備中高松城
びっちゅうたかまつじょう
続日本100名城 No.171
- 場所
- 岡山県岡山市北区高松(地図)
- 築城時期
- 不明
- 築城主
- 石川氏
- 主な城主
- 石川氏、清水氏、花房氏
- 分類
- 梯郭式平城
- 遺構
- 本丸跡、二の丸跡、三の丸跡、水攻め堰堤の一部、石積みの一部
- 概要
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備中松山城を本拠に備中を治めていた戦国大名・三村氏の命で石川氏が築いた城。1575年の備中兵乱で石川氏が三村氏とともに毛利氏に滅ぼされた後は、三村氏から毛利氏に臣従した清水宗治が城主となる。1582年、織田信長の家臣・羽柴秀吉の中国攻めに籠城して抗戦するも城を堰堤で囲まれ水攻めに遭い、落城寸前に追い込まれたが、毛利輝元自らが吉川元春、小早川隆景とともに救援に赴いたことで膠着状態となる。その中、信長が本能寺の変で死亡したことを知った秀吉は宗治の命と引き換えに城兵を助命する講和を呼びかけ、結果、宗治は切腹し、秀吉は明智光秀を討つべく京都へと踵を返す(中国大返し)。その後は宇喜多領となり、宇喜多家家臣・花房正成、次いで宇喜多家旧臣・花房職秀が城主となるが、江戸時代初期の一国一城令で廃城となったと考えられる。
現在は秀吉が築いた堰堤や、城の石積みの一部が残るのみで、城の痕跡は殆ど残っておらず、宗治自刃の碑、宗治首塚・胴塚などが設けられている。城跡と堰堤跡(蛙ヶ鼻築堤跡)は国の史跡に指定されている。
- 公共交通機関による
アクセス - JR吉備線(桃太郎線)備中高松駅から徒歩8分。
- 100名城スタンプ
- 探訪記の該当部分
- 岡山100名城(2)―備中松山城、備中高松城
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