者が手配してくれるというので、それまで再び桂林市内巡りで時間つぶしだ。
駱駝岩
七星公園も奇岩の宝庫であり、七星岩や駱駝岩が見ものだ。
駱駝岩は、その名の通り、ラクダそっくりの形をしているのだが、これが天然のものだというのだから驚きだ。
一体、これらの岩は、どのようにしてできたのだろう。自然の営みの神秘に、感嘆せざるを得なかった。
また、ここにも鍾乳洞があったが、やはりライトアップされており、風情という点ではいまひとつだった。
その後、桃園飯店に戻り、大学で日本語を学んでいて、春休みで帰って来ているという、ホテルのフィルム店の男性と雑談を楽しんだ。
途中、前日の川上りのガイドの女性(彼とは友達らしい)も一時話の輪に入ってきて、その場は大いに盛り上がった。
突然、彼が問い掛けてきた。
「社会主義をどう思いますか?」
折しも、その数年間に、天安門事件や、ベルリンの壁崩壊など、社会主義を取り巻く環境を大きく変化させる出来事が相次いでいる。
―― 純度100%の資本主義がいいとは思えない。しかし、中国共産党が目指しているものが正しいとも思えない。
「社会主義の国で生活したことがないので、よく分からない」
私には、そう言葉を濁すことしかできなかった。
その後、約束通り切符を手配してもらった夜行列車に乗って、次の目的地・長沙へと向かった。
しかし、桂林で起こした食中毒は、後々まで私を苦しめることになる。