広州 ~カルチャーショック
1991年3月16日
香港から陸路で、今回の旅の主目的である中国に入国。深圳の羅湖駅に到着した。しかし、香港での案内人の遅れが原因で、予定していた列車に乗れなくなってしまった。国境を越えた後の引き継ぎの案内役も「アイヤー」と憮然としていた様子だ。私に中国語の心得が少々あると分かると急に愛想がよくなり、千円札を人民元に替えたりしてくれた。
ただし、その後の夕食は私持ちだった(遅れたのは私のせいではないのに…)
そして結局、買えたのは別の列車の座席無し切符だった(いわゆる“無座”)。勿論座席に空きは無く、デッキに座り込んで、中国入り。
今後の旅の前途多難さを、暗示するかのようだった。
やがて、列車は広州に到着。駅で現地旅行社の職員と合流し、ようやくホテルに落ち着いた。
1991年3月17-19日
朝、ホテルをチェックアウトすると、昨夜私を出迎えた旅行社の職員が声をかけてきた。
「この次は、どこに行くつもりだ?」
今回の旅で私が考えていたのは、太平天国の足跡をたどるようにして、広西―武漢―南京、上海を巡ろうというものだった。しかし、太平天国が挙兵した広西の金田村は、未開放地区なので外国人は行くことができない。同じ広西チワン族自治区で興味をそそられる場所といえば、やはり桂林だろう。
「桂林に行こうかと思う」。私は彼に答えた。
「どうやって行く?」。彼はさらに尋ねてきた。何らかの切符を手配してくれるということなのだろう。しかし、私の頭はこの時から既に、可能な限り自力で、という考え方に支配されていた。
「自力で行くよ」。私がそう主張すると彼は「難しいぞ」と、やや不満げに私の前から去った。
ここから先は、案内人もなし。完全な自由旅行だ。
安宿を求めて、広州車站大酒店に移る。安いのはいいのだが、駅の2階にあるのでうるさく、当時の中国としては典型的なほどに服務員の態度が悪く、部屋もベッドが置いてあるだけの、独房のような殺風景さだった。
中山紀念堂
広州は、革命の街。
アヘン戦争の際、農民がイギリス軍の侵略に抗議して蜂起した地であり、革命の父・孫文が生まれた街であり、彼を記念した中山紀念堂が見ものだ。
私は大学でこのへんの時代を専門に研究していたので、興味を持ってこの街を歩いたが、そうでない人にとっては、少しばかり退屈に思えるかもしれない。
しかし、それを抜きにしても、カルチャーショックを受けるには十分な街だ。
特に印象に残っているのは、駅前の光景である。出稼ぎ労働者でごったがえしており、何やら猥雑な雰囲気を醸し出している。
(これが、世界一人口の多い国の省都か…)
初めて異文化に触れたせいか、今にして思えば、少々過剰に感じてしまっていた気もする。
六榕寺
一方で、六榕寺、陳氏書院、五仙観など落ち着ける名所もあり、いいバランスが取れていた気はする。
初日の夜、駅から少し離れた食堂で夕食をとった。
「ビールが飲みたいなあ」と思い、訳も分からず「ビール」と中国語で書かれた札を指差して、店員に「これを」と頼んだ。
「え、これを?」。その女性店員はなぜか変な顔をしたが、ブツブツ言いながら奥にさがった。
持って来られたビールを見て、店員のその態度の理由が分かった ―― 私は1人で、ピッチャーを頼んでしまっていたのだった。
それでも、残してしまってはもったいないし、料理も割合美味しかったので、酒も進み、結局全部飲み干してしまった。
周りの中国人も、笑って私を見ている。
言葉の不自由な所でのコミュニケーションの難しさを、初めて実感した一幕だ
3日間の滞在の後、私は船とバスを乗り継いで、桂林へ向かった。
桂林では、旅のハイライト・漓江下りが待っている。