岡山100名城(1)―岡山城、津山城
2023年10月7日
午前10時前、羽田空港からのJAL便で岡山に到着。今回の城巡りは岡山と、東広島の8城を目指す。
リムジンバスで岡山駅へ。駅近くの宿に大きな荷物を預け、岡山市コミュニティサイクル「ももちゃり」を活用して早速、1つ目の城・岡山城(100名城 No.70)へと向かう。
岡山城は戦国時代、宇喜多直家・秀家親子、小早川秀秋、池田氏が城主となった城だ。岡山市内を南北に流れる旭川河畔の高台に建つ平山城で、旭川を天然の堀としている格好だ。現在公園として整備されているのは本丸のみだが、往時はその周りに二の丸などの曲輪が、現在の柳川筋に当たる外堀まで広がっていた。
旭川沿いの石山公園近くにある廊下門から入城。階段を上った先に中の段の広場があり、月見櫓などを見ることができる。
岡山城の入り口・廊下門
岡山城中の段。奥に見えるのが月見櫓中の段の中央辺りに地下へと続く階段がある。そこにあったのは鋭角に尖った石垣だった。これは宇喜多秀家の時代に築かれた石垣で、江戸時代に中の段が整備された時に埋め立てられていたものが近年の発掘調査で再び日の目を見たのだった。
岡山城の宇喜多時代の石垣
岡山城不明門中の段を北から南へ縦断し、不明門をくぐった先の階段を更に上ると、その先が最上段である本段(上の段)だ。
そこに見えるは、天守閣。第2次大戦の空襲で焼失したのを再建したものだが、望楼型のどっしりとした安定感と黒い壁が重厚な存在感を呈している。その黒さ故に、岡山城には「烏城」の別名がある。6階、5階、3階の屋根の両端に計6匹設置された金鯱もまばゆい。
岡山城天守
黒い天守は岡山城のほか、熊本城、松本城などが知られるが、これらは「下見板張(したみいたばり)」という、外壁の下部に柿渋や黒漆を塗った板を重ねて造られたもので、これに対し、姫路城などの白い天守は漆喰を使った「白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりこめ)」という築城法が用いられている。
天守が焼失した際にも基礎部分は燃え残ったが、鉄筋コンクリートで再建するに当たって、本丸広場の別の場所に移されて今に残っている。
岡山城天守の基礎
岡山城天守の金鯱さて、天守に登ろう。天守入り口で100名城のスタンプを頂いた後、入城。岡山城ではまずエレベーターで4階まで上ってから階段で6階の最上階を訪れ、それから降りていくという順路になっている。最上階の窓からは、金鯱越しに岡山の街並みを見下ろすことができる。
城や城下町の歴史に関する展示を見ながら、階下へ。天守を出て、帰りは天守横の近道から廊下門へ直接出る。
岡山城北に架かる月見橋を渡った先には、大きな中洲が広がっている。ここに築かれたのが、水戸の偕楽園、金沢の兼六園と並んで日本三名園の1つに数えられる、江戸時代初期建造の後楽園だ。
後楽園
岡山城の天然の堀・旭川後楽園側から旭川を隔てて岡山城を望む。この位置から見ると、旭川が岡山城の天然の堀となっていたことがよく分かる。
岡山駅から13時5分発のJR津山線で、県北部へ。1時間強で津山に到着。駅から15分ほど歩いて、津山観光センター横の階段を上ったところで、次に目指していた津山城(100名城 No.67)の石垣に行き当たる。
津山城は一度廃城となったものを、織田信長家臣・森可成の六男である森忠政が1603年に津山藩主に封ぜられた後、13年の歳月をかけて今の形に築いた平山城だ。
津山城を築いた森忠政の像
津山城の石垣と石段入城して一段上の二の丸広場に上がると、更に上へ延びる石垣の上に再建された備中櫓がそびえ立つ。更に階段を上った先の、この石垣の上が本丸広場だ。
津山城備中櫓本丸広場に上がって備中櫓に入り、100名城のスタンプを頂いた後、津山城の歴史を説明するVTRを視聴。再び外に出て、その知識を踏まえて散策する。
津山城本丸広場。左が備中櫓、中央奥が天守台備中櫓以上の見どころが、20m四方、高さ6mにも及ぶ壮大な天守台だ。建物の再建こそされていない(戦前の一時期、博覧会に際して模擬天守が建てられたことはあった)が、往時には4重5階地下1階の層塔型天守がそびえていたという。
津山城天守台
天守台を上から下から散策し、その大きさを実感する。
津山城の天守閣本体は高さ22mにも及んだという。先ほど見た岡山城の高さが20.45mというから、あれより少し高い天守がここに建っていたことになる。それに基づいて想像力を働かせると、往時の壮大な城の姿が脳裏にはっきりと浮かぶ。
津山城天守台上部
津山城の本丸虎口から望む石垣と備中櫓本丸を後にする際、上からあらためて石垣とその向こうに見える備中櫓を眺めると、この城郭の規模の大きさを再認識させられた。
岡山市に戻り、この日の城巡りは終了。明日は岡山県西部の3つの名城を目指す予定だ。
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